八十二歳からはじめる魔法教室

秋月鈴穂

八十二歳からはじめる魔法教室


 住宅街から少々離れた、緑豊かな雑木林の中。遊具のある公園から川を遡るように進み、木々を分け入ると、ただ土をならしただけの小道が伸びている。

 まるで誰かを誘うように続くその道を進めば、曲がりくねった巨木が鎮座する広場の中央に、黒いローブを纏った老婆が立っている。


「ルオーン・ユーメ・ユエネヘ!(炎よ、燃え上がれ)」


 嗄れた声が響けば、老婆の杖の先、何もない切り株の上に突然火が起きる。数秒ゆらゆらと炎が揺らめくと、今度は霧のように炭ひとつ残らず消え失せてしまうではないか。

 火が消えると、木陰からあどけない少女が姿を見せた。切り株に駆け寄ってその場所を覗き込む、ローブも杖も纏わないその少女は、一見普通の子供にしか見えない。魔女の弟子か助手、あるいは……邪悪な魔女と、魔法の実験に使うために攫ってきた人間の子供といったストーリーを想像する者もあるだろう。


 魔女と、その弟子。

 その予想は、大体合っていて、ちょっと間違っている。


 幼い少女は切り株から老婆に視線を移して、偉そうに腕を組んだ。

「ふむふむ。小規模とはいえ、二ヶ月のレッスンで炎の魔法を習得するとは……筋がいいですね、益代さん。てみるには及びませんが」


 老婆はそれを聞いて、頬を緩ませる。

「おやまあ、ありがとうございます師匠。光栄ですよ」

 

 逆なのだった。





【炎の魔法】





 住宅密集地の町内掲示板は、弱肉強食、縄張り争いの戦場だ。


『剣道・杖道 公認道場 健やかで逞しい心身を育てる』

『栗の輪駅から一分アクセス良好 駅近ホットヨガ始めませんか?』

『大人のフルート教室 体験レッスンはこちら➡︎➡︎➡︎』


 スポーツから楽器、語学、ダンス、パソコン教室や書道教室、色とりどりのチラシたちが、掲示板にひしめきあっては「自分、磨いてみませんか?」「暇、有効活用しませんか?」「お子様に習わせてみませんか?」と呼びかけてくる。

 その筋のプロフェッショナルに憧れる子供たち、社会人生活に刺激を求める大人たち、愛しの我が子に習い事を通して社会性と健康な肉体を手に入れてほしい親たち……。老若男女がその町内掲示板の前で足を止めては、新たなスキルを身につけた自分や我が子を想像し、ちょっとドキドキしては去っていく。


 御歳八十二歳、スーパーでの買い物帰りの金井益代も、例外なくそんな一人だった。


「ヨガってちょっといいわね。でも、腰が悪くてもできるものかしら。あら? シニアコースなんてものもあるんじゃない。どれどれ……」

 益代は眼鏡を外して、掲示板に顔がひっつきそうなくらい近づいて、なんとか小さな文字を追う。下の方に、『シニアコース…六十歳以上を対象にしたコースです! 楽しく、気持ちよく、健康寿命を伸ばしましょう⭐︎』そんな文字に益代はますます興味を惹かれて、ヨガ教室のチラシをそっと裏から持ち上げて、顔を近づけた。

「あ! いけない」

 ビッ! という小さな音ともに、チラシの右上がペラリと落ちた。益代が触れていたせいで、画鋲をとめていたところが千切れてしまったのだ。

「まあまあ、悪いことしちゃった」

 画鋲と紙の切れ端を掲示板から取り外し、貼り付け直そうとした時、益代はぴたりと手を止めた。

「……あら? なにかしら、これ」

 ヨガ教室のチラシの後ろに隠れるように、もう一枚紙が貼り付けてあったのだ。

 色鉛筆で書かれたような、ふんわりとした色味のチラシから、ピンク色で縁取られた煽り文句が、益代に語りかける。


『ま法始めませんか?

