第3話 中編――豪華客船の密室
第3話 中編――豪華客船の密室
朝の海は、夜のざわめきをまだ胸の底に抱いていた。〈アトランティック・スター〉の甲板に立つと、風は冷え、薄い塩の膜が肌に貼りつく。私は手帳を胸ポケットに戻し、手すり越しに波間の稜線を見下ろした。
「カーター君」探偵レオン・ヴァンスが横で言った。「船の上では、時刻はしばしば鐘と揺れで測られる。だからこそ、そこに“隙”ができる」
「つまり、昨夜の“何時”という証言は、疑ってかかるべきだと?」
「うむ。では、もう一度“声”を集めよう。嘘ではなく、衣擦れと息遣いのほうを」
最初に来たのはクラリッサ・グレイだった。黒のモーニングガウンはよく仕立てられ、袖口の絹は朝の光を薄く返す。彼女は手袋を外しかけて躊躇し、結局、指先だけを覗かせた。人差し指の側面に細い切創があり、昨夜よりも赤みが薄れている。
「訊問は短く願いますわ、先生。胸が少し……」
「昨夜、午前一時前後。どこに?」とヴァンス。
「自室に戻る途中、廊下の角で言い争う声を耳にしました。男性が二人。ひとりはベネットさん。もうひとりは……声の端に、なにか湿り気のある…」
「湿り気?」
「息を飲む癖とでも申しましょうか。思い当たる方はいるのですが、確証はありません」
彼女は視線を伏せ、手袋をはめ直した。絹がかさ、と乾いた音を立てる。その音が妙に耳に残った。
「そういえば」彼女は思い出したように付け加えた。「ノックが二度。軽く、間を置いて。そのあと、鍵の金属の音が一度」
レナード・クロスは、寝不足の顔に冷水をひと筋引いたような冴えを浮かべて現れた。
「私は部屋で帳簿を。証人はない。だが質問には答えよう」
ヴァンスは笑いもせず、男の胸ポケットから覗く細い金属線に目を落とした。
「それは?」
「模型の補修用だ。船を見ればいろいろ試したくもなる」
線材の切口はきらりと新しい。ヴァンスは話題をそらした。
「昨夜の揺れを覚えているかね?」
「ええ。0時45分に一度、1時10分前後に二度。グラスが鳴った」
揺れの記憶は正確だった。だが時刻の精度が“正確すぎる”のもまた、疑いの種になる。
船医ヘンリー・マイルズは白衣ではなく、紺の作務衣のような室内着で現れた。袖には消毒薬の匂いが染みている。
「死因は頭部打撲。致死性の薬物反応はなし。鎮静剤は微量が胃内から検出されたが、死因ではない。小瓶が一本紛失しているのは確かだ」
「鍵は?」
「医務室の戸に。しかし、鍵は人を安心させるための道具に過ぎない」
彼は淡々と続けた。「一時過ぎ、医務室の廊下を軽い足取りが二往復。躊躇いのある歩き方だった。片方の靴の踵に小さな欠けがあるのか、コ、トンと不規則な音が混じる」
老伯爵エドマンド・ローウェルは、杖の先で床を軽く叩きつつ、私たちに会釈した。
「昨夜は――一時半までサロンに」
「演奏は零時三十分で終わっています」と私。
「そうであったかな。耳がね。だが覚えておることもある。赤い裏地のガウンが、廊下の曲がり角にふわりと。香水の香りが柑橘めいておった」
彼の袖口には白い粉が散っている。私は指先で触れ、舌にわずか付けた。甘くない――松脂よりは、白粉に近い粉気だ。
「どこでこれは?」
「カード台だよ。年寄りが手に汗をかくと、滑る。係の娘が粉を貸してくれた」
エリオット・ハートは、目の下にうっすらと青い影を抱え、しかし笑みを崩さずにやってきた。
「演奏は零時半に終えました。ぼくは零時五十分に部屋に戻っています。途中、赤い裏地のコートを見た。人影は角を曲がって消え、顔は分かりません」
「カードのデッキの件を」
