第12話 霧中の追撃

  サイレンが街を震わせた。

 怒号と軍靴の響きが、石畳の路地を埋め尽くす。

 真理子は息を切らし、胸を押さえながら駆けた。背後では銃声が断続的に鳴り、霧を裂いて火花が散る。


 その隣を、黒い影が音もなく走る。

 ゴースト——そう名乗った男は、ただ無言のまま、手の合図と鋭い視線だけで進むべき道を示していた。

 彼の足取りには一片の迷いもなく、まるでこの街の路地という路地をすべて記憶しているかのようだった。


「こっち……? 本当に——」

 真理子が問いかけるより早く、ゴーストは壁際に彼女を押し付けた。

 直後、角を曲がった兵士の小隊が駆け抜けていく。ライトが霧を切り裂き、石壁を白く舐めた。

 息を殺し、真理子は自分の心臓の鼓動だけが耳を打つのを感じた。


 兵士たちの影が過ぎ去ると、ゴーストは手をひらりと動かす。

 ——「走れ」。

 言葉はなかったが、その合図だけで十分だった。



 追跡の輪は狭まっていく。

 頭上をドローンが唸りを上げ、赤いレーザーが霧の中を走った。

 通りの先には検問が設置され、黒い装甲車が道を塞いでいる。


「もう、進めない……!」

 真理子の声が震える。だがゴーストは一瞥しただけで、迷いなく上を指差した。


 次の瞬間、彼は配管を蹴って壁をよじ登り、屋根へ飛び移った。

 真理子は呆然と見上げたが、その伸ばされた手を掴むしかなかった。

 瓦が軋み、息が喉を焼く。必死に腕を引かれて、どうにか屋根の上へ身を投げ出す。


 屋根伝いに駆ける。

 下では兵士たちが「屋根だ!」と叫び、ライトの光が追いかけてくる。

 銃弾が瓦を砕き、破片が飛び散る。真理子は悲鳴を堪え、ただ影の背中を必死に追った。



 やがて行き止まりの屋根に辿り着く。

 前方は十数メートルの空間を挟んで別の建物。

 背後からは兵士の部隊が迫る。

 真理子の足が止まり、絶望が胸を支配した。


 だが、ゴーストは一切迷わない。

 助走をつけ、闇に溶けるように飛んだ。

 黒い影が空を切り、向こうの屋根に音もなく着地する。


「——うそ……」

 真理子は足をすくませながらも、後ろの怒号に突き動かされ、全身の力で飛んだ。

 空気が身体を裂き、一瞬、落下の恐怖が喉を突く。

 だが強靭な腕が伸び、彼女を引き上げる。

 ゴーストは表情を変えぬまま、再び走り出した。



 追撃はなお続く。

 だが霧は深まり、兵士たちの動きは鈍っていく。

 ゴーストは瓦礫を崩して通路を塞ぎ、煙幕を投げ、音もなく兵士を一人ずつ無力化していった。

 その一挙手一投足に、真理子は「人間ではないのでは」と錯覚するほどの精密さを見た。


 追撃は続く。

 だが霧が濃くなるほどに、兵士たちは次々と姿を消していく。

 瓦礫が崩れ、煙幕が広がり、いつの間にか叫び声はひとつずつ途切れていった。

 振り返った真理子の目に映ったのは、人間を越えた精密さで獲物を刈り取る黒い影。

 その姿は守護者ではなく、死神の方がふさわしかった。


 やがて街は静寂に包まれる。

 追撃は途絶えた。

 しかしゴーストもまた、濃霧に輪郭を溶かして消えていた。

 足音も、気配も、なにも残さず。


「ま……待って……!」

 声は霧に呑まれ、返答はない。

 ただ淡い揺らぎの中に、黒い影の幻だけが漂っていた。


 真理子は膝に手をつき、震える息を吐いた。

「……生き延びた……でも……」


 そのとき初めて悟った。

 自分は生き残ったのではなく、ただ「死神の狩り場から逃げ延びさせられた」にすぎないのだと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る