 はじめての方にも、丁ねいに教えます。


   レッスン料:無料

   場所:くりの輪公園 ドラゴンの木の下

   時間:夕方4時から』


「ま法……」


 老眼で字が上手く読めていないのかと思って、益代はめがねをつけたり外したりして、そのチラシを凝視した。

 怪しすぎる。手作り感の溢れるチラシには広告主の名前どころか電話番号の一つも記載がないし、レッスン料が無料なのも怪しい。

 しかし——

 

「もしかして、『魔法』って書いてあるの? 魔法が習える教室なんて、聞いたことないわ」


 益代の関心はもはや、駅近ホットヨガ(シニアコース)にはなかった。

  

——⭐︎⭐︎⭐︎——


 栗の輪公園は、実質ほとんどが森林である。

 栗の輪町の北部の多くを占める雑木林と、その中でも住宅街寄りの部分に整備された公園や、野球場、テニスコートの全てを一括りにして、栗の輪公園と呼ばれている。

 そんな公園の、人気の少ない雑木林の中。

 御歳十歳、小学四年生の隣江てみるは、切り株に腰掛けて本を読んでいた。


 てみるははらりとページをめくっては、歪な形に曲がりくねった大きな木に視線を向け、また本に視線を戻す。

 もう一ページめくっては、同じ木に目線を向ける。


「今日も来ない……」


 てみるが魔法教室のチラシを掲示板に貼ってから、一週間が過ぎた。一週間前からこうして毎日『ドラゴンの木』のそばで生徒を待ち続けているけれど、現れるのは鳥や虫ばかりである。一回猫も来た。

「あんなに天才的に魅力的なチラシを作ったのに、どうして誰も来ないんでしょう」

 てみるは、ヨガ教室のチラシが自らの最高傑作を無情にも覆い隠してしまっていることを知らなかった。

 ため息をついて、てみるはまた本に視線を戻す。

 すると、大変である。一ページ前まで冴えない高校生活を送っていた主人公の少年が、突然異世界へと召喚されるではないか。しかも、異世界の女神が言うことには、その世界での彼は異世界のルールを書き換えるほどの異能を備えているというのだ。

「そ、そんな……! なんですか、その展開は! 一体どうなってしまうんですか!」

 それから、陽が沈みかけた頃に益代がてみるに声をかけるまで、てみるが本から木に視線を移すことはなかった。


「もしもし、あなた。本を読んでる時にごめんなさいね」


 突然肩を叩かれて現実に引き戻され、てみるは無言で跳ね上がった。

 ちょうど物語が佳境に差し掛かり、主人公と同じく異世界出身の男が現れ、この世界の仕組みが解き明かされようとしていたのもよくなかった。

 てみるが顔を上げると、一人の老婆が切り株の前に立っていた。

「すみませんけど、『ドラゴンの木』ってご存知?」

「……あっ……、『ドラゴンの木』、探してきたんですか?」

「ええ、そうなんですよ。私随分探しちゃった。公園の男の子たちがね、この辺りにドラゴンの木があるって教えてくれたのだけど」

 てみるは動揺した。

 てみるの計画はこうだった。『ドラゴンの木』を見張り、てみるの作ったチラシを見て来た『弟子』が『ドラゴンの木』に触れた瞬間、


——その木に触れるのは誰ですか?


 そう、妖しげな雰囲気を纏って登場するつもりだったのだ。

 練習した台詞が用を成さなくなったてみるは、どう言ったものか考えながらぎこちなく立ち上がった。

「えっと……えっと……ドラゴンの木はこれです」

「まあ、そうなの。教えてくれて助かりました」

「それと、あのチラシはこのてみるが書いたのです」

「あら、じゃああなたが魔法の先生なんですね。よろしくお願いします」


 こうして、てみるには念願の一番弟子ができたのである。



 

【氷の魔法】





「魔法は使えば使うほど上達するというものではありません。益代さん、今日はもう終わりにして、お茶にしましょう」

 そう少女が言ったので、魔女(子供)と弟子(老婆)は二人揃って公園を後にして、住宅街の中にあるマンションの一室に入ると、お茶を始めた。

 老婆が持参したトートバッグの中から茶葉を取り出し、気分を上げるために着用している魔法使い風ローブを脱ぎ、キッチンに立って紅茶を淹れる。その間に少女は同じトートバッグを漁り出し、中から箱入りの菓子を見つけると目を輝かせた。