「Aが一枚欠けていました。悪戯でポケットに入れるのは子供のすることですが、昨夜は誰かが本気で“演出”したらしい」
彼は掌で小さなカードの華麗なカットをやってみせた。紙の角が空気を切り、さっ、と乾いた音が出る。
「あなた、カードに蝋を使うことは?」とヴァンス。
「端を固めたいときに少し……でも昨夜は、していません」
聴取の合間、ヴァンスは現場の客室へ向かった。私は玄関扉の下端の隙間に膝をつき、昨夜見つけた透明の糸屑を思い出す。絨毯の毛足はドアの方へ細く寝ており、糸が引かれた帯のように見えた。
「カーター君、少し実験を」
ヴァンスは使用されていない客室の鍵を借り、内側からフック型の補助錠を下ろすと、廊下に出た。私は室内に残る。
「ドアの下からカードを差し入れる。カードの端に細く蝋を塗り、糸を両面に軽く貼り付け、端に小さな結び目。よろしい?」
カードの一端が隙間からぬらりと入り、床を這ってゆく。私は息を止め、フックとドアの隙間を注視した。やがて、カードの角がフックの下に入り込み、紙がわずかに反る。
「引くよ」
廊下側から糸がしゅっと引かれる。フックはほんの数ミリ、上へ。紙はぶると震え、もとの位置に戻った。
「もう一度」
二度目で、ふっとフックが跳ね、かちりという微かな金属音が室内に落ちた。私は思わず目を見開く。
「鍵は?」
「外れている」
ドアが音もなく開いた。ヴァンスはカードをもう一度室内側から拾い上げ、角を見せた。細い溝状の擦れが新たに一本刻まれている。
「昨夜のベネットの部屋。スペードのAの縁にも、これと同じ溝があった。蝋の汚れも」
「カードは“象徴”ではなく“工具”……」
「そして揺れだ」ヴァンスは床の帯を指した。「昨夜、船は一時十分前後に二度強く揺れた。糸がたるみ、張り、またたるむ。その周期は機関の鼓動と近い。待てば、鍵は自然に“わずかずつ”上がる」
私たちは息を整え、甲板で潮風を肺に流し込んだ。私は手帳に走り書きした。
――カードの角に擦れ。蝋。糸。
――絨毯の帯。透明の糸屑。黒い糸(太糸)一本。
――黒鉛の擦れ(テーブル角)。鉛筆を楔に?
――揺れの時刻と回数。
――赤い裏地。白粉の粉。踵の欠け。
――C.G./R.C./E.H. の頭文字。
「さて、誰が、どう動いた?」私は問う。
「まだ欠けている。音と匂いだ」
「匂い?」
「柑橘めいた香水――老伯爵が言ったね。赤い裏地の影。踵の欠け。そして“ノックは二度、鍵の音は一度”。二度目のノックは合図、一度の金属音はフックが落ちた音。落としたのは外からだ」
ヴァンスは片頬を持ち上げ、サロンの方角に目を細めた。「船医の証言も効いている。“軽く、焦る足音が二往復”。躊躇いのある足音は、普段そこを歩き慣れない者のものだ」
昼下がり、再び関係者を集めて現場近くの客廊で質問した。狭い廊下に人いきれが滞り、海の匂いに香水が混じった。
「ベネット氏の部屋へ昨夜ノックをしたのは誰だ?」ヴァンスの声は低いが通る。
沈黙のあと、クラリッサが一歩出た。
「わたくしです。話がありましたので。しかし返事はありませんでした」
「二度、叩いた?」
「ええ。間を置いて」
「そのとき、踵は?」
彼女は目を瞬いた。「踵?」
「コ、トンと鳴る踵。欠けているのでは?」
クラリッサは静かに笑ってみせた。「今は修理済みですわ。婦人の履き物は繊細ですもの。昨夜のうちに靴屋に頼みました。船にいる靴屋さんに」
ヴァンスは船員に目配せし、小柄な靴修理係が呼ばれた。
「昨夜、直したのは?」
「奥様の右の踵でさぁ。一時を過ぎたころでしたかね。釘一本で固定しました」
