通知が来たあの日。僕は死んだのかもしれない

桜无庵紗樹

第1話 The day I got


> 【送信日時:2024年4月17日 22:09】

今日、体育で持久走をした。

走っている間ずっと、君が笑っていた顔を思い出してた。

ほんとは苦しかったけど、それを言うと君に怒られそうだから黙ってた。

君のいない世界は、走っても走ってもゴールがない。




その夜、スマホが震えた。

机の上に放り出していた黒い長方形が、静かな部屋に唐突な気配を持ち込む。

勉強する気力なんてなくて、参考書は開いたまま、僕は天井を見つめていた。


通知。

ただそれだけのことのはずだった。


けれど、画面に浮かんだ名前を見た瞬間、心臓の鼓動がひとつ、音を間違えた。


――夏向深湖カナタミコ


 信じられなくて、何度も瞬きをした。

錯覚だと思った。

 けれど白い光板の中に確かに、その文字は残っていた。


 彼女からのメッセージ。本文は、たったこれだけだった。


「やあ、元気してる?」


 笑いそうになった。いや、喉の奥で乾いた音がもれただけだ。


 彼女が死んでから、もう一年と少しが経つ。


 最後に見たのは、高校の入学式から数週間後。違う制服を着た彼女が、少しだけ照れくさそうに手を振ってきた春の日。

 その二か月後に、彼女はこの世界から姿を消した。


自殺。

理由なんて、僕は知らない。



 通知をタップする。


 指が震えていた。

 画面の向こうに広がっていたのは、懐かしいアドレス。

僕が何百通と送り続けては、何度も「送信できません」という冷たい文字を見せられた、その宛先。


ありえない。

彼女のスマホは、きっと今も机の引き出しの奥か、あるいは誰かの遺品箱の中に眠っているはずだ。

使われなくなったはずのアドレスに、どうして。


思考が凍りつく。

けれど、その凍結の底から、ひとつの感情が泡のように浮かんできた。


――返事が、来た。



---


僕はすぐに返信を書こうとした。

けれど指は動かなかった。

「元気してる?」にどう返せばいい?

「うん、元気だよ」と打ち込めば、それは嘘になる。

「元気じゃない」と打ち込めば、それもまた、どうしようもなく間違っている気がした。


結局、スマホを握ったまま、僕はただ夜の沈黙に取り残された。

窓の外では雨が降り出していて、ガラスに滲む街灯の光が、まるで知らない街みたいに揺れていた。



深湖の名前を初めて見たのは、中学一年の春だった。

転校生の紹介で、壇上に立った小柄な少女が一礼したとき。

「夏向深湖です。よろしくお願いします」

その声は驚くほど小さかったのに、不思議なほど耳に残った。


教室の片隅。いつも文庫本を抱えていて、授業中ですら机の下でページをめくることがある。

それが彼女の第一印象だった。

本の虫。けれどその眼差しは、活字をただ追っているのではなく、そこにある世界をむさぼるみたいだった。


休み時間に「そんなに面白いの?」と声をかけたとき、彼女は一度だけ顔を上げて、

「うん、でもまだ足りない」

と答えた。そのときの目の輝きを、僕は今も覚えている。



 僕たちはよく一緒に図書室にいた。

新刊の棚に並ぶ本より、奥の埃っぽい文庫に彼女は手を伸ばした。

 僕はほとんど読むふりしかできなかったけれど、隣にいる時間が心地よかった。


 ある日、彼女がノートを差し出してきた。


「これ、読んでみて」


 中に書かれていたのは、稚拙で、でもどこか異様に熱を帯びた物語。

 それが、彼女の最初の小説だった。


「どう?」と訊かれて、僕は正直に「すごいと思う」と答えた。


本当にそう思ったから。


 彼女は小さく「ふふっ」と笑った。その笑みを見るのが、たまらなく嬉しかった。



 けれどその笑顔は、高校に進んでから少しずつ減っていった。


 別々の制服を着るようになって、会うのは休日か偶然だけになって。

 最後に会ったのは、桜が散り始めた四月の公園。


 彼女はベンチに座って原稿用紙を抱えていた。

「今度こそ、書ききりたいんだ」

 そう言った声の奥に、かすかな翳りがあったのに、僕は見抜けなかった。


二か月後、彼女は首を吊った。彼女の家の離れ、彼女がいつも執筆している場所。執筆していた場所。


 いつからか、僕はメールを送り始めた。


 アドレス帳に残っていた彼女の連絡先。

宛先を打ち込んで、思いついたことをただ綴る。


「今日、雨が降ってる」

「また図書室で君を探した」

「本当にいなくなったの?」


 送信ボタンを押すたびに返ってくるのは、

『このアドレスへは送信できません』という冷たい定型文。


 けれど僕はやめなかった。

その文字を確認することが、唯一「彼女に届こうとした証」になる気がしたから。


数百通。数千通。

 やがて僕は、「送信できません」を読むことに慣れてしまった。

 それは呼吸みたいに自然で、苦しくもなく、ただ日常の一部になっていた。


――だからこそ。


 今夜、突然に「通知」が届いたとき、僕は世界が裏返った気がした。


 指はまだ画面の上で止まっている。

 返事を書こうとして、何も書けない。

「元気してる?」

たったそれだけの問いに、どう答えればいいんだろう。


 雨音が強くなった。窓を叩く水の粒のひとつひとつが、遠い記憶を呼び覚ます。

 図書室の薄暗い午後。公園のベンチ。最後に見た笑顔。


 そして、あの冷たい遺影の写真。


「やあ、元気してる?」


 スマホの光が僕の顔を照らす。その文字は、消えずに残っている。

 まるで深湖自身が、画面の向こうで僕を見ているように。


 やはり僕は、何も打ち込めなかった。


 その夜、初めて「送信できません」ではなく、「下書き保存」という文字を見た。

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