 少女——隣江てみるは、ふわふわの生地にクリームが挟まった『ブッセ』が大好物だ。けれど彼女が魔法で生み出すことができるのは精々炎や水、氷など単純な物質のみ。漫画のように魔法でお菓子をポンポンと具現化するといったようなことは叶わず、かといって両親が時々くれるお小遣いはエンタメ小説を買ったら尽きてしまうため、彼女は最近できた一番弟子が手土産にブッセを買ってきてくれるのを心待ちにしていた。


 老婆——金井益代は、長年勤めていた病院を退職し、その翌年に夫に先立たれてからというもの、趣味で集めているさまざまなフレーバー紅茶の茶葉が消費されることなく増え続けていた。彼女にとっててみるは魔法の師匠でもありながら、格好のお茶相手でもあった。


 てみるの手作りチラシをきっかけに二人の師弟関係が始まったのは、まだ蝉の声が聴こえる頃。

 二人の時間は積み重なって、益代はろうそくほどの火を生み出せるようになり、てみるの夏休みは終わり、林の道はどんぐりで埋め尽くされた。


 てみるはブッセを無我夢中であっという間に食べ尽くすと、カップに注がれた紅茶に手をつける。

「熱いですから、気をつけてくださいね」

「む……!」

 てみるは豪快に傾けかけたカップを慌てた様子で止めて、波打つ熱湯の水面を鎮めると、一度テーブルに下ろした。ほかほかと湯気が立ち上るカップを今度は恐る恐る持ち上げる。

「ふーふーするといいですよ」

「ふーふー」

 素直に紅茶の湯気を吹き飛ばしていたてみるは、少しして急にカップを置いて立ち上がった。よほど良いことを思い付いたらしく、腰に手を当てて、得意げにカップを指し示した。

「丁度良いです。せっかくですからここで、てみるが非常に賢い魔法の応用を見せてあげましょう。益代さん、よく見ておくのですよ」

「はいはい、しっかり見ていますよ」

 てみるは益代が椅子ごとてみるの方を向いたのを確認すると、斜めがけのポシェットから小さな杖を取り出して、カップの上で一振りした。


「クチツァ・ユラ・エケ(氷よ、凍てつけ)!」

 

 すると、カップの上空に異変が起きた。周囲の空気中の水分が集まるようにして、空中に水滴が現れると、瞬く間に星の形をした小粒の氷が姿を現わす。氷はカップの中に落ちると、紅茶の熱でカリンと音を立てて割れた。湯気は落ち着き、紅茶は適温になったようだ。

「すごいわねえ。これで火傷しませんね」

 益代が拍手すると、てみるはますます得意げに胸を張った。てみるがこのような魔法が使えるなら、先週お茶で火傷することはなかったはずなのだが、益代がそれを思い出すことはなかった。お互いものを忘れやすいことが、二人の間では良い方向に働いていた。

「ふふん。魔法歴六年なので、これくらい楽勝です。益代さんもこれから頑張れば、こんなふうに上手になりますよ」

「まあ、そんなに長くやっているんですか。上手なわけですね」

 てみるは小学四年生の十歳なので、四歳の頃から魔法を習っていたことになる。普通、魔法を習い始める子供が何歳から習い始めるのか、特殊な習い事ゆえ益代にはわからないが、少なくともてみるにとって、六年の魔法歴はよほど誇らしいことらしかった。

「そうなのです! お父さんもお母さんも、いつも十歳でこんなに魔法が使える子はいないって、天才だって言ってます。イギリスの魔法教室にいた時も、よく『おてほん係』になっていましたし、最近は『土の魔法』で黒曜石……って、ちょっと益代さん? 聞いてますか?」

「聞いていますよ。テレホン係だったんでしょう」

「おてほん係!」

「あら、おてほん係! これは失礼」

 益代は歳と共に、だいぶ耳が遠くなっていた。てみるの喋る速さは、益代には少し速すぎる。てみるもてみるで、つい自慢をしていると喋るのが速くなってしまうのを直そうとしても直せずいるので、お互い様だった。

