第4話
三連休の最終日、梨香子は生憎体調不良に陥る事はなく、約束通り美術館へとやって来た。
煉瓦造りの良い意味で古さのある美術館の前には無数のテントが張られ、市が開かれている。販売しているのは既製品ではなく全て手作りのもので、食べるものから服、小物、アクセサリーに至るまで様々であり、似顔絵を描いている人までいる。技術を売る為に集まったテントの数は百を下らないと思われ、近くの神社へと続く参道や芝生の方まで延々と軒を連ねていた。
美術館に到着するまでに十二分に時間が潰れ、買い食いで腹も膨れた。
道が狭い事が幸いして、小原と侑芽を並んで歩かせて、梨香子自身は彼らの後ろから付いて歩く。構って貰えずとも十分に目が楽しく、梨香子はきょろきょろと売り物を眺め、本当に迷子になりそうだなと独り言ちながら一人を堪能していたものだったが、ふと一つのテントの前で足が止まった。
外国からの観光客と思しき一組の男女がいたものの、飲食を取り扱う店舗に比べれば格段に空いている。それで逆に気を取られた、という訳ではなく、売り物が気になった。
前を行く二人は梨香子が足を止めた事に気が付いている様子はない。呼び止めても良かったのだが、ここではぐれておいてもいいなと、梨香子は敢えて二人に声をかけず、一人迷子になる道を選んだ。
(綺麗な字だな)
そのテントでは、色紙に様々な文字が毛筆で書かれ、販売されていた。
文字は実に様々、漢字一字であったり、「希望」などのような明るい展望ある熟語が書かれていたりもする。楷書で書かれたものから、一見では何と書かれているか分からないような草書もある。異国の人が土産に好むのかもしれないなと、隣で作品を見ている男女の事を思いながら、梨香子もまた作品群を覗き込んだ。
梨香子は、書を嗜む趣味はない。文字の美醜が分かる程目が肥えている訳でも、そもそも書に興味すらない。
そんな梨香子が何故足を止めたかと言えば、目に留まった文字に見覚えがあるような気がしたからだ。
(別に、似てないんだけど)
梨香子は作品に手を振れず、「航海」と書かれた色紙を凝視する。
崩れた書体で描かれたもので、似たものを見た記憶などあろうはずもないというのに、少し前に見た文字に似ていると思ったのは何故か。理由は梨香子にも分からない。
顔を上げた所にいた売り子と思しき人物はまだ若く、二十歳そこそこに見える女性であった。彼女が書いたのだろうかと窺い見ていると、ばちっと視線が絡んでしまった。
「それ、お好きですか?」
おっとりと聞かれ、梨香子は目を泳がせる。
「あ。えーっと、お上手だな、って」
買うつもりがないのに見過ぎたかと慌てる梨香子に、女性は微笑む。
「どうぞどうぞ、お好きに見ていって下さいね。それは、弟が書いたんですよ」
「あー、へえ?」
侑芽達とはぐれる道を選んだものの、長話をするつもりはなかった。長く話し込んでしまうと場を離れるタイミングを失ってしまう。購入するつもりがないだけに、梨香子は逃げ腰になりつつ相槌つ。
「ちょっと今飲み物買いに行ってて、――あ、帰って来ました」
右手に向かって手を振る女性に、梨香子は肩を落としながら視線をそちらに向ける。完全に逃げるタイミングを失したかもしれないと苦い気持ちになった梨香子が向けた視線の先では確かに、若い男が人波に逆らって飲み物両手にこちらに向かってくる。紺の運動靴にオーバーサイズのズボン、シンプルな少し袖の長いシャツ姿の男を爪先から眺めるように視線を上げていき、梨香子の思考は完全に停止する。そこに見慣れた眼鏡がなければ、誰か分からなかったかも知れない。
「あれ、羽田さん」
名前を呼ばれても、梨香子は瞬き一つ出来ない。目を見開いたまま男の顔を凝視する梨香子とは違って、櫻田は視線を巡らせる。
「私服だから、一瞬誰か分からなかった」
こちらの台詞だとは思ったが、梨香子はなお言葉が出ない。
「知り合い?」
「クラスメイト」
櫻田はテントの女性の問いに応じながら、手にしていた飲み物の片方を慎重に手渡す。
いつの間に隣にいたはずの異国の二人組は消え失せていたのか、隣に佇む櫻田は梨香子を見下ろし微笑む。
「一人?」
