第3話 前編――豪華客船の密室

第3話 前編――豪華客船の密室


大西洋に出た船は、都市の匂いをゆっくりと洗い落としていく。出航の汽笛から二晩、甲板に立てば潮の匂いに金属の冷たさが混じり、遠く機関の鼓動が胸板を震わせた。私はカーター。元軍医にして、探偵レオン・ヴァンスの旧友である。私たちは私用と小休暇を兼ねて〈アトランティック・スター〉に乗り、穏やかな海の上で、しばし世間から切り離される予定でいた。


夜ごと、サロンではピアノが鳴り、カードの音がかすかに重なる。客は色とりどり――資産家の未亡人クラリッサ・グレイ、若手実業家レナード・クロス、老伯爵エドマンド・ローウェル、船医ヘンリー・マイルズ、そして招かれたピアニストのエリオット・ハート。顔ぶれは華やかだったが、その中心にはいつも社交界の顔役チャールズ・ベネットがいた。笑い声とともに、彼は人の懐にするりと入り込み、やがてその心の陰を摘まみ上げる。秘密を道具にする男の、あのいやらしい器用さを、私はこれまで幾度となく見てきた。


二晩目の夜、サロンでの小さな演奏会の後、ヴァンスはグラスを傾けながら私の袖を引いた。

「見たまえ、カーター君。廊下の絨毯の端に打たれた鋲の並び――床材との段差はわずか8ミリ。扉の下端との隙間は硬貨一枚弱だ」

「休暇中に図面でも引くつもりかい?」

「休暇中に限って、道具はよく整っているものだよ」


私は笑って受け流し、サロンの卓に目をやった。そこではピアニストのエリオットが女客を喜ばせるため、トランプを使って軽業のような手つきを披露していた。彼はクラブの7をピアノの譜面台に挟み、「音のカード」などと言ってみせる。甲板からは海霧の白匂いが入り込み、グラスの縁に薄い水滴が並んでいた。


ベネットはその場にいなかった。彼はときに人目を避ける。避ける時は、誰かを個室で待つときだ。私は胸に鈍い予感を覚えたが、その夜のうちには何も起こらなかった。ただ、未亡人クラリッサの笑いが少し固い、と感じたこと。老伯爵の眉間に、若者への苛立ちが皺を刻んでいたこと。レナード・クロスが船会社の話題でベネットに苦い顔を向けたこと。船医マイルズがグラスの底を見る時間が、普段より長かったこと。そうした些末が、後で結び目を作るのだ。


翌朝、事件は起きた。

午前7時、上等室のボーイがベネットの朝食を運び、ドアを叩いた。返事はなく、ノブは内側から固くかかっている。通風孔も、丸窓も、すべて内側から締め金が降りていた。ボーイは一等航海士を呼び、航海士は船内の警備員とともに何度か呼びかけ、それでも反応がないと見るや、ヒンジ側のビスを外して扉をこじ開けた。私とヴァンスはその場に居合わせた。船医マイルズが駆けつけ、彼と私が先に部屋へ入った。


部屋は整然としていた。海を向いた丸窓は二重の犬足で固く締められ、レバーは内側に倒れている。床に倒れていたベネットの頭部には鈍器による打撲の腫れ、枕の上にはスペードのA――黒い切っ先が朝の光を吸っていた。グラスは一つ、テーブルのコースターの上に輪染みを残し、液面にわずかな濁り。私は指先を浸し、舐めた。舌にしびれはない。薬があれば微量だ。


「脈なし。瞳孔固定」船医が無感情に言う。「死後硬直は始まりかけだ。少なくとも二時間、いや、三時間は経っている」

私は枕元のカードをピンセットで持ち上げ、裏面を見た。船内カジノのスタンプ。縁の一箇所だけ、細いくぼみが走っている。糸でしごいた痕に似る。角の一つには微かな蝋の汚れ。室内のどこにも蝋燭はない。蝋が付くとしたら――封蝋か、糸の端を固めたものか。


「内鍵は?」とヴァンス。

航海士が示した。ドアには通常のノブのほか、内側に倒すフック型の補助錠があり、外からは掛け外しできない構造だ。こじ開けの際、そのフックは掛かったままだった。鍵は床に落ちていない。チェーンのような補助具はない。

「丸窓も内側から締めてありました」航海士。「室内からしか操作できません」


私は床を見渡す。ベッドの足元、絨毯の毛足がわずかに寝ている帯がドアのほうへ伸びていた。何か細いものが、床面に沿って引かれた跡。帯の先に、小さな透明の糸屑がカーペットの鋲に引っかかっている。指に載せれば、ほとんど見えない。光にかざすと、細い一本の線。

