或る作家

久邇薫彦

或る作家

 二月ふたつきぶりに嘉代かしろ先生の邸宅を伺う。某文学賞を受賞なさったとの事で先月のかん先生は仕事に忙殺されており、私が祝辞の挨拶をした以外では確りと腰を据えて話をする機会がなかった。一月経って先生の仕事が落ち着いた頃に、折悪く、私は少し許り神経衰弱に陥ってしまい、数週間程箱根へ湯治に出掛けていたので、結果として二月も品評会を行えなかった。

 数奇屋門を抜けると目前に母屋が鎮座しており、それを彩る様に両手側には花々が囲う。そしてちらちらと視界の端に映るのは、離れ座敷と通路で繋がった、色彩の調和から外れた紫烏色しうしょくの土蔵。

 左手側の庭先で、小ぶりの蝋梅が美しく咲き誇っている。ふわり、官能的で甘やかなこうが鼻腔を擽った。神無月の頃拙作を品評して頂く為伺った際には、慎ましやかな金木犀が咲いていたのだが、今ではもう素寒貧な枝を四方あたりへ伸ばし、老境の寂寞を感ぜさせている。先生は捻た性格に依らず華美な花が大層お好きで、四季折々種類の違った花を植えている。おおまかに春は沈丁花、夏は月下香 、秋は金木犀、冬は蝋梅が咲いている。官能的で甘い香りの花ばかり育てているので、先生の体臭迄も何となく甘やかな芳香がしていた。

 優婉嫺雅の庭を目の端で流し見つつ、母屋の方へと体を移す。玄関の格子戸を二、三度敲き、檜山です、嘉代先生はいらっしゃいますか、と声高く訊ねれば、ともしない内に先生のご夫人が戸を開けてくれた。曰く先生は書斎で待ってくださっているとの事で、早々に三和土に駒下駄を脱いで取次の間へと上がった。廊下に出て、右手側にある炊事場、女中部屋、寝室を通り過ぎる。突き当たりの奥まった部屋が先生の書斎である。障子を引くと、壁に靠れる背の高い本棚に出迎えられた。その本棚の群に囲繞されて窮窟そうに座椅子に坐しているのが嘉代先生だった。先生は私に人を食ったような翩々たる視線を寄越し、久方ぶりですね、と一言投げかけた。少しけた頬や、切長で吊り上がった目などの神経質そうな要素を隠す様に軽薄に微笑むのが先生の癖である。素性を秘匿するかの様な姿態が不調和アンバランスに調和していて、先生の慇懃無礼な印象を作り上げていた。

 先生へ原稿を渡せば二月の空白期間など無かったかの様につつが無く品評会は進行した。一通り小品文の品評が了り、平素いつもより出来が悪い、と散々に云われた事を苦々しく思い乍ら、早めに帰宅しようとしていると、先生に呼び止められた。そして、白い長封筒を手渡された。

「これは絶対に一月後に読んでください。否、一月で無くとも構わないから、ずっと時間を置いてから開封してください…」

 こう忠言すると、最早私に用は無いと云った様子で、書き途中の原稿と向き合っていた。

 あんな忠言を受けると寧ろ却って中身が気になってしまうのが人間の性と云うもので、帰路の途中でその手紙を月明かりに透かしてみたり、封の部分を執拗しつこく撫でたりと、全く気が休まらなかった。下宿へ帰ってみても本を読んでみても相変わらず気も漫ろで、誘惑を断ち切る為に部屋の中で一人、修行僧宛らに真面目くさった顔で胡座をかいて目を瞑っていた。師の忠言を裏切る訳にはいかない、という道徳的な感情と、妄りな好奇心とがせめぎ合っていると、ふと、何故今読んでは不可いけないものを、今渡されたのだろう、と云うごく当たり前の疑念が湧いてきた。試されているのか、揶揄われているのか。今度は先生が私に封筒これを渡した真意が気になってきた。

 遅疑逡巡し、悩みに悩んで翌日あくるひの昼方。私は遂に先生の言葉に反いて中身を見てしまった。先ず目に飛び込んできたのは「遺書」と云う二文字。吃驚して慌てて中身を取り出すと、以下の内容が記されてあった。