「……え? あー、はぐれちゃって」
自発的に、とは言わないでおいた梨香子はようやく言葉が喉を突いた。
「もしかして夏がいるって知ってて見に来てくれたの?」
女性に話しかけられて、梨香子は目だけをのろりとそちらに向ける。
「あ、いえ。偶々」
「そうなの。夏が書いたそれ、気に入ってくれたみたいよ」
「え、ほんと? 嬉しいな」
航海、と書かれた色紙に目を落としてから嬉しそうに笑った櫻田は、邪魔な前髪をピンで留めていた。いつもの眼鏡だけがいつもと同じで、それ以外は全くといって良い程普段の櫻田からは想像できない容貌を一頻り眺め、梨香子は思う。
(似合うな、眼鏡)
同じ眼鏡が私服だとこう化けるのかと、梨香子は素直に感心している。
「櫻田くん、の、お姉さん?」
「そう。大概は姉が書いてるんだけど、俺のも少し出してくれてて。航海は、俺が書いたやつ」
自分が書いた色紙を見下ろす櫻田の目はきらきらと輝き、服装も相まってか知らない人のように見えた。
「あたしぐるっと一周してくるから、良かったら一緒にここどうぞー。夏、店番お願いね」
ちらちらと梨香子を見ながら、櫻田の姉が席を立つ。勘違いされたら困るなと思ったが、良かったらと櫻田まで勧めてくるので、梨香子はぺこりと頭を下げる。二人を暫く二人きりにしておく事を思えば、梨香子には目下急いで行く場所もない。良い時間潰しになるか、と有難くお言葉に甘える事にする。
飲み物片手にさっさと行ってしまった櫻田の姉の背を見送り、梨香子はテントの中に並ぶ二つの丸椅子の一つを見つめる。櫻田はテントを回り込んでさっさと席につくが、少しばかり、いや、結構かなり、椅子同士が近い。
梨香子はそろりと櫻田に倣ってテントの後ろに回り込み、何やらごそごそやっている櫻田の目を盗むようにしてほんの少しだけ椅子を引いて遠ざけた。本当はもっと離したかったのだが、商品が所狭しと並んでいて幅がなく、不可能であった。
「これ、もし珈琲嫌いじゃなかったら」
櫻田は購入してきたばかりの飲み物の蓋を外し、紙コップに注ぎながら言う。コップを探してくれていたらしく、八分目程まで注がれたそれを差し出された梨香子は、膝を櫻田とは違う方へと向けて座りながら受け取った。遠ざけてなかったらどうなっていたのかとひやりとする程、今でも十分に物理的に近い。
「加糖だけど、大丈夫?」
「平気。甘党なんだ?」
「ブラックは飲めないくらい甘党」
言いながら笑い、櫻田は珈琲を啜る。肩が触れそうでひやひやしたものであったが、櫻田には何ら気にしている様子がないため、一人でどきどきしているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。梨香子は紙コップを膝に置いて両手を添えながら、黒く波立つ珈琲に視線を落として問う。
「習字が、得意なんだ?」
「得意かどうか。でも、好き」
「ノートの字も綺麗だったもんね。もしかして書道部とか」
「一応、そう。活動少ないんだけどね」
そうなんだ、と梨香子は以前聞きそびれた答えを得つつ、ちらりと一度櫻田を見たものの、あまりの近さに怖気づいてやはり視線を戻した。
絶妙に気まずいが、櫻田に気負った所がない事に少しむっとするものがなくはない。梨香子だけが気恥ずかしい事が癪ですらある。
(どきどきするもんでしょ、好きな子がこんな近くにいたら)
本来ならば、緊張して肩が強張るものだ。声が上擦ったり会話が弾まなかったり、とりまく空気に緊張が窺えるものだ。しかしながら櫻田は悠々と珈琲を啜りながら、テントの前を行き交う人の群れなど眺めている。
緊張しているのは、むしろ自分だ。
肩が強張って力が入り、視線を膝元に落としたまま隣を見れないのは、自分だ。肩が触れたらどうしようとびくびくして、しかしながら触れたらいいのになどと矛盾した事を考えているのはむしろ、自分でーー。
「羽田さんって、書に興味あったの?」
「えっ」
自分の思考にひやりとしていた梨香子は、話しかけられてはっと我に返るように視線を上げる。直ぐ隣にある顔がいつの間にか梨香子を見ていて、一瞬息が止まった。
「書。興味ない人ってほら、一瞥はするけど足は止めないものだから」
