第4話 『鏡に映る怪物』解決編
夜半、私がヴァンスの私室に呼ばれた時、彼の机上には私の手による3冊の証言録が横一列に並べられていた。薄いランプの灯が羊皮紙めいた用紙の縁を黄金色に染め、部屋の空気には淡いインクの匂いが漂っている。ヴァンスは椅子にもたれ、指先でゆっくりと拍を刻んでいた。落ち着いて見えるが、その眼差しはいつものように、あらゆる手触りを持たぬ純度の高い集中で満ちている。
「カーター。物語が3つあれば、真実は1つだ」
彼は静かに言った。「むしろ3つの物語は、1つの真実が砕け、別々の鏡面に映り込んだ姿にすぎない。角度をそろえれば、像は戻る」
私は唾を飲み込んだ。「どこから始める?」
「もっとも派手な鏡から――夫人だ」
ヴァンスは第一のノートを開く。「彼女は『窓は閉じていた』と3度、確信を込めて繰り返した。だが現場報告は『窓は開いていた』と明記している。単なる記憶違いなら、人はためらいを見せる。彼女にはためらいがない。つまり、意図して“閉じた窓”という像を観客――我々に提示したのだ」
「密室を偽装した……?」
「厳密には“外部侵入はなかった”という印象の付与だ。彼女が描きたい悪魔は内部にいる。『あの画家が入り込む余地などなかった』という筋書きのためにね」
私は夫人の姿を思い出した。黒いヴェール、完璧な身振り、劇場で鍛えられた声の調子――彼女は証言の瞬間から、聴衆の視線そのものを舞台装置に変えていたのだ。
「次に画家だ」
ヴァンスは第二のノートをめくる。「彼は『花瓶が倒れていた』と語り、女の細工を断じた。だが割れた破片は窓の外にまで飛散していた。室内で人にぶつかった程度では、外には落ちない。ならば何が起きた?」
「……窓が開いた方向へ、力が向かった?」
「そう。争いの拍子に、窓枠近くの台座にあった花瓶が外側へ弾け飛んだ。窓が“開いていた”からこそ起きる飛散だ。報告は正しい。夫人は虚構を口にし、画家は激情で光景を誤読した。ともに真犯人の常套――“語りの改竄”と“憎悪による錯視”だ」
「だが、誰が、いつ、窓を開けた?」私は身を乗り出した。
「第三の鏡、清掃員の耳だ」
ヴァンスは最後のノートに手を置いた。「彼は『片足を引きずる靴音』を聞いた。リズムは不揃い、コツ……ズル、コツ……ズル。さらに『時計をいじる音』。カチリ、カチリ。彼は見ていない。だが耳は嘘をつきにくい」
胸に冷たい電気が走った。「新聞の小さな記事……夫人は足首を捻挫していた」
「事件直後だ。見落とされやすいが、耳は拾っていた。彼女は争いで足をひねり、引きずりながら現場を整え――いや、歪めた。窓を一時的に開け、花瓶の飛散を“外部の侵入”へ転化する証拠に見せかけ、最後にまた窓に触れた。その過程のどこかで、彼女は『窓は閉じていた』という言葉を先に決め、記憶を上塗りした」
「だが、時計は?」
「夫人の最大の誤算だ。懐中時計が9時で止まっていたという断言。彼女は“最期の瞬間を刻む”という慣習的な寓話に頼った。だが清掃員は“いじる音”を聞いている。ゼンマイに触れ、針を合わせ、再び止めたのだろう。動揺した者は、象徴に救いを求める。彼女は“死の時刻”を作り、悲劇を整えた。――整えすぎたのだ」
私はページの端を無意識に折り曲げていた。彼女の完璧なヴェールの織り目から、確かに糸がほどける音がする。
「では、経緯を――」
ヴァンスは椅子の背から身を起こし、斜めの影を床に落とした。「再構成しよう。被害者と夫人は展示室で言い争いになった。理由は、愛情ではなく名誉と金に近いものだ。互いの弱点を握り、声を荒げるうち、台座の花瓶にぶつかり、窓の外へ飛ばしてしまった。その瞬間、夫人は踏み外し、足をひねる。痛みと恐怖。彼女は衝動的に、あるいは強く突き飛ばし、男は倒れ、致命の一撃となる。――ここまでは偶発だ」
私は息を詰めた。「そこからが、彼女の物語作り?」
