第2話 notifications
> 【送信日時:2024年7月12日 23:01】
君が初めて教室に入ってきた日のことを、今も忘れられない。
黒板の前に立って、小さな声で「夏向深湖です」って言った君。
その声は、僕の中で今も響いている。
四月の始まり、まだ制服が新しい匂いをしていた頃。
転校生が来ると先生が告げたとき、クラスはちょっとしたざわめきに包まれた。
扉が開いて、彼女が入ってきた。
真新しいセーラー服。肩までの髪が揺れて、その奥にある瞳は、どこか遠くを見ていた。
「夏向深湖です。よろしくお願いします」
声は小さくて、後ろの席まで届いたか怪しい。
でも、不思議なほどに耳に残った。
「深い湖」――その名前の字面も、どこか物語めいていて。
僕はそのときから、彼女に目を奪われていた。
最初の印象は「静かな人」だった。
休み時間、机の上に文庫本を広げて、ひとりで文字を追っている。
クラスメイトたちが騒がしく談笑していても、彼女だけは別の世界にいた。
だけど、時々ふっと顔を上げる瞬間があった。
その目が本から離れ、窓の外に向けられるとき。
――まるで彼女の身体だけがここにあって、心は遠くの景色を漂っているように見えた。
僕が声をかけたのは、入学から数週間が経った頃だった。
「そんなに面白いの?」
図書室で同じテーブルに座ったとき、勇気を出して聞いた。
彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いて、
「うん。でも……まだ足りない」
と答えた。
「足りない?」と聞き返すと、
「読むだけじゃ、足りないんだよ。だから書くの」
彼女はそう言って、小さく笑った。
その笑みは控えめなのに、どこか燃えるような熱を秘めていて。
僕はその瞬間、心のどこかで悟った。
――この人は、普通じゃない。
---
それから僕は、彼女と一緒に過ごす時間が増えた。
放課後の図書室。
校庭の隅のベンチ。
部活動にも積極的じゃなかった僕にとって、それは居場所のようだった。
ある日、彼女はノートを差し出してきた。
「読んでみる?」
ページには、彼女の手書きの文字がぎっしりと並んでいた。
それは不思議な物語だった。
主人公の名前もなければ、舞台の説明もほとんどない。
けれど一文一文が異様なほど鮮やかで、まるで夢の断片をそのまま書き留めたみたいだった。
読み終えたとき、僕は言葉を失った。
「どう?」と訊かれて、やっと出てきた答えは
「すごいと思う」これだけだった。
彼女は少しだけ俯いて、照れたように笑った。
「ありがとう」
その声は小さかったけれど、僕には宝物みたいに聞こえた。
それからすぐのことだった。彼女は中学生の文芸コンテストで最優秀賞を取った。そして瞬く間に小説を出版した
そのタイトルは「
了解しました。
第4話は、深湖が中学3年生のときに書いたデビュー作 「小波夢(さざなみゆめ)」 の内容そのものを描く回ですね。
物語全体の中で実際に登場人物が読む「小説中の小説」として提示する形にしてみます。
「海辺の町に生まれた少女が主人公。
名前は与えられていない。
ただ『わたし』とだけ記されている。
毎夜、少女は夢を見る。
その夢には必ず一つの『波』が現れる。
小さなさざ波が、夜の海をすこしずつ侵食していく夢。
目覚めると、夢で見たとおりに浜辺の砂は濡れていて、貝殻が一つ転がっている。
夢と現実が、少しずつ溶け合っていることに気づいた少女は、恐怖よりも先に強い好奇心を抱く。
やがて、夢の波は日に日に大きくなっていく。
最初はくるぶしを濡らす程度。
次の日は膝まで。
さらに進むと、胸の高さまで水に沈む夢。
夢の中で少女は、声を聞く。
『深く、深く』
『君はどこまで行ける?』
それは波の底から響いてくる声で、誰のものかはわからない。
目覚めると、現実の海辺にも同じような水跡が残っている。
町の人々は不思議がるが、やがて口をつぐむ。
まるでその現象を語ること自体が、禁忌であるかのように。
夏の終わり、夢の波はついに町を呑み込むほどになった。
夢の中で少女は一人、海の中心へと歩いていく。