道行く人を目線だけで示す櫻田に促されるようにして前を見ると、確かにちらちらと作品を見遣る目はあれど、足を止める人は全くと言って良い程にない。
「興味、は、特には。でも、櫻田くんの字に似てるなって、思って」
「なにそれ、凄い特技じゃん」
笑う櫻田の言いたい事は痛い程に良く分かる。普通であれば、分かるはずがないものだ。同じ字を同じように筆で書いた作品を以前にも見ていたならまだしも、そもそも櫻田が筆で書いた文字を見た事がない梨香子が似ていると感じる事がまず、不可能に近しい事だ。自分でもあまりにも不可解、最早謎に近い。
「それで足を止めてくれたんだ?」
「あー、まあ。だから別に深い意味はないんだけど」
「深い意味はない」
梨香子の言葉尻を繰り返した櫻田に、梨香子ははっとまたいつの間にか落としていた視線を上げる。櫻田の書に興味がないと、投げ槍に捉えられただろうかと慌てた梨香子に、櫻田は笑う。
「それが一番嬉しいかも。ただ、目を惹いたって事でしょ」
目を見開く梨香子を、櫻田は横目に見ながら目を細める。
「絵とかもそうかもしれないけど、好みってあって。好き嫌いがはっきりする分野だと思うからさ。なんとなく目に留まって、この字好きかもってやっぱり何となく思って貰えるのが、一番嬉しい」
にかっと笑った櫻田から、梨香子は目が離せない。
「羽田さんの好みにはまったなら、嬉しい」
きらきら。
櫻田は好きな事をしているからであるのか、きらきらと目が輝いて、無邪気な笑顔がまたきらきら、とにかく一際輝いて見えた。珈琲を啜っている姿まで絵画のように見えた梨香子は、とうとう目がおかしくなったかなと無意識に擦った程である。
「お客さんの好きな文字を書いてあげるサービスもしてて。羽田さん、好きな文字何?」
櫻田は珈琲を椅子の脇に置いて立ち上がると、並べていた作品のいくつかをずらして机にスペースを作り、そこに下敷きと半紙を広げた。
「え、書いてくれるの?」
「道行く人へのパフォーマンスにもなるから、協力してもらえたら」
そう言われると遠慮し難い。うまい事言うなぁと思いながら、梨香子は唸る。
(好きな文字、好きな文字)
この字が好きだなどと意識した事ない梨香子が唸っている間に、櫻田は筆を取る。硯の表面を流れるように滑る筆の動きが美しくて、それを持つ櫻田の手に目がいった。少し骨ばった、しかし細くしなやかな指は運動部のそれとは決して相容れなかったが、女性のそれのように綺麗だった。
「浮かばない?」
「そんな急には」
正直に言う梨香子に、櫻田はくすりと笑う。
「じゃあ。えーっと、これにしようかな」
言いながら、櫻田が真っ白な半紙の上に躊躇いなく筆を置く。少し墨汁が散った事に、梨香子がぎょっとする。
筆は滑らかに半紙の上を滑る。
墨を滲ませながら、線は時に細くなり、時に太くなり、時に掠れながら、櫻田は筆の軽い動きとは打って変わって真剣な目で半紙に目を落としている。その目は墨のように真っ黒で、しかし闇夜に浮かぶ星のようにきらりと光るものが見える。真横から見る櫻田の横目にはレンズがなくて、長い睫毛がレンズに当たる様まで梨香子にはよく見えた。
「出来た」
半紙から上げた筆を、櫻田はことりと置く。ぱちぱちと幾人かの拍手が聞こえて我に返ると、数名の外国人が歩を止めて拍手をしている。確かに多少なりともパフォーマンスにはなったようだったが、そんな事よりも、梨香子はすっかり櫻田に見惚れていた自分への衝撃に驚きを隠せない。
真剣な目に、しなやかな指に、筆が生み出す墨色の世界に、梨香子はほんの十数秒の間ではあったが、完全に目を奪われていた事を認める。
「羽田さんの羽から、こっちの【飛】もありだったんだけど」
櫻田は空に指で「飛」という文字を一度書いてから、文鎮をずらして半紙を持ち上げ、梨香子に向かって掲げた。
「羽田さんって兎みたいで可愛いから。こっちにしてみた」
跳、と書かれた半紙を見つめ、梨香子は唇を小さく噛んだ。
ーー好きになっているかも、しれない。
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