「そう。彼女は窓を開け放ち、部屋を走り回って痕跡を散らし、すぐに“侵入者”の幻影を立てることもできた。だが彼女が選んだのは逆説――『窓は閉じていた』という、密室の嘘だ。なぜか? 侵入者像は警察が最初に疑う。ならば、彼女が最初から強固に否定しておけば、追及の矛先は“身近な嫉妬”へ向かう。つまり、画家だ。世論は彼女の一声で転ぶ。新聞は餌に群がる。彼女は舞台の観客席を熟知している」
「でも、そのためには時計が要る。凍結した時刻、悲劇の鐘……」
「それゆえ、清掃員の耳に“カチリ”が残った。完璧な嘘は、いつも音で綻ぶ。靴音――捻挫の拍。時計――作為の拍。そこにだけ、観客に見せる気のなかった“生活のリズム”が滲む。私は音の証言を重く見る」
私の脳裏に、3つの場面が同時に映った。
黒いヴェールの裏で、夫人の呼吸が浅く早く上下する。
アトリエで、画家が空のグラスを握り潰しそうな力で握っている。
作業室で、清掃員が埃を払う手を止め、耳の奥に残ったリズムに顔を歪める。
どの視点も、真実の全体ではない。だが3つの不完全が、今、1つの線へ収束しようとしている。
「逮捕は?」私は囁くように聞いた。
「まだではない。彼女に、最後の幕を下ろさせよう」
ヴァンスは立ち上がり、帽子を取り、私に目配せした。「展示室だ。舞台は同じ場所で閉じるべきだ」
*
夜の美術館は、昼の輝きが嘘のように静まり返っていた。私とヴァンスは管理人の許可を得て展示室に入り、割れた花瓶の欠片が回収された窓辺に立った。外は冷たい風。夜景の灯がガラスに揺れ、私たちの影を二重に映す。
そこへ、黒いコートに身を包んだエリザベス・ローレンス夫人が現れた。彼女はこの場を“別れの祈りのため”と言っていたが、ヴァンスは一通の手紙を彼女に示した。清掃員の供述書写しである。
「夫人。あなたの敵は、画家でも世論でもない。音です」
ヴァンスは指で窓枠を軽く叩き、細い拍を作る。「ここから外へ飛んだ花瓶。開いた窓。あなたの足首。時計の針。――あなたが作った物語の外側に、生活の音が残った」
夫人はヴェールの下で目を細めた。「探偵さん。あなたは、私を何者にしたいの?」
声は震えず、むしろ静かだった。舞台に立つ女優が、初めて観客に素の声を届ける時のように。
「私は、あなたを“怪物”にはしない」ヴァンスは言った。「あなたが人間であることを示す。人間は恐れ、過ち、そして物語を紡ぐ。あなたは恐れた。評判、資産、そして孤独を。偶発の死のあと、あなたは世界を操作できる唯一の道具――“語り”に手を伸ばした」
「違うわ」夫人は一歩、窓辺へ進んだ。ガラスが薄く鳴る。「怪物は私ではない。怪物は、あなた方の視線よ。女に求められる嘆きの形、未亡人の正しさの型。私はその型に、ただ従っただけ」
「もしそうなら、時計は触らない」ヴァンスの声は淡々としていた。「時計は儀式だ。あなたは儀式で世界を整え、観客の涙腺に“時刻”という楔を打った。――清掃員は、その音を聞いた」
夫人の指が、窓枠の塗料を爪でなぞった。白い粉が微かに落ちる。
「あなたは、私が押したと言いたいのね。彼は転び、頭を打った。私は恐怖で足を――」
「捻った」ヴァンスが引き取った。「そして片足を引きずり、窓を開け、花瓶の飛散が物語の小道具として十分に効果的であることを確認し、時計を合わせ、最後に窓へ“閉じていた”という言葉の封印を施した。夫人、あなたの言葉は鋭利過ぎた。鋭利なものは、いつも光で自らの輪郭を晒す」
長い沈黙が落ちた。遠くの廊下で、管理人の靴音が小さく鳴っては消える。夫人はやがて肩の力を抜き、窓から視線を外した。
「……彼は、私なしで世界を選んだのよ。才能も、美しさも、誉れも、私の手を離れて、あの女たちのサロンへ向かった。私は“妻”という名の幕を閉じられるのを見ていた。あの夜、私が押したのは背中ではなく、幕だったのかもしれない」
ヴァンスは目を伏せた。「法は、幕の名を問わない。行為を問う。あなたは自分の物語で自分を守ろうとした。だが物語は、真実の端に触れると燃える」
