第5話 スケープゴート

「――ぜっっったいに、いや!」

 嫌悪感を隠そうとしない飛鶴の声が、部屋から聞こえてきた。

 ついで、ばさりと紙の束を落とす音も。

「そんなに乱暴なことしないで」

 なだめるような母の声。

 絶対にひと悶着起きている。

 私は入室するのをやめ、耳をすませた。

「結婚?お見合い?今何時代だと思ってるの?」

「私たちみたいな家柄なら、一般的なことだから」

「無理無理無理無理きもいきもいきもい、高校入学前の、制度上でいえばまだ女子中学生な人間を捕まえてお見合いだなんてマジできしょいんだけど」

 それは心底同意する。

 としたら、飛鶴が払い落としたのは、釣書の山かもしれない。

 高校進学を控えた春の日のことだった。

 私たちは進路希望を父親に聞かれ、当たり前のように「進学」と答えた。

 直近のデータでは、日本の高校進学率は98.5%。高校は義務教育ではないと言いながらも、実質的には通過儀礼として進学する。

 少なくとも私たちや私たちの周りでは、中学卒業後に働くとか、家のことをするとか、そういう目的意識を持って、あえて中卒を選択する子はいなかった。

 家を出たがっている飛鶴も、高校には進学する。

 進路について二人で話をしたときのことは鮮明だ。

 絵の仕事に注力するのかと聞いた時、飛鶴は鼻を鳴らした。

「仕事を請け負っているにしても、学歴はこの先絶対に邪魔にはならない。独り立ちには欠かせない。絵の方はどうなるかわからないし、だったら保険として高卒資格は必要。……なにより、それが今のスタンダードでしょう?」

 そんな風に将来を考えている人間に、15歳の時点で見合い話を持っていくなんて、絶対にこじれるに決まっている。

「あなたが家を出たいと言うからいろいろなところに声をかけたのに」

「お母さまこれ確認したの?おっさんばっかりじゃん!」

「みなさんいい家柄よ」

「年の差えぐいし、うちみたいな化石な考え持ってる家の人と結婚なんて絶対にしない!ぶっちゃけお母さま達見てたら結婚願望なんかゼロ超えてマイナスだし、こういうのもう持ってこないでほしい。うんざり!」

「でも、あなたたちもいずれは子供を産んで、力を伝えていかないと」

 ガシャン。

 反射的に身が縮む。おそらく部屋に飾ってあった花瓶、飛鶴がよくデッサンの練習に使っていたものを、思い切り壁に向かって投げつけたのだ。

「……あたしの人生、勝手に決めないでくれる?」

 心臓がバクバクする。

 ゆっくり、そろりそろり、足が動くけれど、離脱する踏ん切りがつかない。

「どうしてもっていうなら、舞鶴にお願いしなよ」

 薄ら笑っているのだろうか、姉は代替案を示した。

 私はそれを聞いてからその場を離れてしまったから、母がなんと言ったかはわからない。

 わがままだ、自己主張が激しい。

 そう言うのは簡単だ。

 けれど少なくとも、飛鶴は家から出ようとした。そのための努力はしていた。

 私をスケープゴートにしようとしている節はあっても、家から出ることを第一優先にしていたら、理論上は間違いじゃない。

 真っ暗な空間で、膝を抱えてふさぎこんでいる。

 そんな自分を幽体離脱したみたいに見つめている。

『私が我慢すれば、飛鶴の願いは叶う』。

 自分の声が、頭に響いた。

 膝を抱えている私は、一層自分の身体を強く抱きしめた。

 ……本当に?

 自分がどうしたいのか、わからないまま、ずっと足踏みしていただけじゃない?

 その結果が今じゃない?

 姉の願いを叶えるため、なんてコーティングをしていて、自分がなにもしていないことの言い訳にしていない?

 鉛のような足を一歩、前に出す。

 流されるように生きてきて、たどり着いて、そこも安住の地ではない。

 もしも時間を戻せるのなら。

 私は飛鶴みたいになれるだろうか。

 手を取り合って、戦えるだろうか。

 指先から世界を変える、いながらにして多くを見れる。

 そんな現代社会せかいから弾かれないまま、私も生きていけただろうか。

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