「すごいわね。きっと、たくさん練習したのね」

「当然なのです。生まれつき魔法が使える人なんて、いるわけないじゃないですか。まあ、てみるには才能があるからこそ、ここまで来れたのですけどね!」

 てみるはふんぞり返った。


 魔法使いは存在するが、生まれつき魔法が使える人は存在しない。


 それは、フグを捌ける板前は存在するけれど、生まれつきフグを捌ける人は存在しないのと同じ。金管奏者は存在するけれど、生まれつき金管楽器の音を出せる人は存在しないのと同じことだ。

 益代は今まで、魔法とは魔女の一族だけが使える特別なものなのだと思っていた。けれどそれは実は間違いで、魔法とは楽器と同じように正しい方法で練習することで誰でもある程度使えるようになるものなのだそうだ。

 実際、今まで魔法なんて物語の中でしか知らなかった益代にも、この二ヶ月で少しだけ小さな火を起こしたり、静電気程度の雷を操れるようになった。

「でも、不思議なものですねえ。呪文を上からと下からで交互に読んだり、杖の素振りをしたり、魔法陣を書き写したり。最初は、こんな練習で魔法が使えるようになるなんて思いませんでした」

 無邪気な益代の言葉に、てみるはつい頬を緩めた。より遥かに歳を重ねた老婆のはずの益代の姿が、四歳や五歳の頃の幼い自分の姿と重なる。

「ふふふ、てみるも、魔法を始めたばかりの頃は、そう思いました。『こんな練習つまんない。早く、先輩みたいに火柱を自由に動かす練習とかをしたい!』って。懐かしいです」

「私、生きてるうちにできるようになるかしらねえ」

「益代さんの努力次第なのです。魔法は基礎練習が何より大事ですからね」

「うふふ。じゃあ、頑張らなくっちゃ」

 益代は、まるで蛇遣いのように自由自在に火柱を操る自分の姿を想像して、胸の中がソワソワと落ち着かなくなった。想像の中の益代は今よりもっと腰が曲がって、髪も真っ白。それでも、それはそれで威厳のある魔女らしくて素敵だと、益代は思った。





【秘密の魔法】





 その日、隣江てみるは不機嫌だった。


「次、勅使河原さん」

「ほーい!」

 髪の毛を短く刈りそろえた男子生徒が、ハードルの設置された五十メートルレーンへと躊躇なく飛び込んでゆく。ひょいひょいと軽々とハードルを飛び越えて、一気にゴールまで駆け抜けていく。

「勅使河原さん、新記録!」

 歓声と拍手が青空の校庭に響き渡った。

「……」

 てみるは耳を塞ぎたい気分だった。ゴールでガッツポーズをする姿がいかにも誇らしげだ。

「次、隣江さんどうぞ」

「はい……」

 先生の号令で、てみるはレーンを駆けて行く。けれど、ハードルまであと少しというところで、急に不安が押し寄せた。結局、てみるはほとんど歩いているような速さでハードルの前に辿り着いた。

「あっ、あっ……」

 そんな勢いではハードルを飛び越えられるはずもなく、てみるはハードルの前で止まってしまった。

「あきらめるなよー!」

 誰かの声にてみるの反抗心が燃え上がった。てみるは思い切って助走もなくハードルに飛び込む。

 ハードルはバタンと大きな音を立てて、うつ伏せのてみると共に地面に倒れた。 


——⭐︎⭐︎⭐︎——


「……………………」


 二時間目の体育が終わっても、三時間目の国語の時間もてみるは不機嫌だった。四時間目の算数も、給食も、五時間目の道徳も、てみるはむすっとした顔を貫いた。すなわち、一日中不機嫌だった。最近、体育のある日のてみるは大体こうである。

 自分の机に着席していると、一部の女子たちが「てみるちゃん元気出して」と励ましてくれる。しかし今は何を言われても惨めな気持ちになるだけなので、「I can't speak Japanese.」と言ったら、彼女たちは顔を見合わせて去っていった。