夫人は微笑んだ。奇妙に静かな、終幕の微笑であった。「なら、あとはあなたの物語で閉じればいい。探偵さん。私を怪物にしても、人間にしても。あなた方が選ぶ。私は、拍手の音を聞くだけ」
彼女は両手を差し出した。白い手袋が擦れる音が、やけに澄んで響いた。
私は合図を送り、廊下の先の警官が静かに進み出た。手錠が落ちる微かな金属音。夫人は抵抗せず、ただ天井の暗がりを見上げていた。やがて彼女は振り返りもせずに歩き出す。足取りはわずかに不自然で、清掃員の語ったあのリズムが、再び床を伝って私の胸に届いた。
*
部屋に2人だけが残ると、ヴァンスは窓を閉め、鍵をかけ、割れた花瓶の台座に掌を置いた。
「カーター。彼女は怪物ではない。怪物は、我々の語りが生む。夫人はそれを誰よりよく知っていた。だからこそ、語りに手を伸ばし、そして敗れた」
「では、我々は何者だ?」私は問うた。「真実を語る者か、それとも、より精巧な語り手か?」
ヴァンスは薄く笑った。「真実はいつも、物語に救いを求める。私はただ、砕けた鏡の角度を合わせたにすぎない。読者――いや、観客が納得するのは、像が連続し、因果が一本に繋がる時だ。窓、花瓶、靴音、時計。4つの欠片が同じ方向へ指した。納得とは“指が同じ星を差す瞬間”のことだよ」
私は長く息を吐いた。胸のざわめきが、次第に静まっていく。
窓は最初から“開いていた”。花瓶は“外へ”飛んだ。靴音は“片足を引きずる”。時計は“誰かが合わせた”。――すべての語が、いま、同じ文を成した。私はノートを閉じ、ランプの灯を指で覆った。暗闇に目が慣れると、展示室のガラスに、私とヴァンスの影が並んだ。どちらの影も、怪物には見えなかった。
「ヴァンス」私は言った。「次は、どの鏡だ?」
「次の事件が割ってくれるさ」
彼は帽子を取り、ドアへ向かった。「そして我々は、また角度を合わせる」
廊下へ出ると、夜気が一斉に押し寄せた。私は背後の展示室を振り返る。暗がりのガラスに、遠い街灯が小さく瞬く。誰の目にも、ただの光の点でしかない。だが私には、その点が、今夜合わせ直した1本の因果の線の、確かな終点のように思われた。
*
数日後、新聞はエリザベス・ローレンス夫人の逮捕と、動機の不明瞭さを伝えた。世論は掌を返し、いくつかの紙面は昨日までの見出しを恥じるように、慎重な口調へ戻った。清掃員サミュエルの名は、どこにも出なかった。彼の耳が救った真実は、紙面の上では一滴のインクにもならない。だが私は知っている。雑音の中の拍こそ、この事件を動かしたのだと。
夫人の叫びは最後まで変わらない。「怪物は私ではない。怪物は、あなた方の心にいる」
私は時折、その言葉に頷きたい衝動に駆られる。人は誰しも、恐れを形にするために物語を作る。その物語が肥大して、やがて誰かを飲み込む時、私たちはそれを“怪物”と呼ぶのだろう。
だが同時に、私はヴァンスの言葉も忘れない。納得は、ただの感情ではない。因果の線が一本に揃う時、人は静かに頷く。納得が生まれる場所に、救いがある。私はその救いのために、これからも記すのだ。
事件の記録の末尾に、私は短く書き添えた。
「鏡は割れていたが、像は戻った。怪物の名は、語りの影だった」
――了――
⸻
読者のみなさまへ(いいね・評価のお願い)
ここまでお読みいただきありがとうございます。
本作は「三者の語り」と「フェアプレイの手がかり(窓/花瓶/靴音/時計)」を突き合わせ、因果を一本に結ぶことで“納得”を目指しました。もし少しでも面白かった、続きが読みたい、ヴァンスとカーターの新作を見たい――と感じていただけましたら、いいねや評価で応援していただけると、とても励みになります。
感想や考察のコメントも大歓迎です。あなたの「もう一つの視点」が、次のミステリーの鏡になります。ありがとうございました。
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