周囲は暗い水に覆われ、空も星も見えない。
それでも声だけははっきり聞こえる。
『もっと深く』
『まだ見えていない』
少女は溺れかけながらも、その声に導かれて潜る。
水の底にたどりついたとき、そこには一冊の本が沈んでいた。
表紙には何も書かれていない。
けれどページを開くと、そこには『わたし』の物語が綴られていた。
少女自身の過去も、今も、そしてまだ生きていない未来までも。
最後のページには、一文だけが残されている。
『ここから先は、自分で書いて』
少女はそこで目を覚ます。
現実の海辺に立つと、町は変わらずそこにあった。
波は穏やかで、夜空には星が瞬いている。
けれど足元には、夢で拾ったはずの無地の本が、濡れたまま横たわっていた。
少女はそれを抱きしめ、最初のページに一行だけ書きつける。
『わたしはまだ、生きている』」
『小波夢』を読み終えたとき、僕は震えていた。
でも、その震えは感動だけじゃなかった。
――ズルい。
どうしてこんなふうに書けるんだ。
どうしてこんな言葉を選べるんだ。
僕がいくら真似しても出てこない文章を、彼女はまるで呼吸するみたいに綴っている。
僕も小説を書いていた。
深湖と僕、ふたりだけの「文芸部」。
部活動として成立しているわけじゃない。
放課後、図書室の隅に座って、それぞれのノートを広げるだけの時間。
深湖はいつも新しい物語を生み出していた。
不完全でも、奇妙でも、読み始めたら目を離せない。
彼女の言葉は世界を作り出す力を持っていた。
僕には、それができなかった。
僕は「真似」をするのが得意だった。
好きな作家の文体を模写すれば、そっくりに書けた。
深湖の文章だって、形だけなら似せることはできた。
けれど、そこに僕自身の声はなかった。
空っぽな響き。
借り物の言葉。
それを一番知っているのは僕自身だった。
「ねえ、読んでみる?」
深湖はためらいもなく、自分の書いたものを差し出してきた。
彼女のノートを開くと、いつも予想もしなかった世界が広がっていた。
「どう?」
彼女は必ずそう尋ねた。
僕は答える。
「すごいよ」
それ以上の言葉が出てこない。
ほんとうは胸の奥で別の声が叫んでいた。
――僕だって書きたい。
――でも、書けない。
その夜、僕は自分のノートに彼女の文体を真似て一行だけ書いた。
「わたしはまだ、生きている」
それは、深湖が『小波夢』の最後に記した言葉。
けれど僕が書いた瞬間、それはただのコピーになった。
ページを閉じながら、僕は思った。
――やっぱりズルいよ、深湖。
君は自分の言葉で世界を残せる。
僕は、君の影をなぞることしかできない。
なるほど、英卜の感情は一枚ではなくて、いくつもが重なり合っているんですね。
劣等感、憧れ、喜び、妬み――全部入り混じっているからこそ、英卜の「深湖を見る目」は複雑で、人間らしくて痛切になる。
じゃあ、第6話の仕上げとして、その揺れ動く英卜の感情をさらに鮮明に描き直してみます。
---
第6話 デビューの日(改稿)
深湖が壇上に立っている。
拍手が波のように広がり、その中央に彼女はいる。
――まぶしい。
その姿を見た瞬間、胸の奥でいくつもの感情がぶつかりあった。
---
喜び。
彼女の小説が認められた。僕が最初に読んだ作品が、世界に届いた。
彼女の言葉が、やっと正しく光を浴びた。
それは誇らしかった。
憧れ。
同じ机に並んでいた彼女が、今は壇上に立っている。その距離は手を伸ばせば届きそうで、実際には永遠に遠い。
僕も、ああやって光を浴びてみたい。
妬み。
どうして僕には書けないんだ。
どうして僕の言葉は、空っぽで借り物でしかないんだ。深湖の言葉は血肉なのに、僕の言葉は影にすぎない。
同じ「中学二年生」で「文芸部」で、どうしてこんなに差があるんだ。
劣等感。
拍手の音のなかで、僕は自分の存在が小さくなるのを感じた。僕なんていなくても、彼女はここに立っていたはずだ。
僕はただの通過点、彼女が歩む道に落ちていた石ころにすぎない。本当にただの路傍の石で居たかった。
そのくせ、心の奥底では確かに嬉しかった。
彼女が笑っていたから。
