第2話

夜。


収容舎の灯りが落ち、狭い室内は墨を流し込んだような暗闇に沈んでいた。

囚人たちは藁とも呼べぬ痩せた寝床に体を投げ出し、疲労に支配された肉体は崩れ落ちるように眠りへ沈んでいく。

だが――俺だけは違った。


背に刻まれた鞭痕が焼けるように疼き、床板に触れるたびに熱が這い上がってくる。

眠ろうとしても、痛みが鋭い刃となって意識を切り裂く。

闇の中、浅い呼吸を繰り返していたその時――


コツ、コツ、と。


かすかな足音が収容舎を踏みしめた。

規則正しい見回りのものではない。

囚人の眠りを妨げるものでもない。

冷たい直感が、背筋をぞくりと撫でた。


「……一二三号」


闇を割って低い声が落ちる。

瞼を開けると、そこに立っていたのは一人の監視兵。

重たい装甲服に身を包み、ヘルメットの下の双眸が冷たい光を放っていた。


「余計な真似をしたな」


ただの短い言葉。

だが、その響きは鞭の痛みより鋭く、重く、魂を抉るようだった。


兵はゆっくりと腰をかがめ、耳元へ顔を近づける。

煙草と鉄の匂いが混じる吐息が、皮膚を這った。


「囚人同士を庇う? 笑わせるな」

低く嗤う声。だがそこに漂うのは愉快ではなく、獲物をいたぶる捕食者の冷笑だった。

「ここで価値があるのはクリムゾンだけだ。……人間の命は、余白にすらならん」


言葉の端に、殺意が潜むのが分かった。

それは仕事の一環ではなく、個として俺を“消す”ことに愉悦を覚えている者の声だ。


「だが……お前は違う」

兵の双眸が俺を射抜く。

「番号のくせに、数字以上の目をしていた。……反抗の芽は、早めに摘む」


次の瞬間、膝に重い衝撃が走った。

兵士の靴が膝を蹴り砕かんばかりに打ちつける。

鈍痛が体を駆け抜けるが、声は漏らさなかった。

沈黙を守る俺を見て、兵は満足げに吐き捨てた。


「夢を見るな。外を望むな。お前は番号のまま、クリムゾンのために死ぬんだ」


髪を乱暴に掴まれ、壁へと叩きつけられる。

鉄と血の臭いが鼻を満たし、意識が一瞬遠のいた。


兵はそこで一拍置き、耳元で告げる。

「明日、赫喰の死骸がここに運ばれる。……お前に一人で処理させてやるよ」


赫喰――赫獣の中でも巨体を誇る捕食種。

それを一人で解体するなど不可能だ。

つまりこれは「罰」ではなく、「処刑」の延長にすぎない。


兵は最後に短く笑い、重いブーツを響かせながら扉の向こうへ消えていった。

鍵がかけられ、遠ざかる足音だけが夜に残る。


闇は再び収容舎を支配した。

周囲の囚人たちは浅い眠りに沈み、誰も今のやり取りを夢にすら見ない。


――だが俺だけは違う。


壁に背を預け、荒い呼吸を押し殺しながら小さく息を吐く。

背の痛みと血の匂いの中、胸の奥でひとつの囁きが燻った。


――夢は、奪わせない。


それはかすれた祈りではなく、夜に刻んだ誓いだった。


―――――――――――――――――――


翌朝――まだ鐘の音すら鳴らない、深い闇の時刻。

浅い眠りの底でざわめきに叩き起こされ、俺は目を開けた。


収容舎の空気が、いつもと違う。

囚人たちは寝床から半身を起こし、互いに目を見合わせ、怯えた囁きを交わしていた。

普段なら諦めきった静寂しかないこの場所が、波紋のような不安で満ちていた。


「……なんだ?」

俺は背の痛みに顔を歪めながら身を起こし、耳を澄ませる。


――ズルリ、ズルリ。


規則正しい監視兵の靴音ではない。

重く、乱れ、湿り気を帯びた何かを引きずる音。

血の染み込んだ肉塊を無理やり運ぶような、生理的嫌悪を誘う音だった。


「外で……何かが……」

隣の囚人が震え声を漏らした瞬間、背筋に冷たいものが走る。


鉄扉の隙間から、不気味な赤い光が差し込んでいた。

夜明けにはまだ早すぎる。これは陽ではない――赫陽の残滓。

災厄を呼ぶ、忌まわしい赤だ。


その光の正体を、俺は知っていた。

あの日、街ごと家族を奪った災厄と同じ色――。


轟音。

鉄扉の向こうから、怒号が炸裂する。


「撃て! 撃ち殺せ――ぐあああッ!」


だが次に響いたのは銃声ではなく――


肉が裂ける音。骨が噛み砕かれる生々しい音。そして絶叫。

監視兵の声が、悲鳴に変わり、次々と途切れていった。


収容舎の空気が一瞬で凍りつく。

