身を刺すような

織葉 黎旺

再会

「あちーな……」


 喧しく蝉時雨が降り注ぐ、夏の昼下がり。

 俺はダラダラと田舎を歩いていた。

 青草の匂いが服にまで染み込みそうな、田んぼに囲まれた景色。アスファルトからの照り返しがジリジリと肌を焼く。よくこんな道を歩いていたものだ。



 大人の足で二十分ほど実家から進んだところに、その店は、思い出と寸分違わない姿で立っていた。

 木造の平屋。『水上雑貨店』と書かれた、古ぼけて曲がった看板。店先で揺れる風鈴。

 引き戸を開けて店内に入ると、安っぽい入店音と、懐かしい匂いがした。

 効率良く配置された食料品。右手奥の棚に詰められた生活用品。

 思い出の中のソレより、なんだか小さく感じてしまうけれど。それすらもどこか愛おしくて、レジスターの前にあった駄菓子を手に「すいませーん」と店の奥に声をかける。


「留守……か?」


 気長に待つかと古びたパイプ椅子に座っていると、はーいという返事と、ドタバタとした足音が響いてきた。


「おっ、少年じゃないか。久方ぶりだね」


 現れたのは、濡れ羽色の長髪をポニーテールにまとめた、エプロン姿の美人さん。


「み、水琴みことさん……! お久しぶりです」


「うん。積もる話もあるが、ひとまず──お菓子でも食べながら話そうか」



 *


 先述の通り、俺の実家はド田舎だ。

 クラスの人数どころか、学校全員分でも二桁がギリギリという限界集落。しかも悲劇的なことに、みんな俺とは帰る方向が違ったため、いつも一人で帰宅していた。

 その帰路の途中にあったのが、この『水上雑貨店』である。共働きだった両親が帰宅するまで、毎日貰う百円玉で豪遊するのがルーティーンだった。


「ああ、こんにちは。暑い中よく来たね、少年」


 水琴さんは、店主のお姉さんだった。

 よく手入れされていることがわかる、濡れ羽色のサラサラの長髪。病的なまでに白く、美しい肌。その上には所々、痛々しげな傷が刻まれている。

 物憂げな瞳で本を持つ様が、絵画みたいに美しかった。


 彼女とはいつも、色々なことをした。幼い俺に付き合って、ゲームをしてくれたり、学校のことを話したり。


 中学に入ってからは少しづつ通う頻度が減ってしまい、田舎を飛び出してからはそれきりだったが、この辺りでは一番大切な人で──俺の、初恋の人だった。



 *


「それにしても少年、大きくなったねえ」


 キャンディを舐めながら、水琴さんは言った。俺は、鰻みたいな駄菓子をもきゅもきゅと食べる。


「ほんとはもっと大きくなりたかったんですけどね、程よいサイズ感で収まっちゃいました」


 かつては彼女の胸ほどまでしかなかった身長も、気づけばぐんぐんと伸び、今では追い抜いてしまっていた。といっても、数センチ程度しか差はなさそうだが。


「水琴さんは、変わりませんね」


「そうだね、よく言われるよ」


 子供には目に毒だった、白のクロップドトップス。怪我でもしたのか脇腹に包帯が巻かれているのが残念だったが、座って駄菓子を食べる姿は、記憶の中のソレとまったく変わらない。


「なんなら昔より、美人さんになってませんか?」


「いやいや、それはないよ。たしかに、変わってはいないだろうけどね」


「……?」


 一瞬だけ、顔に陰が差した気がしたが、見間違いだろうと意識から振り払った。


「そんなことより、少年が口説き文句を覚えてきたことの方が衝撃だね?」


「思ったことを正直に口にしただけですよ」


「ふふ、その調子で都会の子たちを口説き回ってるんだろう?」


「いえ、そんな! ……水琴さんだけですよ」


「はいはい」


 水琴さんが俺の頭をポンポンと撫でた。触れられた嬉しさと、子供扱いされている悔しさとが綯い交ぜになって、顔が歪む。


「すまん、悪かったって」


 悪気がなさそうに笑った彼女は、奥の冷蔵庫から缶を二本取り出した。


「ほら、しっかり大人扱いしてあげるから」


「お姉さんの奢りですか?」


「クソガキめ」


 軽口を叩き合いつつ、プルタブを開けて缶を突き合せる。ゴクゴクと泡と酒を流し込んでいけば、段々気分も高まり、口の滑りも良くなって、俺たちは旧交を温めていく。


 いまの仕事のこと。生活のこと。それらを話し終え、話題は思い出話に戻る。


「水琴さんは、いつもそんな風に飲んでましたよね。真っ昼間から店のビールを、店の駄菓子をつまみにして」


「おいおい、駄目な大人みたいに言わないでおくれよ」


 奢ってあげないよ? と品物をチラつかされては、俺も平身低頭する他ない。


「でも俺は、いまでも覚えてますよ。家族と喧嘩して家を飛び出した時、水琴さんが黙って慰めてくれたこと」


「ああ……そんなこともあったね」


 幼い時だったから感情が抑えられなくて、泣きたくないのに涙が止まらなかった。あの時口に突っ込まれたキャンディの甘さを、よく覚えている。


「まあ、家族ったって色々あるからねえ。私だって、親類とは絶縁しているし」


「そうだったんですか」


 初耳だ。よくよく考えると、水琴さんの家族の話はいつもはぐらかされるばかりだった。


「少年も、家族とは折り合いが悪かったよね」


「家族……というか、主に────」




 *




 祖父が亡くなった連絡を受けた時、俺は「ようやくか」と思った。相当前から耄碌していて、家族に迷惑をかけていたから。


 物は忘れるし気性は荒いし、子どもみたいに喚くのに力は強いから、最悪だった。


 未だに、先端恐怖症が治らない。


 どちらかと言えば、生きている家族・親戚に会う方が不安だったが、それに関しては杞憂だったというか、みんな思いのほか温かかった。たぶん、実家に仕送りしていたのが功を奏したのだろう。


