第2話:松永内記、裏切りの目

夜が明けた。


久秀は、昨夜の興奮を鎮めるように、庭園の縁側に腰を下ろしていた。背中に感じるのは、朝露に濡れた柱の冷たさ。肌を撫でる風は湿気を帯び、遠くで聞こえる小鳥の声は、やけに澄んで聞こえる。

石灯籠には、深い緑色の苔がびっしりと生えていた。指でなぞれば、ぬるりとした手触り。その苔の隙間から、まるで血のように赤い小さな花が顔を覗かせていた。石灯籠の横を流れる水音は、絶えず久秀の耳に届く。ただの水の音ではない。それは、まるで誰かが囁いているようだった。


「……裏切り者、裏切り者……」


その囁きは、香炉から漂う甘く重い香りと混ざり合い、久秀の鼻腔をくすぐる。甘いはずの香りが、彼の嗅覚を歪ませる。血の腐敗臭、あるいは、死体が横たわった場所の土の匂い。その不快な匂いが、身体の芯まで染み込んでいくようだった。


久秀の思考は、無限ループに陥っていた。

あの老人は……誰だ。いや、この屋敷の家臣だ。……いや、違う。俺を裏切った山南敬助だ。いや、新見錦か? いやいや、もっと違う。あいつは、もっと巧妙な罠を仕掛けていたはずだ。……そうだ、俺を刺した土方歳三だ。あの冷たい目つき、俺を化け物を見るような目つき。あの男は、俺が裏切り者だと決めつけていた。……いや、俺は裏切り者ではない。俺は裏切られたのだ。


その耳に、庭石を踏む足音が聞こえる。音の主は、久秀の前に静かにひざまずいた。


「ご気分はいかがでしょうか、久秀様」


昨日とは違う、若い男の声だった。その声は、若々しい声色でありながら、重く低く響いた。その顔には、年若いながらも聡明さと、久秀への深い忠誠が宿っているように見えた。男は、久秀の目を見て、まっすぐに言葉を続ける。


「昨晩、気分を害されたと聞き及び、案じておりました。松永内記と申します」


松永内記。その名を聞いた途端、久秀の身体に、雷が落ちたような衝撃が走った。昨夜、脳裏に浮かんだ裏切り者の連想ゲーム。その中に、松永久秀を裏切ったとされる人物は存在しなかった。しかし、その「裏切り者」の知識は、芹沢鴨という裏切られた者の記憶と混ざり合い、一つの強烈な結論を生み出していた。


内記は、深い藍色の絹の衣をまとっていた。その生地は、光を吸い込むように、黒々と輝く。腰に差した刀の鍔には、細やかな龍の細工が施されていた。その龍は、まるで内記自身のように、静かに、しかし獲物を狙うように久秀を見つめている。

見ろ。この男の着ている衣は、裏切り者の闇の色だ。そして、この龍は、いつか俺を食い尽くそうと牙を研いでいる。……そうだ、近藤勇も、あの時、立派な羽織を着ていた。そして、俺の目を盗んで、土方に裏切りを命じた。この男の刀の鍔は、裏切り者の装飾品だ。


久秀の目は、もう内記という男を見てはいなかった。そこには、新選組の屯所で、自らの死を招いた裏切り者たちの姿が、何層にも重なって見えていた。


「……何用だ」


久秀の声音は、昨夜よりも冷たかった。内記は、その声にわずかに眉をひそめたが、すぐに恭しい表情に戻る。


「はい。筒井順慶が、また我らの領地を侵しております。和睦か、あるいは徹底抗戦か、ご判断を賜りたく」


筒井順慶。その名も、久秀の脳裏にある古い書物の中に記されていた。久秀の宿敵であり、幾度となく裏切りと寝返りを繰り返した男。


久秀の思考は、順慶の報告を聞きながらも、内記への疑念を深めていく。


「筒井順慶を、どう始末する?」


久秀は、内記に問いかけた。その言葉には、答えを求める気持ちはなかった。ただ、目の前の男が、どのような言葉で自分を欺こうとするのか、それを試しているだけだった。


「……和睦を、お勧めいたします」


内記は、ほんの一瞬だけ、眉を震わせた。その瞳の奥に、わずかな焦りが宿っているように見えた。声が、ほんのわずかに遅れて震える。


「和睦をすれば、筒井順慶は一時的に矛を収めましょう。しかし、我らが力を失えば、再び牙を向けるでしょう。今は、雌伏の時かと」


内記の言葉が、久秀の耳には「雌伏」ではなく、「死伏」と聞こえた。そして、次の瞬間には「私腹」と聞こえ、さらに「屍服」と聞こえた。裏切り者の衣を纏い、俺を裏切ることを至福とでも思っているのか? いや、裏切る奴の顔は、もっと醜悪な笑顔だったはずだ。


その時、周囲に控えていた他の家臣たちが、内記の言葉に安堵したかのように、息を吐く音が聞こえた。彼らの視線が、一斉に久秀に集まる。


久秀は、その視線が、まるで無数の刃となって、自分の背中に突き刺さるような錯覚を覚えた。彼らの顔は、一様に安堵と、わずかな期待を浮かべている。

見ろ。こいつらは、全員俺が死ぬのを待っている。内記の言葉が、こいつらの望みそのものだったのだ。俺が和睦を選び、雌伏の時を過ごせば、奴らは俺の背後から、いつでも牙を剥ける。近藤がそうだったように、山南がそうだったように、土方がそうだったように。……いや、違う。俺を裏切って、こいつらは喜んでいる。俺の死が、こいつらにとっての至福なのか。


久秀はそう確信すると、内記の顔をまっすぐに見つめ、にやりと口角を上げた。その顔は、間違いなく芹沢鴨の、豪放で、獰猛な笑みだった。内記は、その笑みに、これまで見たこともないほどの狂気を感じ、思わず息をのんだ。


「……俺は、裏切られる前に、奴を始末する」


久秀はそう呟いた。その言葉は、内記の言葉に隠された裏切りを打ち破り、新たな裏切りへの決意を告げる、宣戦布告だった。

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