誰もが悟った。


「……ま、まさか……赫喰が……!」


囚人のひとりが震え声で名を告げた瞬間、鉄扉が外から叩き破られた。


血飛沫を浴びた監視兵が床へ転がり込む。

その胸に食らいついた赫喰の顎が、肉と骨を粉砕する。

赤黒い閃光が舎内を照らし、鉄臭い霧が一気に広がった。


「ひ、ひいいいッ!」

絶叫が連鎖する。囚人たちは壁際へと這い寄り、鉄格子に爪を立てて逃げ場を探す。

だが赫喰は止まらない。

赤黒い霧を撒き散らし、鉄格子を歪ませ、監視兵を次々に引き裂いて喰い荒らしていく。


「やめろッ! やめろォォッ!」

兵の一人が銃を乱射するが、霧に阻まれた弾丸は赫喰の巨体をかすめることすらできない。

次の瞬間、その叫びは血と共に噛み千切られた。

宙を舞った腕がべしゃりと音を立て、俺の足元に転がる。


鉄と肉の匂い。温かい血が床を這い、裸足を染めていく。

吐き気と共に、心臓が胸を突き破りそうなほどに打ち鳴らされた。


――ガラン。


その時だった。

赫喰に喰われた監視兵の腰から外れた「収容舎の鍵」が、床を転がって俺の足元で止まったのだ。


血に濡れた鉄が赤光を反射し、まるで獣の眼のようにこちらを睨んでいる。


視線が吸い寄せられ、呼吸が荒くなる。

赫喰の咆哮、監視兵の断末魔、囚人たちの絶叫――全てが遠ざかり、耳に残るのは心臓の鼓動だけだった。


――生き延びるなら、今しかない。


その瞬間、俺の指は震えもせず、血まみれの鍵へと伸びていた。



―――――――――――――――


震える指先で、俺は床に転がった鍵を掴み取った。

血で濡れた鉄はぬめりを帯び、まるで生き物のように脈動している。

掌に食い込む冷たさが、否応なく現実を突きつけてきた。


赫喰の咆哮が舎内を震わせ、鉄格子が共鳴する。

胸の鼓動は耳奥を打ち破るほど高鳴り、時間は確実に削り取られていた。


――立ち止まれば喰われる。


俺は歯を食いしばり、鍵を鉄格子へと差し込む。

軋む音とともに錠前が外れ、重い格子がわずかに開いた。

鉄と血の匂いの向こうに、細いが確かに「外」へ繋がる道が口を開けた。


「立て! 走れ! 今なら逃げられる!」


叫びながら隣の牢へ駆け寄り、次々と鍵を差し込む。

錠が外れるたびに格子を押し開き、道を拓いた。

だが――誰も立ち上がらない。


囚人たちは壁にしがみつき、影のように震えていた。

その眼は赫喰を見るのではなく、未来そのものを拒絶していた。


「ムリだ……外に出ても撃ち殺される……」

「どうせ番号だ……俺たちに名前なんて必要ねぇ……」


掠れた声が、諦めの重みとともに空気を染めた。

彼らにとって自由は、赫喰よりも恐ろしい幻影に過ぎない。


「ふざけるなッ!」

俺の声が鉄壁に反響する。

「お前ら、それで満足なのか!? 番号のまま喰われて、名前すら残せずに終わって――それが生きるってことかよッ!」


嗚咽と悲鳴に紛れ、俺の叫びはかき消される。

だが誰ひとり、視線をこちらに向けようとしなかった。

目を逸らし、背を縮め、死を待つだけの囚人たち。


その沈黙こそが答えだった。


赫喰が鉄格子を押し広げ、赤黒い霧を撒き散らしながら迫ってくる。

骨が砕ける音と血の飛沫が、もはや背後に張り付いていた。


――なら、俺だけでも行く。


孤独でも構わない。

この炎を消さぬために、俺は俺の足で走る。


振り返らず、開かれた格子の隙間を突き抜けた。

血霧が頬を切り裂き、囚人たちの絶叫が耳を突き破る。


だが俺は止まらない。

ただひとつ――外の光を掴むために。


――――――――――――――――――――


甲高いサイレンが突如、残骸処理場を震わせた。

耳をつんざくような警告音が、錆びた鉄壁に反響し、空気そのものを軋ませる。

赤い警告灯が断続的に点滅し、赫喰の吐き散らす赤黒い霧と混じり合い、視界は血の膜に覆われたように真紅に染まった。


「――緊急事態発生。収容区画にて赫喰の活動を確認」


頭上のスピーカーから無機質な女の声が流れる。

救いの鐘ではなく、死の宣告。

冷ややかで、感情のかけらもない声が、鼓膜に冷たく突き刺さる。


「繰り返す。収容区画に赫喰を確認。鎮圧部隊が到着するまで、全囚人はその場にて待機せよ」


待機――?