クラリッサの頬から血の気がわずかに引いた。
「赤い裏地のガウンはお持ちか?」
「……持っています」
レナードは肩をすくめた。「靴の音なら、私にも覚えがある。だがそれが彼女だとは限らない」
老伯爵は「香水は柑橘めいていた」と繰り返し、エリオットは「赤い裏地を見たが、顔は分からない」と言い、船医は「足音は軽かった」とだけ言った。
夕刻、ヴァンスは私を引き連れて船尾甲板へ出た。機関の震えが足裏から骨へ伝わり、遠くで水がぱちぱちと崩れる音がする。
「糸の二重掛けを思い出して」
彼はベンチに腰を下ろし、細い紐とカードで再現した。
「太糸で輪を作ってフックに先行させる。細糸はカードで導き、輪をゆっくり押し上げる。揺れが味方すれば、輪は自然にフックに引っかかる。そのうえで細糸を引けば、フックはすうっと持ち上がる。最後に太糸を振り切る。室内に残るのはカードと太糸だけだ」
「昨夜の現場には黒い太糸が一本、ベッド下から見つかった」
「うむ」
「黒鉛の擦れは?」
「鉛筆を楔に、カードの角度を固定した。揺れでカードが戻らないように、机の角に一瞬ひっかけてね。擦れたのはその時」
私は背筋を冷やす風を吸い込み、吐いた。「器用だな」
「『カード芸』を心得た者ならなおのこと。だが“心得た者が犯人”とは限らない。道具だけを借りた者もいる」
ヴァンスは眉をひそめ、遠くの波光をたどった。「誰がカードを用意でき、誰が糸を用意でき、誰が“踵を修理”した? そして誰が柑橘の香水を纏っていた?」
夜、私は自室で覚え書きを清書した。万年筆の先が紙を滑り、波のリズムが文に小さく刻まれる。
•物理の束:カードの擦れ、蝋、透明糸、黒糸、絨毯の帯、黒鉛の擦れ。
•時間の束:0:45の揺れ、1:10前後の二度の揺れ、ノック二度、鍵音一度、一時過ぎの踵修理。
•心理の束:C.G./R.C./E.H. への債権者のような書き付け、柑橘の香り、赤い裏地、軽い足音。
ヴァンスは書き終えた私の肩越しに、静かに言った。
「カーター君。後編で舞台に灯を入れる。だが、礼儀に従おう。まず観客に“参加”を促すのが、われわれの流儀だ」
私は頷いた。紙の上に、三つの問いが浮かび上がる。ベネットの部屋の空気には、まだスペードのAの黒の匂いが残っている。カードは小さな凶器ではない。小さな橋だ。外から内へ、不可能を渡すための。
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◆読者への挑戦状
ここまでで、必要な手掛かりはすべて提示済みです。
次の三問にお答えください――
1.犯人は誰か?
2.犯行動機は何か?(なぜこの航海で、なぜ今だったのか)
3.トリックはどう実行されたのか?(カード/糸/揺れ/鍵の音/踵の修理――これらはどの順に結びつくのか)
手掛かり一覧(再掲・要点のみ)
•枕元のスペードのA:縁に細い擦れ、微かな蝋。
•ドア下の隙間:紙一枚が通る程度。絨毯に細い帯、透明糸屑。
•黒い太糸がベッド下から一本。
•テーブル角の黒鉛の擦れ。
•船の揺れ:0:45に一度、1:10前後に二度。
•ノックは二度、鍵の金属音は一度。
•赤い裏地の人影、柑橘系の香水。
•踵の欠けを一時過ぎに修理。
•ベネットの日誌の頭文字:C.G./R.C./E.H.
•船医の証言:軽い足音が二往復。
•鎮静剤の小瓶は一本紛失(死因とは無関係の可能性)。
――答えは後編で。
波は揺れ、カードは薄く、糸は見えない。けれど、真実は見える。
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