四十七睡目 晩夏と睡眠と

 夕方の風が、少しだけ冷たくなっていた。

 昼間の熱を含んだ空気がゆっくり沈んでいく中で、蝉の声だけがまだ粘るように響いている。

 真白は公園のベンチに腰を下ろし、手に持ったアイスコーヒーのストローを指で転がした。氷の溶ける音が、夏の名残みたいにかすかに鳴る。

 白いカップの表面に水滴が浮かび、それがぽたりと落ちて、木の板に小さな輪を作った。輪はじきに乾いて消えたけれど、その跡だけが心に残るようだった。


 「……来た」


 聞き慣れた声に顔を上げると、鳴古がゆっくりと歩いてくる。

 淡いクリーム色のシャツに、スカートはくすんだブルー。

 日焼けの痕がまだ腕に残っていて、髪の金色が夕陽に照らされて淡く揺れた。

 手に小さな紙袋を提げていて、そこからかすかに甘い香りが漂う。バニラと砂糖と、少し焦げたキャラメルの香り。夏の午後みたいな匂いだった。


 「ごめん、待った?」

 「ううん、ちょうど」

 「……よかった」


 鳴古はそう言って、隣に腰を下ろした。

 ベンチの木が、二人の体温を吸ってきしむ。

 少し距離を置いて座ったはずなのに、肩のあたりに彼女の気配が触れる。

 風が少し強く吹き、木の葉が擦れ合う音がした。夕陽がその隙間を通り抜けて、二人の膝に小さな光の粒を落とす。


 「……宿題、終わった?」

 「うん、昨日やっと」

 「……えらい」

 「鳴古もでしょ?」

 「……うん。一気にやった」

 「やっぱり」


 二人で笑う。

 笑った瞬間、夕方の空気が少し柔らかくなった気がした。

 鳴古の笑い声は静かで、それなのにどこか耳の奥に残る。

 その声の余韻が風に混ざって、真白の髪を優しく撫でていった。

 空の端に、薄い月がうっすら浮かんでいた。まだ明るいのに、もう夜がそこまで来ている。


 「……もう夏休み、終わっちゃうね」


 鳴古がぽつりとつぶやく。

 その言葉が、空気の中に溶けていった。

 真白はストローをくわえたまま、少しだけ空を見上げた。


 茜色に染まった雲が、形をゆっくり崩しながら流れていく。

 風に混じって金木犀のような香りがほんの少しだけした気がして、胸の奥がきゅっとなる。

 空の向こう、遠くでカラスが二声だけ鳴いて、あとは静かだった。

 公園の端では、小さな子どもがシャボン玉を飛ばしていて、それがひとつ、風に流されて光の中で弾けた。


 「……あっという間だったね」

 「うん。なんか、短かった気がする」

 「……でも、濃かった」

 「濃かった?」

 「……花火とか、海とか。真白といる時間、多かったから」

 「……うん」


 言葉がそれ以上出てこなかった。

 鳴古の声はいつも小さいのに、こういう時だけ真白の中で響く。

 その余韻が、ゆっくり胸の奥を満たしていく。

 ――本当に、終わってしまうんだ。

 そんな現実が、日が沈むごとに輪郭を濃くしていく。


 蝉の声が、ひときわ大きく鳴いた。

 空気の色も、光も、少しずつ秋に傾いていくのが分かる。

 鳴古が手を伸ばして、真白の髪を少し摘んだ。


 「……まだ夏の匂いする」

 「え?」

 「……日焼け止めの香りとか。風に混じってる」

 「ふふ、変なの」

 「……忘れたくない匂い」


 その言葉が落ちた瞬間、時間が止まったように感じた。

 鳴古の横顔が、夕陽に照らされて淡い橙に染まる。

 その光の中で、まつげが長く影を落としている。

 真白は何も言えず、ただその横顔を見つめ続けた。

 その頬の輪郭が、夏そのものみたいにきらめいて見えた。


 風が二人の髪を少し乱し、頬をすべる。

 木々の間から射す光が、一瞬だけきらりと揺れた。

 まるで、夏の終わりが最後の瞬きをしているようだった。


 「ねえ、鳴古」

 「……なに」

 「夏が終わるの、寂しいね」

 「……うん。真白がいなくなるみたいで、少し」

 「……それは困るね」

 「……じゃあ、秋も一緒にいて」

 「うん。約束」


 鳴古は小さく頷いて、指先を合わせるように真白の手の上にそっと触れた。

 冷たい指先が、ほんの一瞬でぬくもりに変わる。

 その熱が、指の奥から胸の方へじわりと伝わっていく。

 真白は息を詰めて、ただその感覚に身を委ねた。

 胸の奥で、何かが静かに芽吹いていくような気がした。


 沈む太陽が、街のビルの隙間に消えていく。

 残った光だけが空を染め、やがてそれも群青に溶けていく。

 遠くで自転車のベルが鳴り、子どもたちの声が薄れていく。

 すべての音が、少しずつ夜の静けさに飲まれていくようだった。


 「……この風、秋だね」

 「うん。でも、まだ少し夏の味がする」

 「……混ざってるね、季節」

 「そういうの、好きかも」


 二人は顔を見合わせて、微笑み合った。

 街の灯りがひとつ、またひとつと点きはじめる。

 空の高いところに、星のように小さな飛行機の光が滲んだ。

 鳴古が持ってきた紙袋を開けると、中には二つのマドレーヌ。

 ひとつを半分こして、ふたりで少しずつ食べた。

 ほんのり温かくて、少し甘くて、夏の終わりの味がした。


 ――また、季節が変わっても。

 その沈黙の中で、二人はゆっくりと並んで座り続けた。

 時間が止まっているようで、けれど確かに流れている。

 夜がゆっくりと近づき、空気が透明になっていく。


 真白はそっと目を閉じた。

 瞼の裏に浮かぶのは、昨日の海の青と、今日の茜色。

 どちらも鳴古と見た色だ。

 そのことが、なにより嬉しかった。

 風がまた吹き抜けた。

 夏の終わりと秋の始まりの境目で、二人の時間は静かに続いていた。

 その境目が永遠に伸びていけばいい――真白は、そう願わずにはいられなかった。

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