「絹糸……?」私は潰れた声で言った。

ヴァンスはうなずいた。「あるいは極細のナイロン。どちらでも、摩擦痕は残る」


室内の匂いは、香水と潮と、金属の温いにおい。それに、ほのかな消毒薬。船医がすぐ側にいるからかもしれない。私は視線を低く走らせ、テーブルの下、踵が触れそうな高さの家具の角に、黒い擦り跡を見つける。芯で汚したような、鉛筆の跡に似た黒。船の揺れで、何かがそこで踏ん張ったのだ。


航海士が廊下に向かって声を落とし、数人の名前を呼んだ。やがて、事件の周囲にいた面々が集まってくる。クラリッサ・グレイは薄青のモーニングガウンに身を包み、ルージュは薄く、しかし指先の震えは隠せない。レナード・クロスは寝不足の顔に冷たい水で線を引いたような光を宿し、老伯爵ローウェルは杖に体重を乗せて息を整えている。エリオット・ハートは髪を後ろに撫でつけ、緊張よりは困惑の色が強い。船医マイルズは無言で頷いた。


「ベネット氏が亡くなったのは残念です」マイルズが形式的に口火を切った。「昨夜は軽い鎮静剤を処方しました。船酔いの気配があったので」

「小瓶は?」ヴァンス。

「医務室に……ひとつ、行方の分からない瓶がある。が、それは昨日の昼の時点で――」

「後で拝見しよう」ヴァンスは遮り、ドアの下端の隙間に掌をかざした。「ここからは紙一枚がかろうじて通る。風は漏れないが、糸は通る」


私はカードに視線を戻す。スペードのA。

――ピアノの譜面台に挟まれていたのは、クラブの7。

あの青年はカードを持ち歩く。けれど、スペードのAとなれば、物語性が強い。『死のカード』。発見者の記憶に焼き付けるには、これ以上ふさわしい小道具はない。

「昨夜、カードのデッキを見ましたか?」私はエリオットに訊いた。

「カジノの卓で借りたデッキなら、Aが一枚欠けていました。みんな冗談を言ってましたよ。『死神がポケットに入れた』なんて」

彼は肩をすくめ、苦笑を浮かべた。「でも、ぼくはクラブの7が好きなんです。ほら、音符に似ているから」


クラリッサが口を開いた。「わたくし、昨夜遅く、廊下で物音を聞きました。午前1時前でしょうか。低い声で言い争うような……」

「どのあたりで?」ヴァンス。

「ベネットさんの部屋の、三つ向こうの角です。声は……男性、二人」

老伯爵がそれにかぶせるように言った。「わしは1時すぎまでサロンにいたはずじゃが、知らぬな。音楽が鳴っておったからのう」

レナード・クロスが短く笑った。「音楽は0時半に終わっていますよ、伯爵。僕は自室で帳簿を見ていた。声? 知りません」

言葉は、互いの上に互いを重ね、微妙に矛盾し始めた。記憶の揺れは、波と同じようにどの口からも等しく生まれる。だが、矛盾はやがて一点に集まる。私はそう信じている。


ヴァンスは室内を一巡し、丸窓の締め金に指先を沿わせた。金具の足には塩の白い結晶がほんのわずか付いている。外気に晒されるなら当然だが、火気のない室内で蝋がカードに付くよりは、こちらの白粉のほうが自然だ。

「この窓は、内側からしか扱えない?」

航海士がうなずく。「はい。レバーは室内側のみ。外からはボルトが噛んでおり、開閉できません」

「扉をこじ開けるため、こちらのヒンジのビスを外したのだね」

「ええ。内掛けフックが下りたままでしたから」


私はベッドの下の影を覗き込み、微かな繊維をピンセットでつまんだ。黒い糸が一本。さっき拾った透明糸とは別だ。長さは7センチほど、太さは透明糸よりやや太い。どこから来たものか。

「衣裳のほつれ?」私は呟く。

「あるいは、糸の二重掛けだ」ヴァンスの声は低い。「太糸で輪を作り、細糸で引き、最後に太糸を振り切る。窓も扉も、内側から閉められたように見える」


部屋のテーブルには、ベネットの懐中日誌が開きっぱなしになっていた。インクはまだ若く、昨夜の書き込みが乾ききっていない。

――“C.G. との件、明朝までに返事。R.C. は再考の余地。E.H. の『借り』は取れる。”

頭文字だけが、冷たい。C.G.、R.C.、E.H.。それぞれの顔が、静かにこちらを向いた。

「彼は人の心を帳簿にする」ヴァンスが吐き捨てる。「借りという語が好きなようだ」


ひとしきり検分を終え、私たちはサロンに関係者を集めることにした。船長は捜査の指揮をモリス警部のようには執れないが、航海士と警備員たちに命じて出入りの記録を回収させ、夜間の見回り表、サロンの終了時刻、各人の部屋への戻りを確認させた。