震えながらも、きちんと前を向いて言葉を選んでいたから。
――その姿が好きだと思った。
矛盾した感情が渦を巻いて、僕は立ち尽くすしかなかった。
どうにもならない思いの全部を抱えて、ただ拍手を送った。
夜、深湖からメッセージが届いた。
> 【送信日時:2022年8月28日 13:01】
「ありがとう、エイト。あなたが一番最初の読者だった」
その瞬間、胸の奥がまた揺れた。
喜びと、劣等感と、憧れと、妬み。
全部が絡まって、言葉にならなかった。
僕はノートを開いた。
けれど、白紙を埋める言葉は出てこなかった。
深湖の影をなぞるしかない自分が、どうしようもなく悔しかった。
デビューの日。
深湖は壇上で光を浴び、僕はその影に立っていた。
でもその影の中にさえ、たしかに彼女の光は差し込んでいた。
◇◇◇◇◇
了解しました。
第7話はすごく大事ですね。ここが「転落の手前」であり、「英卜が深湖の影に気づきながらも救えなかった時間」になる。
英卜は彼女と別々の高校に進み、距離はできてしまう。でも連絡はとっている。
そして高校1年の7月――深湖の死までを描く。
深湖はデビューした後に「才能の重さ」「周囲の期待」「自分自身の弱さ」に押しつぶされていく。
英卜はそれに気づきつつも、どう言葉をかけていいかわからない。
最後まで彼女を止められなかった悔しさが、のちの物語の核になる。
---
第7話 夏の終わりを待たずに
高校に入ってから、深湖とは前みたいに毎日は会えなくなった。
別々の学校。別々のクラスメイト。
それでも、スマホのメッセージだけは途切れなかった。
> 【送信日時:2023年6月19日 5:05】
「また書いてる?」
「うん。ぜんぜん進まないけど」
深湖は笑顔のスタンプを添えていた。
けれど、その文面の向こうにある声はどこか疲れているように感じられた。
六月の雨の日、深湖から電話がかかってきた。
受話口の向こう、彼女はため息ばかりついていた。
「……ねえ、エイト。
小説を書くのって、楽しいことのはずだよね?」
「うん。楽しいよ」
「でもさ……。いまはちっとも楽しくない。
賞をとってから、書くことが全部仕事みたいになっちゃって。
次を出さなきゃ、って。
みんなの期待に応えなきゃ、って。
気づいたら、ただの苦痛になってた」
彼女の声はかすかに震えていた。
僕は何も言えなかった。
励ます言葉はすべて嘘っぽく思えて、喉の奥で固まった。
七月に入ると、深湖からの連絡は減った。
送ったメッセージに既読がついても、返事は数日後だった。
会おう、と僕が言っても、彼女は「忙しいから」と答えるだけだった。
でも、七月のある放課後。
突然、深湖が僕を呼び出した。
夏の日差しの下、彼女はどこか遠い人みたいに見えた。
「エイトはさ」
深湖は言った。
「自分の小説、書けてる?」
僕は答えられなかった。
相変わらず、白紙のノートを前にして、何も生まれない日々だったから。
深湖は微笑んだ。
でも、その笑みは儚く、痛々しかった。
「いいな。
書けない人って、まだ希望がある気がする」
「……どういうこと?」
「書けちゃった人は、終わりが早いんだよ」
その言葉の意味を理解したのは、数週間後だった。
七月の最後の日。
通知が震え、画面に知らされたのは「訃報」だった。
夏向深湖――死因は自殺。
その文字を見た瞬間、頭が真っ白になった。
呼吸の仕方を忘れたみたいに、ただ立ち尽くした。「なんで?」という一言だけが口からあふれ出た。
彼女が消えた夏。
蝉の声がやけに大きく響いていた。
世界は続いていくのに、僕だけが取り残されてしまったようだった。
僕は初めて、自分が本当に何も書けなかったことを悔いた。
言葉にできなかったことを、悔やんだ。
もしあの日、彼女に何か言えていたら――。
もしあの日、彼女の手を握っていたら――。
その「もし」は、夏の終わりを待たずに消えてしまった。
蝉の輪唱が現実感と僕の涙を消し去った。決して彼女の死に泣けなかった訳では無い。
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