「えっ、隣江、犬飼ってるの?」

「は?」

 思わぬ言葉を浴びせられて、てみるは無視をするつもりだったのについ顔を上げてしまった。上の方を見上げると、トゲトゲの頭と日焼けしたおでこが見えた。

 クラスメイトの名前を半分くらいしか覚えていないてみるでも、その生徒は出席番号順で並んだ時にてみるのすぐ目の前なので覚えていた。勅使河原という、なんと憎らしいことに、てみるの苦手な体育が得意な男子だ。

「そんな話してませんけど」

「だって愛犬とどっか行ったって今話してたじゃん」

「え……? 本当にしてませんけど……」

「いや嘘絶対してたって。っていうか、それはどーでもよくて」

 勅使河原はニヤニヤと笑いながら言う。その顔つきにも、話してないことを話したと言ってくるその不可思議さにもてみるは不愉快になった。

「俺、ハードル走得意だからさ、教えてやるよ!」

「なっ……!」

 てみるは思わず立ち上がって勅使河原を睨んだ。彼はきっと、ハードルのひとつも跳べないてみるを見下し、憐れみ、優れている自分が教えてやろうと思ったのだ。そう思ったら、悔しくてたまらなかった。

「馬鹿にしないでください! 魔……」


 ——魔法も使えないくせにっ!


 そう言いかけて、てみるは口を閉ざした。

「……ま?」

「……もういいです! てみる、あなたみたいな失礼な人嫌いです!」

 一日中堪えていた涙が溢れそうで、てみるは乱暴にランドセルを掴むと教室から逃げるように林へと走った。

 秋晴れの空は明るく、日はまだ沈むつもりはないらしい。それすらもなんだか、スポーツのできる人の味方をしているみたいで、気に食わなかった。


——⭐︎⭐︎⭐︎——


——今度の学校では、魔法が使えることを内緒にするんだよ。


 てみるがこの栗の輪小学校三年二組に転校生として登校する前日、てみるの父親は言った。

 転校前にてみるが通っていたイギリスの学校では、魔法を習っている子は珍しくなかった。てみるの友達も、てみると同じ魔法教室に通っていたし、てみるが中学生に混じって中級クラスで魔法を習っていることを、大層尊敬していた。

 でも、日本では違う。人気の習い事はピアノや水泳で、魔法を習っている子供なんてほとんどいないし、そもそも、魔法の存在を信じていない人も多い。

 それを知らなかったてみるは、日本に来て最初の学校で、大きな失敗をしてしまった。みんなに魔法を自慢したくて、教室の真ん中で魔法で炎を起こした。みんなは悲鳴を上げ、防災ベルが鳴り、駆けつけた先生はてみるを叱り、『学校でマッチ遊びをするのはやめましょう』と全校朝礼で校長が言った。

 それ以来、てみるに話しかけてくれる人は誰一人いなくなった。


——てみるの魔法はすごいよ。だからこそ、てみるには魔法を好きでいて欲しいんだ。


「てみる、魔法が大好きです」


 てみるは杖を振り、もうすっかり暗記した呪文を唱える。そうすると、空中の水分が雪の結晶になって、秋の空を舞った。キラキラと光って綺麗だから、てみるはこの魔法が一番好きだった。


「だけど……学校は嫌いです」 


 こんなにすごい魔法が使えるのに、今のクラスメイトや先生にとって、てみるは運動も勉強も苦手な上に、本ばかり読んで友達の少ない、ただの落ちこぼれ。

 本当のてみるを認めてくれる人は、学校にはいないのだ。





【雨の魔法】





 雨が降ったら魔法のレッスンはお休み。

 それは、てみるが決めたルールだった。公園は使えないし、家の中で魔法の練習をすると、もし暴発した時に危険だからだ。

 土曜日の朝、益代が目を醒ますと、外は雨模様だった。陽が差さない薄暗い家に、バタバタと益代の家の古い屋根を雨が叩く音が響く。

「師匠は今頃、なにをしてるかしらねえ」

 益代は、自信家で努力家な少女に思いを馳せる。

 週末はてみるの両親の仕事が休みだから、三人で買い物かなにかに出掛けているだろうか。それとも、雨だから家でホットケーキでも焼いて、のんびりとしているだろうか。

 益代と夫は、子宝に恵まれなかった。その分、二人揃って毎日仕事を忙しくこなしていたから、退屈することはなかったけれど、てみるのことを思うと、もしも自分に孫がいたならこんな風に可愛いだろうかと想像してしまう。

