第2話 記憶のひずみ
教室のざわめきは、昨日までと変わらない。
窓から射す朝の光も、黒板に映るチョークの粉も。けれど僕の視界のどこかには、薄い幕がかかっているようだった。
隣の席の川島が、いつものように漫画を机の下で読んでいた。
「なあ、昨日の宿題やった?」
そう聞かれて、僕は頷きかけて、違和感に立ち止まった。
川島は、僕に「なあ」と呼びかけるとき、必ず名前を添えていたはずだ。「なあ、遥斗」って。
今日はそれがない。ただの「なあ」。些細なこと。でも心臓の奥を冷たい指で撫でられたような感覚。
放課後、音楽室で蓮と練習した。ギターの音は昨日よりも合って、気持ちよかった。
「文化祭、楽しみだな」
蓮がそう言う。僕も笑って頷いた。
でもその笑みの裏で、僕は彼の目を観察していた。昨日まで僕に向けられていた光が、わずかに鈍い。
まるで僕の存在が、少し薄まったみたいに。
家に帰ると、妹の紗良が台所にいた。
「おかえりー。今日も部活あったの?」
「いや、練習。蓮と合わせてた」
「蓮?」
紗良は一瞬だけ首を傾げた。「ああ……友達、だよね」
その言い方が、奇妙に遠い。昨日まで当たり前に知っていたはずの名前を、初めて聞いたみたいに。
僕は笑ってごまかした。
「忘れっぽいな」
「最近ほんとにそう。期末の英単語も全然覚えられなくてさ」
紗良は笑った。けれど僕の耳には、その笑いが薄氷の上で軋む音のように聞こえた。
夜、机に向かいながら砂時計を取り出す。
ガラス越しの砂は、静かに光っている。耳を澄ます。
——チリ、チリ。
やはり、落ち続けている。僕が触れていなくても。
時間は巻き戻っていないのに、砂は減っていく。減るたびに、何かが消えていく。
スマホを開く。写真フォルダをめくる。
去年の運動会。紗良がリレーでバトンを渡す瞬間。僕はシャッターを切ったはずだ。
だが、その一枚がなかった。アルバムの流れに不自然な空白。僕の記憶の中には鮮明にあるのに、データとしては存在しない。
胸が締めつけられる。
砂時計を握る手が震える。冷たい。昨日よりもずっと。
布団に潜りながら、考える。
もし、もう一度だけ戻れたら。
昨日、紗良が僕を「お兄ちゃん」と呼んだ声を、録音しておきたい。
昨日、蓮が笑った顔を、描き残しておきたい。
そうすれば、消えてしまっても、少なくとも僕の中には残るはずだから。
けれど。
やり直すたびに消えるものを、記録して、何になるのだろう。
僕の手の中に残った記録は、本当に「その人」なのか。
砂時計は僕を救うためにあるのか、それとも、僕を孤独にするためにあるのか。
翌朝。
紗良が制服に袖を通しながら、ふいに口にした。
「ねえ、私たち、前にどこか旅行したことあったっけ?」
「旅行?」
「うん。なんか、海の夢を見た気がするんだけど……覚えてないや」
僕は返事をしなかった。
玄関の靴箱の上の家族写真。昨日見たときよりも、さらに違っていた。
そこには、僕と両親だけが写っていた。紗良が、消えていた。
手の中の砂時計は、静かに光っていた。
何も語らず、ただ落ち続けている。
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