最初に来たのはエリオットだった。昨夜の演奏の余韻を指先に残しているのか、カフスの留め具を無意識にリズムよく弾んでいる。

「ぼくは0時半に演奏を終え、サロンで少し話をしてから0時50分に部屋へ戻りました。途中、赤い縁取りのガウンを着た女性が廊下の角に立っていたのを見た。顔は……はっきりとは」

「赤い縁取り?」

「はい。裏地が赤いように見えました。クラリッサ夫人のものかもしれませんが、確言できません」

カードの話を振ると、彼は肩をすくめた。「冗談半分ですよ。デッキのAが欠けているなんて、よくあることです」


次に来たのはクラリッサ。彼女は姿勢を正し、声を震わせまいとする意志を纏っていた。

「ベネットさんとは夫の遺産の件で話をしていました。昨夜、脅すようなことを言われましたの。『誰にとっても、夜は長い』と」

「昨夜、どこに?」

「0時40分に部屋へ戻りました。途中、ノックの音を二度。どちらも、ベネットさんの部屋のほうから」

彼女の指先に、極めて細い切り傷があった。昨夜の演奏会で拍手を送りすぎたのか、はたまた他の理由か。私はその小さな赤を、頭の片隅に留めた。


レナード・クロスは短く答え、すばやく視線を泳がせた。

「ベネットには投資の裏切りをされた。だが、私は引き際を知っている。彼が死んで得をするのは誰か――それを考えれば、私ではない」

彼のポケットから、細い金属線の切れ端が覗いた。私は目を細める。

「造船の仕事道具を持ち歩くのかね?」

「ただの趣味です」

趣味にしては、線材の切り口が新しすぎる。


老伯爵は、時刻の記憶をたびたび誤った。

「わしは1時半までサロンに……」

「0時半に演奏は終わっています」

「そうだったかの? すまぬ、耳が遠くて」

彼の上着の袖に、白い粉が点々と付いていた。松脂か、白粉か。彼は肩を竦め、「老いの粉じゃ」と笑ってみせた。


最後に船医マイルズ。

「鎮静剤は抱水クロラールだ。致死量ではない。昨夜、ベネットがそれを求めた。私は0時15分に医務室にいた。1時すぎ、廊下で誰かの足音を聞いた。軽い、焦る足音。二往復。誰かが躊躇していたのだろう」

「小瓶の紛失は?」

「私は鍵をかける。だが、船では鍵のかかる場所が、もっとも安全とは限らない」


サロンでの事情聴取を終えると、ヴァンスは甲板に出た。海は青鉄色にひび割れ、微かなうねりが船体をくぐもらせる。彼は欄干にもたれ、短く言った。

「物理は揃った。心理は半分。時間はまだ足りない」

「時間?」

「人は時計を見ない。鐘と揺れで時を測る。昨夜、この船は0時45分から1時10分にかけて三度大きく揺れた。廊下の壁掛けが鳴ったとボーイが言っていた。もし糸を使ったなら、揺れは敵でもあり、友でもある」


私は彼の横顔を見つめた。潮風が彼の口ひげをかすかに揺らし、眼差しはいつものように遠くの一点を射抜いている。

「では、前編の締めに、覚え書きを」

「どうぞ」


私は手帳を開き、箇条書きで書きつけた。


――被害者チャールズ・ベネット、頭部打撲による死亡。室内からの内掛けフックは掛かったまま。

――丸窓は内側操作のみで締め金が降り、塩の結晶がわずかに付着。

――枕元のカードはスペードのA。裏面にカジノのスタンプ、縁に細い溝状の擦れと微かな蝋。

――床の絨毯に細い帯状の寝癖、その先で透明な糸屑。ベッド下から黒い糸一本。

――テーブル下の角に黒い擦り跡(鉛筆芯様)。

――グラスに軽い濁り。船医は抱水クロラールを処方、小瓶が一つ不明。

――昨夜のサロンは0時半終了。1時前後に廊下で男の声を聞いたとの証言。

――エリオットは裏地が赤いガウンの影を見た。クラリッサの指に細い傷。

――レナードのポケットに細い金属線。老伯爵の袖に白粉。

――ベネットの日誌にC.G./R.C./E.H. の頭文字。

――カードのデッキはAが一枚欠け。サロンではカード芸が行われた。


私は手帳を閉じ、ヴァンスの目を見る。

「誰が、何で、どうした?」

「まだ言わないよ、カーター君。もっと声が要る。足音、衣擦れ、鍵の音。それから、誰がカードを持っていたか」


船は緩やかに身じろぎし、白い尾を海に引いた。休暇は終わった。海の上に、ひとつの密室が浮かんでいる。そこから覗く黒いエースの切っ先は、読む者の胸を小さく刺す。

次には、刺した手の主を見つけなければならない。


(第3話 前編・了)

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