「……なんて、師匠の本当のおばあちゃんに失礼よね」

 一人で家に引きこもっているのもつまらなくなって、益代は玄関の扉を開けた。目の前が灰色に煙るほどの土砂降りが、視界を遮る。

「あらまあ、すごい雨!」

 差し伸ばした手の平に、雨粒が落ちた。


——⭐︎⭐︎⭐︎——


 雨が町中を包み込んでいる。

 本当は今日決行する予定だった栗の輪小学校の運動会は、雨で中止になった。林も、公園も、駅前も、学校も、きっと今頃は誰もいないだろう。

 てみるは水を操る魔法を使って、自分の周りだけ雨が降らないようにしながら、切り株に座って本を読む。こんな読書はてみるにしか出来ないと思うと、少し気分がいい。


『お前……一体、その力は何なんだ! お前、この世界の人間じゃないのか?』

『え? 俺、またなんかしちゃいました?』


 主人公の能力に、周囲の人間が恐れ慄く。しかし主人公は何食わぬ顔で、きょとんとしている。てみるがこの本の中で一番好きなシーンだ。


「てみるだって、もしみんなの前で魔法を使ったら……」

 

 いつもはニヤニヤといやらしく笑っている勅使河原が、びっくりして腰を抜かす様子を思い浮かべる。「隣江、そんなすごいことができるのかよ!」なんて言われて、クラスのみんなもきっとてみるに一目置いて。もしそんなことになったら……てみるもついニヤニヤしてしまいそうだけれど、そこはぐっと我慢してなんでもない顔をするのだ。「これくらい、てみるは一年生の頃からできましたけど?」って。


「……なんて、そんな風にならないことくらい、てみるにもわかってますよ」


 てみるはパタンと本を閉じた。

 そんなのは想像の中だけの話だ。そんなことをしたって、ただてみるの評判が『運動も勉強も苦手で友達も少ない落ちこぼれ』から、『勉強も運動も苦手で友達も少なくて校内でマッチ遊びをする問題児』になるだけだと知っている。

 だから、てみるはみんなの前で魔法を使わない。

 でも本当は、知ってほしかった。てみるが本当は、ただの落ちこぼれなんかじゃないと、わかってくれる人が欲しかった。

 だからあんなチラシを書いた。このドラゴンの木のそばの切り株で待っていた。


「あら、師匠。こんにちは」


 木々の間を通り抜けて、その人が来てくれるのを。





【虹の魔法】





「益代さん!」

 益代が小道を抜けてドラゴンの木の広場に姿を見せると、てみるは驚きのあまり手に持っていた本を取り落とした。

「すごい雨ですね。私も座ってもいいかしら?」

 てみるが目を丸くしたまま頷くと、益代は「よっこいしょ」と同じ切り株に腰を下ろした。切り株はてみるの魔法で雨を弾かれていたので、乾いていて暖かい。

「益代さん、どうして……っていうか、すごいです。水を操る魔法、もう習得していたのですね」

「ふふふ、師匠のレッスンの賜物ですよ」

 てみるは益代の周りを覆い雨を弾いている魔法のドームをまじまじと見上げた。先週、練習中に突然雨が降り始めたときにてみるが魔法で雨を弾いているのを見て、教えてほしいと頼んだのだ。

