蝉・ファイナル~聖地の守護者たち~
川北 詩歩
第1話:聖地の夏
我々、アブラゼミの民、ミンミンゼミの民、ツクツクボウシの民は、この老木を「聖地」と呼ぶ。夏の陽光が降り注ぐこの一本の樹は、樹液の甘美な泉であり、恋の歌を響かせる神聖なステージだ。
ジジジジ!ミーンミンミン!ツクピーヨ!
我々の大合唱は田舎町の空にこだまし、メスを呼ぶ。これは、子孫を残すための聖なる儀式だ。ここは、メス蝉との交尾をする性地…いや、聖地だ。この老木は、地下で何年も樹液を吸って育った我々が、ついに成虫となって空へ羽ばたく楽園なのだ。
だが、この聖地には厄介な「人間」が住む。
――タカシ(38歳、独身、コンビニバイト)。
我々から見れば、汗臭い体をワナワナ震わせ、奇妙な道具を振り回す、騒々しい存在だ。彼は13年間、我々の歌を「うるさい」と罵り、聖地を脅かしてきた。
ジジジジ!そんなこと、我々には「そんなの関係ねぇ」だ!歌わずにはいられない。愛の歌を、命の歌を、この短い夏に響かせるのが我々の使命なのだ!
それにしても、過去13年間、タカシの挑戦は我々にとってはエンターテインメントだった。
13年前、彼が煙を出す『蚊取り線香』を聖地に並べた時は、樹液の味がちょっとスモーキーになっただけで、我々の歌は止まらなかった。
9年前の『蝉捕獲ネット』は、割り箸とガムテープの粗末な罠で、我々の仲間が一匹も捕まらず、タカシ自身がズボンを破って転ぶ姿に、ジジジジと嘲笑の合唱を響かせてやった。あんなお粗末なものに引っかかるほど、我々は愚かではない。
6年前の『ハーブ』は、スズメバチの大群を呼び寄せ、タカシがアパートに閉じこもる羽目になり、我々はミント風味の極上の樹液を堪能した。
4年前の『アニソン爆音作戦』では、彼が超有名なアニメソング『残酷な天使のテー○』を流した時、むしろそのリズムに乗ってツクピーヨと歌った我々の方が勝利した。
タカシの挑戦は、我々の聖地の歴史に刻まれた「愚かな人間の滑稽な物語」なのだ。
* * * * *
この夏、タカシがまた動き出した。聖地の枝に止まり、樹液をすすりながら仲間とジジジジと語らう我々は、彼がパソコンとやらの光る板を叩き、『damason』のロゴが入った怪しげな荷物を抱えて現れるのを見た。
「駆逐してやる!」と叫ぶタカシの声は、聖地の空気を震わせるが、我々にはただの人間の戯言。メスを呼び性の悦びを知るために、ミーンミンミンと高らかに歌い続ける。
タカシの最初の攻撃は『超音波式虫よけ装置』とやら。…ジジジジ?我々の鋭い聴覚には、何の影響もない。装置はすぐに電池切れで沈黙し、タカシのイライラが聖地の空に響く。
次に彼が取り出したのは「粘着テープ式トラップ」。木に巻きつけた瞬間、彼自身の服がくっつき、慌ててTシャツを脱ぎ捨てる姿に、我々はジジジジと笑いツクピーヨと囃し立て、ミーンミンミンと煽った。
タカシの「蝉め、笑ってやがるな!?」という叫びは、我々の合唱に完全に同期していた。だが、タカシの目が怪しく光った瞬間、我々は異変を感じた。
彼が手に持つのは、黒と紫の禍々しい缶。『蝉・ファイナル』と書かれたその物体は、聖地の空気を不穏に震わせる。
「覚悟しろ、貴様ら!これが俺の究極奥義だ!蝉ファイナルフラーーーーッシュ!!」
タカシの叫びとともに、白い煙が聖地を覆った。
ジジジジ!?
ミーンミン!?
ツクツクピーヨ!?
毒々しい煙が我々の翅を濡らし、樹液の香りをかき消す。仲間たちが次々と枝から落ち、歌が途切れる。聖地の空が、初めて静寂に包まれた。我々は混乱した。まさかこんなことが起こるなんて…。
タカシが「やった!ついに勝利したぞ!」と拳を天に突き上げる姿を、朦朧とする意識で見つめる。ついに奴によって聖地が汚されたのだ。だが、我々の短い命はまだ尽きていない。ジジジジ…と最後の力を振り絞りながら小さく歌う仲間もいる。
奴が缶ビールを手に祝杯をあげる背中を見送りながら、我々は次の朝を待った。
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