第8話 裏切りの声
倉庫での生活は、わずか数日しか続かなかった。
物音に敏感になり、誰もが互いの視線を避け、囁き声さえも疑いに満ちていた。
外に出るのは交代制。食料や水を調達するにも、戻れる保証はどこにもない。
ある夜、一人の青年が帰ってこなかった。
翌朝、市内放送が「反社会的分子の検挙」を高らかに伝えた。スクリーンに映し出されたのは、その青年の顔だった。
倉庫の空気が一瞬で凍りつく。
「もう間違いない。ここにも裏切り者がいる」
リーダー格の男が、低い声で言い放った。
「昨日の集合場所を知っていたのは、俺たちだけだ」
沈黙が場を支配する。誰もが互いを見て、そして目を逸らし、疑心暗鬼に沈んでいく。
やがて一人の中年女性が声を上げた。
「……あの若い男よ。最初から挙動がおかしかったじゃない!」
すぐさま別の者が反論する。
「いや、あんたこそ怪しい! 外に出てたのは誰だ? 俺たちを売ったのは——」
言い争いは瞬く間に罵声へと変わり、倉庫の狭い空間は敵意で満たされていった。
それでもリーダー格の男は、なぜか止めようとはしなかった。
真理子は壁際で震えるように立ち尽くしていた。目の前の光景は、政府の弾圧ではなく、自分たち自身が崩壊していく姿そのものだった。
「やめて!」
由紀が叫んだ。
「今、互いに争ってどうするの? そんなことをしていたら、向こうの思う壺よ!」
誰もが冷静さを失い、裏切り者を見つけ出すことに必死で、次のアジトに移る判断さえ見失っていた。
由紀の言葉に一瞬、場が静まる。
だが、すぐに誰かが低く呟いた。
「そうやって必死に止めるのは……自分が疑われたくないからじゃないのか?」
全員の視線が由紀に集まった。
真理子の心臓が跳ね上がる。
由紀の顔は蒼白に染まり、唇が震えていた。
「ち、違う……私は——」
その声は掻き消された。外でサイレンの音が近づいていたのだ。
誰かが息を呑む。
全員が凍りつき、次の瞬間、倉庫の扉に強烈な光が差し込んだ。
「治安維持部隊だ! 全員動くな!」
怒号とともに黒い影が雪崩れ込んでくる。
混乱の中、真理子は由紀の手を掴もうとした。だが由紀は一歩引き、真理子の視線をまっすぐに受け止めた。
その瞳に宿るものは——恐怖か、後悔か、それとも……裏切りの確信か。
銃口が一斉に光を反射する中で、真理子は息を呑んだ。
——この中に、本当の裏切り者がいる。
そして、もしかするとそれは——。
閃光弾が倉庫を白く染めた。
耳をつんざく破裂音とともに床が震え、窓ガラスが粉々に砕け散る。
真理子は目を覆いながら身を伏せた。耳鳴りの中で、仲間の叫び声と銃の金属音が交じり合う。
視界が揺れる中、誰かが倒れ込み、別の誰かが引きずられていく。
兵士たちの動きは無駄がなく、すでに勝敗は決していた。
「真理子!」
背後から由紀が叫び、彼女の手を強く引いた。
「こっち!」
倉庫の奥に隠された細い通路。古い資材置き場へとつながる抜け道を、二人は必死に駆け抜けた。
背後では断末魔の声が遠ざかっていく。
外に出ると、冷たい夜風が頬を打った。だが安堵する間もなく、サイレンが再び近づいてくる。
「どうして……どうして奴らは、私たちの隠れ家を……」
息を切らしながら真理子が問いかけた。
由紀は答えなかった。ただ走りながら唇を噛みしめている。
その沈黙が、真理子の胸をさらに締めつけた。
「まさか……由紀、あなたが……」
思わず言葉が漏れた瞬間、由紀の足が止まった。
振り返った瞳は揺らぎながらも、鋭く真理子を突き刺す。
「……私を疑ってるの?」
低い声。
「裏切ったなら、どうしてあなたを逃がすの? 捕まえれば、私だって安全なのに」
真理子は言葉を失った。確かにそうだ。けれど——。
彼女の頭の中では、捕らえられた仲間たちの顔が次々と蘇る。
裏切り者の存在は確かにいる。それが由紀でない保証は、どこにもない。
「……信じたい。でも、どうして毎回、あなたは“抜け道”を知っているの?」
真理子の声は震えていた。
由紀は一瞬目を伏せた。
そして、吐き出すように言った。
「——政府に、親が人質に取られてるのよ。私が情報を流さなければ、あの人たちは生きていけない。だから……私は」
その言葉に、真理子の胸は凍りついた。
由紀は裏切り者であり、同時に犠牲者でもあったのだ。
「でも信じて。あなたを売ったことは一度もない」
由紀の目に涙が光った。
「本当に……あなたまで失いたくないの」
遠くで照明弾が夜空を照らし、再び追手の足音が響き始める。
二人の間に横たわるのは、裂けた信頼と、なおも捨てられない絆だった。
真理子は唇を強く噛み、由紀の手を掴み直した。
「……今は生き延びる。それだけ考えるの」
二人は闇の中へ再び駆け出した。
だがその背中には、互いを疑う影が深く絡みついていた。
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