 てみると益代の肩が触れると、二人分のドームが重なって一つになり、切り株を包んだ。

「今日、来てくれると思いませんでした」

「私はね、なんだか雨だけどお散歩したくなったんですよ。師匠は、どうしてここにいらしたんですか?」

「てみるは……。……親とケンカして、逃げてきちゃいました」

「あらあら」

 てみるはばつが悪そうに唇を尖らせた。てみるは普段、両親を『パパとママ』と呼ぶけれど、叱られたり、ケンカした時だけは『親』と呼ぶ。

「あのね、益代さん」

「ええ、どうしましたか?」

 てみるは膝の上に握りしめた文庫本に視線を落としたまま、小さな声で呟いた。

「頑張っても、すごいことができても、誰も褒めてくれない時……益代さんだったら、どうしますか?」

 てみるの問いかけに、益代は首を捻った。

 益代はてみるの家族のことも、学校のことも、てみるの話を介してしか知らない。だから、てみるが家族とケンカした理由も、てみるの悩みも、わからない。

 けれど、肩を落としたてみるの姿は、ほんの少し前の自分の姿とよく似ていると思った。


——⭐︎⭐︎⭐︎——


——金井先生、ありがとうございます。

——もう、一生治らないと思っていました。先生に出会えて、本当に本当によかった。


 皮膚科の名女医として、沢山の患者を受け持ち、頼りにされていた頃。もちろん治療が思うようにいかないこともあったけれど、勉強を重ねて、新しい治療法や症例を知るたびに成長し、より多くの人を治療してきた。

 けれど、それにもやがて限界がきた。目が悪くなって、耳も腰も記憶力も悪くなって、自分が病院にかかることの方が増えていった。なんでもかんでもスポンジのように吸収して、一回見た患者の顔と症状は決して忘れないと噂の才媛の面影は、もうどこにもなかった。


——ちょっとおばあちゃん、大丈夫? 


 医師を引退してしばらくしたある日。お金がうまく出てこなくて、スーパーのレジでもたついている時に、若い店員が顔を顰めながらそう言った。

(ああ、私は、ただのおばあちゃんなのね)

 医者ではない、ただのおばあちゃんを褒めてくれる人なんていない。これからはもっとできることが減っていって、覚えていたこともどんどん忘れていくだけなのだ。

 そう思ったら、ひどく悲しくなって、トボトボと重い足を引き摺るように家路を歩いた。


——⭐︎⭐︎⭐︎——


 益代は辛かった時のことを思い出して、少し胸が痛んだ。誰にも認められなくて、自分のことを嫌いになってしまいそうだった日。

 でもあの日は、それだけの日ではなかった。

「そうですね、私だったら……そういう時は、とにかく、前を向いて歩いてみるわ」

「歩いてみる?」

 首を傾げるてみるを見て、益代は微笑んだ。

 そう、今の自分の全部を否定された気がして胸が詰まった帰り道。

 そこで益代は出会ったのだ。


  

——『ま法始めませんか?』



「前を向いて歩いているとね、不思議なくらいにバッタリ出会えるんですよ。新しい素敵なことや、新しい自分にね。それを、一歩ずつ追いかけていけばいいんです。

 そうしたら、ある時、『褒められたい』なんて思っていないときに、フッと褒めてもらえるものですよ」


 てみるは顔を上げて、益代を見つめた。

「本当ですか? てみるも、いつか褒めてもらえますか? たくさん褒めてもらえますか?」

「ええ。八十二年も生きてる私が言うんだから、間違いありませんよ」

 益代は深く頷いた。きっとてみるのこの先の長い人生には、そんな出会いが数えきれないほど、待っているに違いない。

 ——もう二度と誰にも褒められないと思っていた益代のことを、てみるが褒めてくれたのと同じように。


 てみるは不安そうにしながら、けれど小さく頷いた。

「わかりました。てみる、前を向いてみます! でも、前を向くって、どうするんですか?」

「そうね……私が新しい自分に会った日は、すごくお天気が良かったの。

 だからどうかしら、雨が止んだら、前が見えるかもしれませんよ」

 益代がそう言って空を指し示すと、てみるは驚いたように目を丸くした。

「益代さん、もしかして気付いていたんですか?」

「うふふ、やっぱりこの雨、師匠が降らせていたんですね」 


 益代は今朝、玄関から出て雨に触れて、気がついた。雨粒が手に触れた瞬間に消えて、水が溜まらないのだ。道を見ても、こんなにも土砂降りなのに水溜りが一つもできていない。