「この遺書に目を通していると云う事は屹度、君は私の忠言に反いて中身を読んでいるのでしょう。はなから君を誑かす算段でこれを渡したので、気を落とす必要はありません。尤も、君は酷く真面目な気質ですから、私がこう記しても否が応でも気を落としてしまうのでしょう。然し、其処迄想定していて君にこれを渡すのは君にとお願いしたい事があっての事なのです。

 私はこの手紙を渡す次の日——つまりは十二月の十六日に自裁します。運が良ければ昼頃に、私の書斎に一つの死体が転がっている事でしょう。其処で、君に私の死体を任せたいのです。一番に信頼している君にしか頼めない事です。如何か宜しくお願いします。」


 読み了るや否や、私は先生の邸宅へと駈け出していた。動揺の所為か道中の景色が渦を巻く様に歪んで見えた。

 いつもの様に門を抜け戸を敲いてみるが、誰も応えない。勝手に敷居を跨ぐが、人一人の物音すらない不気味な謐けさのみがあった。私の心臓は早鐘を打つ。先生のご夫人どころか女中の一人もいない。若しかしたら…と繋がる言葉を必死に掻き消すが動揺は消えず、奥まった書斎への廊下がいつもより長く思えてならなかった。

 書斎に入った私を真っ先に出迎えたのは、仰向けに臥す先生の御姿と錠剤が殆ど無くなった瓶。それから襖の側には何故か旅行用の大きなトランクがあった。元来から不健康そうだった顔色がは更に青白くなって、何かを堪えているかの様に翆黛を顰めている。手頸に触れてみたが既に脈はなかった。虚ろに襖を見る目には、生前の軽薄な色は消えていた。手頸に触れてみるが、既に脈は無い。愕然として坐り込むと、ふと此処へ訪れる原因となった件の手紙を思い出した。内容を反芻し、決意を固める。

 先生の屍体は誰にも渡してはならない。私は奇矯な義務感に支配されていた。

 では死体をどうするか。そのまま死体をずるずる引き摺って持ち帰る訳にもいくまい。彼方此方を見回してみると、入り口にあった意図が不明のトランクが視界に入った。昨日訪れた際には無かったであろう、大きなトランク。そのトランクに死体を入れる事に決めた。私は、先生がこれを使いなさいと、敢えて置いたのだと思えてならなかった。

 硬直した屍体をなんとか詰め込む為に、躍起になってぐちゃぐちゃに脚やら腕やらを折り曲げたが、矢張り幾ら痩躯といってもみそじの男の屍体はどうやっても入らない。

 外の土蔵が目についた。私はひっそりと土蔵に忍び込むと、御誂え向きに鋭利な斧が無造作に立て掛けてあった。トランク同様に、まるで私が解体するのを端から知っていたかの様に。

 其の斧で一撃、頸に振り下ろした。吐き気を催す酷い感覚が五感を刺激する。私は半ば気狂いのようになり乍ら解体した。昔、名画座で間違えて見てしまった低俗で猟奇的な映画を髣髴とさせる。此の現状は一般的な定義上の現実から大きく離れていた。粘着質な音が鼓膜に張り付いて離れなかった。

 漸とのこと切り離せた体躯を、書斎から持ってきたトランクに詰め込む。証拠が残っていても構わなかったが、自身の潔癖な性格が仇となり、周りの血液を自分の羽織で拭い取り、書斎には偽装した遺書を残しておいた。

 血液が付着した羽織りやは同様にトランクへ詰め、一度ひっそりと下宿へ戻り、薄汚れた学生服と学生帽と、それから外套に着替えた。

 あるだけの金と、封筒とトランクを抱え、私は停車場ステイションへと向かった。先生の生まれである新潟迄の切符を買ったら、軽かった財布は空になった。正しく無一文である。併し、もう行く場所は一つしかないので、金など無くなっても構いやしない。冥土へ六文銭を持って行ったって、どうせ行く先は地獄なのだ。

 私は、”一つも信用されない”と云う一点に於いて、先生から一番の信頼を貰っていたのだと今更に気がついた。凡て先生の打算に操られてい乍らも、然しトランクを手放す気にはならなかった。私は半ば諦念の境地で腐敗臭が仄かに香るトランクを抱き寄せた。

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或る作家 久邇薫彦 @KuniYukihiko127

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