戦国新選組 裏切×裏切 -芹沢鴨が松永久秀に逆行転生した裏切り者は死すべしな世界線-
五平
第1話:油断の果て、目覚めの時
油断、という言葉を、芹沢鴨は心底軽蔑していた。
しかし、その日の晩だけは違った。酒に酔い、女の艶めかしい声と、仲間たちの賑やかな笑い声に囲まれ、鴨はほんの一瞬、張りつめていた己の心を緩めた。
それが、すべてを終わらせる合図だった。
背後から襲い掛かる、冷たい刃の感触。
熱いはずの血は、どろりと温い泥に変わっていく。肺が、まるで粘液で満たされるかのように重く、息ができない。
「……やられた」
頭に響くのは、近藤勇の裏切りに満ちた作り笑い。胸に広がるのは、どうしようもない怒りと、仲間という幻想に裏切られた、深い孤独感。
あの日、あの時、俺は。
「油断した……」
自嘲するように呟いたその声は、やがて来る死の闇に飲み込まれていった。
だが、次に鴨が目を開けたとき、彼は新選組の屯所にいたわけではなかった。
目を覚ましたのは、見慣れぬ寝室。天井は、黒く太い梁が組まれ、その重厚さが彼の頭上を押しつぶすようだった。着物は、生まれてこのかた袖を通したこともない上質な絹。香炉からは、甘く、どこか腐敗したような香りが漂ってくる。
そして、何よりも違和感を覚えるのは、自身の身体だった。
やけに軽く、老いた骨が軋むような感覚。手が布団から離れる瞬間、ざらりと乾燥した肌が滑らかな布と擦れる音が耳障りだった。手のひらを見れば、そこには幾重にも刻まれた皺。節くれだった指が、自分の知らない人生を物語っていた。
部屋に満ちる香は、甘い。だが、その甘さの奥に、なぜか腐敗した果物のような、不快な匂いが混じっている。……いや、違う。この匂いは、俺の匂いだ。身体の内側から、じわりと滲み出してくる、血と泥が混じり合った、死の匂い。
遠くから、人々の話し声が聞こえる。それは、新選組の屯所での、裏切りを画策していた者たちの、あのひそひそ話に似ていた。耳を澄ませば、その声の端々に「久秀様」という言葉が聞こえてくる。
「……久秀様、ご気分は如何に?」
恐る恐る、声がかけられる。
その声の主は、平伏する一人の老人だった。見慣れない顔だが、その表情に、芹沢は覚えがあった。土方歳三が、屯所内で俺のいないところで浮かべていた、あの薄ら笑い。近藤勇が、裏切りを画策する前に見せた、あの偽善的な笑顔。そのすべての要素が、この老人の顔には凝縮されていた。
「……久秀?」
久秀。その名を口にした途端、鴨の頭の中に、まるで古い書物がめくられるような音が響いた。
久秀……。たしか、そういう男がいたな。織田信長にさんざん寝返って、将軍を殺して、最後は爆死した……戦国の世の、最強の裏切り者か。
記憶の濁流が、頭に流れ込んでくる。
足利義輝を暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き討ちした男。
だが、その悪行とは裏腹に、茶の湯を愛し、文化人としても名を馳せた。
そして何より、最後まで誰も信じず、ただ己の力と才覚だけで乱世を生き抜いた男。
「……はは、俺と似ているようで、まったく違う。俺は裏切られて死んだが、こいつは裏切って生き延びた。そして、最後は自分を裏切るように、自ら爆死した……」
久秀は、ゆっくりと立ち上がった。その動作一つ一つに、鴨の身体にはなかったはずの、深みと重みが伴っていた。
刀を手に取る。その重みは、新選組の愛刀・虎鉄とはまったく違うものだった。
その刀をゆっくりと抜き放つ。刃こぼれ一つない美しい刀身が、部屋の明かりを反射して、鴨の顔を照らした。
その顔は、あの日の自分と同じ、獰猛な鬼の形相をしていた。
「裏切り者は、死すべし」
だが、その声は、自分自身の言葉でありながら、なぜか酷く遠い場所から聞こえるようだった。
久秀は、平伏する老人の背中を見つめた。
そして、その老人の背中が、新選組の屯所で見た、あの裏切り者の背中と重なって見えたとき。
久秀は、ゆっくりと刀を振り上げた。
---
久秀は、刀を振り上げたまま固まっていた。
斬れない。
いや、斬れないのではない。斬ってはいけない、と身体が警告を発していた。
脳裏を過ぎるのは、新選組の屯所で土方歳三が俺を背後から刺した時の光景。あの時、俺は酒に酔い、女と戯れ、油断していた。
だが、今、目の前の男には、何の殺意もない。ただ、ひたすら恐怖し、命乞いをしているだけだ。
「…斬ってどうする。こいつが裏切り者だと、誰が決めた」
そう自問自答した瞬間、久秀の意識は、再び混沌の海に沈んでいく。
いや、俺の目が、こいつが裏切り者だと告げている。あの目だ。新見錦が俺に媚びへつらう時の、あの目がここにいる。いや、山南敬助か? 近藤か? 違う、違う。こいつは、全員だ。裏切り者たちの集合体だ。…ああ、そうだ。こいつを斬れば、俺を裏切った全ての人間を斬ることになる。…いや、違う。この男はただ、ここにいるだけだ。…俺は、どうしてこんなことを…
その混乱の中、久秀の五感が、信じられないほど鋭敏になっていく。
平伏する老人の、心臓の鼓動が聞こえる。ドドンドドンと、まるで打楽器のように部屋に響き渡る。その心音は恐怖を訴えている。だが、その音の裏に隠された、微かな安堵の音も聞こえた。…なぜだ? 彼は、俺が何もできないと見抜いていたのか?
老人の汗の匂いが、鼻腔をくすぐる。その匂いは、腐敗した草の匂いと、微かな血の匂いが混じっていた。…いや、これは、俺の匂いだ。俺の身体から発せられている、血の匂いと、腐敗したような、死の匂い。
部屋の隅に置かれた、茶釜が目に入る。その表面には、細かく美しい装飾が施されている。だが、久秀の目には、その茶釜が、まるで時限爆弾のように見えた。
この茶釜の底に、火薬が仕込まれている。そして、この部屋のどこかに、信長が仕掛けた罠がある。ああ、そうだ。俺は、この部屋で死ぬんだ。…いや、違う。俺は、まだ死んでいない。
久秀は、刀をゆっくりと下ろした。
カチリ、と、鞘に収まる音がやけに大きく響く。
そして、その鞘に収まった刀を、ゆっくりと老人の目の前に突き出した。
「……何用だ」
久秀の声音は、冷たい氷のようだった。家臣は、ただ事ではないと悟り、震える声で答える。
「いえ、何でもございません! その、この先の障子が壊れておりまして……」
久秀は何も言わず、家臣の肩から手を離し、ゆっくりと歩き去る。その背中を見送りながら、家臣は全身から汗を噴き出し、その場に崩れ落ちた。彼の胸には、誰にも見えない「裏切り者」の烙印が、熱く焼きつけられていた。
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