 広い客間でポツリと眠るじいちゃんを目にした時、枯れたと思っていた涙が、蛇口が壊れたみたいにボロボロと出てきた。髪は抜けて肌も昔よりよっぽどシワシワなのに、穏やかな表情は、ボケる前のそれによく似てたから。


「流石にショックでしたね。祖父が、ボケる前のじいちゃんだった時の顔を思い出して──老いって残酷だな、って」


 いつかは俺もそうなってしまうことが、怖い。

 無自覚なハラスメントを働くのが、恐ろしい。

 近頃の若い者は、なんて管を巻くのが、愚かしい。

 車を暴走させて、誰かを轢くかもしれないのが、悍ましい。


「まだまだ若いじゃん、キミは」


「でも、いずれは老いていく」


 いまだって、少年呼びにむず痒さを覚える程度には、大人になってしまった。

 若者と呼ばれることも、段々むず痒くなっていくのだろう。それが、嫌だった。


「早く大人になりたい、年を取りたいと思っていたのに、今はもうこのまま時が止まればいいなって思いますよ。老いるくらいなら、死んだ方がマシだって」


「じゃあ少年は、不老になりたいの?」


「そうですね……不死じゃなくとも、不老になりたい。自分のまま、生き続けたい」


 老いた後も自分は自分なんて、そんな綺麗事はいらない。今の自分が死ぬのが許せない。


「なら、人魚の肉でも食べてみる?」


「ああ、そんな話もありますよね……」


「丁度冷蔵庫に冷やしてるんだよ。つまみにどう?」


 頷く間もなく彼女は、大皿に盛られた刺身を持ってきた。

 奇妙な見た目だった。明らかに魚のソレではない。少し霜が降って、濁ったような赤さがあるバラ肉は、馬にも牛にも豚にも見えた。


「生食、まずい肉じゃないですか?」


「大丈夫だよ、人魚だから」


 人魚の人の部分だから──という水琴さん。そこでようやく、頻繁に付いていた生傷と、脇腹に巻かれた包帯の意味が、点と点で繋がる。


「人魚の肉を食べると不死になるのって、らしくてね」


「……もしかして水琴さんって、八百比丘尼とか呼ばれてたりしました?」


「捨てた名だね」


 言いながら、水琴さんは皿に掛かっていたラップを剥がした。肉には、冷蔵庫で置いていたとは思えない、新鮮な艶があった。


「オススメは醤油だけど、ポン酢とかごま油でも美味しいよ」


 肉と、彼女の笑顔が交差する。生産者表示。

 好きな人の一部。好奇と、嫌悪と、興味と、倫理と、欲望が、胸の中でぐるぐると回る。

 気づけば、置かれた箸に手を伸ばしていて。肉を掴んだところで、ようやく躊躇いが生まれた。



「それを口にするだけで、君は永遠を手に入れられる。老いることはなく死ぬこともない、完璧で退屈な永遠を」


 彼女の半生を夢想する。気づいたら死ねなくて、誰からも置いていかれて、知己には不気味がられて、居場所がなくて。

 最早此処に自分があるということすら苦しい、そんな人生。

 いまはよくても、自分もいずれその道を辿るのだろう。


 俺は、躊躇いなく肉を口にした。


「美味しい、です」


「君は──愚かだな」


「たしかに、そうかも」


 咀嚼する。ほのかな甘みが漂う、柔らかな肉を。

 嚥下したところでようやく、取り返しのつかないことをしたような実感が出てきて、吐きそうになって。それごと無理矢理飲み込んだ。


「それでも──孤独だった俺を救ってくれた、あなたを独りにはしたくなかったから」


「……はあ」


 やれやれ、と頭を搔いて、水琴さんは笑う。


「冗談だよ」


「え……ええっ!? どこからどこまでがですか!?」


「少なくとも、その肉にそんな効果がないことだけは本当だよ。滋養強壮にはいいかもしれないが」


「そんな……」


「まあ、でも──君の覚悟だけは、嬉しかった」


 彼女が俺の手を取って、包帯の巻かれた脇腹へと誘う。薄い腹。ほのかな温もり。傷口をなぞるみたいに、刻み込むみたいに、手は上下する。


「一人にはしないんでしょ?」


「いれる限りは、います」


「よろしい」



 心臓が煩かった。暑さと、ぬるい体温でおかしくなりそうだった。

 指先を絡めてから、どれだけ続くか分からない、須臾の時間を想う。

 いつの間にか、クーラーは止まっていた。


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身を刺すような 織葉 黎旺 @kojisireo

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