 益代は驚いて、そして、数日前に益代が魔法で起こした火が、炭ひとつ残さずに消えたことを思い出した。

「……それで、この雨が魔法の雨だって気づいたんですよ。それにしても、町中に雨を降らせられるなんて、師匠はやっぱりすごいですね」

「別に、これくらい楽勝です」

「ふふ、さあ、雨を止ませるところ、見せてください。私もよく見ておいて、お勉強しなくっちゃ」

 てみるは気恥ずかしくて、目を逸らした。雨を降らせた理由が不純だったからだ。

 てみるが雨を降らせたのは、運動会を台無しにするため。運動ができる子ばかりが褒められるのが気に食わなくて、運動会が中止になって少しガッカリすればいいと思ったのだ。けれど、それに勘づいた両親に、てみるはひどく叱られた。

 叱られても、納得できなかった。てみるは魔法が使えて、勅使河原たちは運動ができる。それだけのことなのに、てみるばかり惨めな思いをしなきゃいけないのは、理不尽だと思った。


(でも、これは……きっと、『前を向く』じゃないですよね)

 てみるは、空に向かって杖を掲げる。


「わかりました。益代さん、師匠の魔法、よーく見ておくんですよ!」


 雨の上がった空には、透き通った青色が広がっていた。




【エピローグ】





 からりと晴れた空の下。てみるは土を蹴って、ハードルをぴょんと飛び越えた。

「おおー! 今、いいフォームだった!」

「本当? ふふん、さすがてみるです。もしかしたら遅咲きの才能だったのかもしれません」

「あはは! そうかもな」

 勅使河原は拍手をして、満足そうに笑った。

「本当にびっくりしたよ。誘った時はあんなに怒ってたのに、いきなり『ハードル走、教わってやってもいいです』って言ってきてさ」

「真似しないでください……」

 てみるは唇を尖らせて、目も合わせない。

「せっかく運動会が延期されましたから、ちょっとくらい練習してやろうと思っただけですよ」

「うんうん、いいと思う! できないよりできた方が、絶対運動会も楽しいもんな」

 最初はぎこちなかった勅使河原とてみるも、練習を重ねるうちに徐々に打ち解けていき、今ではお互いにタイムを測りあって、自己新記録が出たらハイタッチするまでになった。

「そういえば、隣江が『愛犬となんちゃら〜』って言ってたの、ずっと気になってるんだよな。あれ、俺何を聴き間違えたんだろう」

 勅使河原がてみるを練習に誘った時の話だ。てみるも正直、ずっとモヤモヤしていた。

「愛犬と、のあと、何て言ってたか覚えてますか?」

「確か、『愛犬とスペインに行っちゃった』とか言ってたような……」

「てみる犬も飼ってませんし、スペインにも行った事ありません。イギリスに住んでたことはありますけど……」

 そこまで言って、てみるは閃いた。

「あーっ! もしかして、『I can't speak Japanese.』って言ったことですか?」

「そう! 多分それだ! でもなんだそれ、英語?」

「英語です! 全く、益代さんといい、どうしててみるの周りの人は変な聞き間違いばかりするのですか……」

 大きなため息をついた後、顔を上げて、てみるはギョッとした。勅使河原がキラキラと目を輝かせててみるを見ているのだ。

 てみるはこの目を知っている。てみるがイギリスで浴びていたのと同じ、純粋な尊敬の眼差しだ。

「隣江、まだ四年生なのに英語喋れるんだ! すごいな!」

「えっ、そ、そうですか?」

「すごいよ! そうだ、来学期から本格的に英語の授業が始まるだろ。教えてくれよ!」

 てみるは勅使河原の視線を浴びているうちに頬が熱くなって、思わず後ろを向いた。


——そうしたら、ある時、『褒められたい』なんて思っていないときに、フッと褒めてもらえるものですよ。


 益代が言っていたのはこういうことなのかもしれないと、てみるは後ろを向いたまま、小さく笑った。

「ふん! 仕方ありませんね。 そこまで言うなら勅使河原さんのこと、てみるの二番弟子にしてあげてもいいです!」

「二番弟子? 一番弟子がいるのか?」

「ふふん。あなたの兄弟子は、優秀な方ですよ。今度、会わせてあげましょう」

「うん? なんかよくわかんないけど、楽しみだな!」


 首を傾げる勅使河原は、てみるが彼の英語の師匠でありながら、とある老婆の魔法の師匠でもあるということを、まだ知らない。



 終

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