この血の渦の中で?

嘲笑のような言葉に、吐き気が込み上げた。


「これより、企業直属の赫獣討伐部隊を派遣。現場は完全封鎖される。なお、生存囚人は処理対象に含まれる可能性がある」


処理対象――その響きは、銃声よりも冷たく心臓を射抜いた。

助けるためではない。赫喰と共に、この場にいる全ての囚人を“痕跡ごと”処分する。

俺たちは救われるどころか、証拠隠滅のために撃ち殺されるのだ。


「……クソが」

奥歯を噛み砕くように食いしばった。


サイレンの唸り、無機質な放送、赫喰の咆哮、囚人たちの悲鳴。

すべてが交錯し、耳を裂く。

地獄の交響曲のただ中で、ただひとつだけ確かなものがあった。


――生き延びるなら、走るしかない。


俺は瓦礫を蹴り、赤い光の渦を切り裂いて駆け出した。


その瞬間、赫喰が鉄壁へと突進した。

「グオオオオオ――ッ!」

巨腕が振り下ろされ、分厚い外壁が亀裂を走らせる。

鉄骨が軋み、石壁が悲鳴を上げ、爆ぜるように崩れ落ちた。

巻き込まれた鉄条網はねじ切れ、冷たい夜風が血の霧を吹き飛ばしながら流れ込んでくる。


――出口だ。


心臓が喉を突き破るほど跳ね上がった。

鉄格子越しに夢見ていた「外の空気」が、今そこにある。


「……行くしかねぇ!」


瓦礫を踏み越え、破れた鉄条網を掻い潜る。

衣服は裂け、肌が切り裂かれて血が滲む。

だが痛みを感じる暇はない。


その瞬間、背後から怒号が響いた。

「待て、囚人番号一二三号ッ!」


振り返れば、監視兵が銃を構えてこちらを指差していた。

逃走の瞬間を、確かに見られた。


「逃がすな! 撃ち殺せ!」


乾いた引き金の音。

銃声が轟き、瓦礫が弾け飛び、破片が頬をかすめた。

熱い血が一筋、頬を伝い落ちる。


赫喰の咆哮、銃撃の轟き、サイレンの唸り、囚人の断末魔――。

その全てを背に、俺は前だけを見据えて走った。


――逃げろ。生きろ。

たとえこの先が新たな地獄であろうとも、今よりはきっとましだ。


瓦礫を踏み砕き、裂けた壁の隙間を抜ける。

その瞬間、鉄の檻を越えた。


冷たい夜風が、初めて「外」を告げて頬を打った。


――――――――――――――――――――――


何も考えずに――ただ走った。

思考よりも先に、足が勝手に前へと動いていた。


外の空気は、思った以上に冷たかった。

血と鉄の臭いで満たされた坑道から飛び出した俺の肺に、森の湿り気を帯びた風が一気に流れ込み、喉の奥を焼くように痛めつける。

だが、それすら心地よい。生きていると証明してくれる痛みだった。


足元は瓦礫ではなく草。

ざらついた鉄くずの感触の代わりに、柔らかな土が靴裏を受け止める。

まだ朝日は昇りきらず、薄闇に沈む森は、枝葉が揺れる音をかすかに響かせていた。

ここが同じ世界だとは、とても信じられなかった。


俺は無我夢中で見えてきた丘を駆け上がり、振り返った。

背後に広がっていたのは――未だ地獄。


煙と赤黒い霧に包まれた残骸処理場。

崩れ落ちた外壁、逃げ惑う囚人、喰らい暴れる赫喰、銃火を浴びせる監視兵たち。

その光景は、終わりのない惨劇の坩堝だった。


そして、視線を前へと向けた瞬間――息が止まった。


森の先、地平線に。

赫京。


夜明け前の闇を押し退けるように、巨大な都市が姿を現していた。

摩天楼が林立し、広告塔が虚空に鮮やかな光を刻む。

ビル群を縫うように走る光の帯は脈動する血管のようで、その根元には闇と煙が渦を巻いていた。


赤い霧の残滓が都市全体を包み込み、街をまるで生き物のように見せる。

赤と紫のネオンが呼吸し、赫晶の鼓動そのものが都市の鼓動と重なっているようだった。


美しい。

だが同時に、恐ろしい。

底知れぬ欲望と血の匂いを孕んだ怪物の姿だった。


丘の上で立ち尽くし、胸を抉られるような感覚に息を呑む。

自由を求めて飛び出した先に広がっていたのは、救いではなく――また別の地獄。


けれど、それでも。


「……ここからだ」


掠れた声が、無意識に零れた。

その瞬間――。


背後で、乾いた引き金の音が響いた。


――パンッ。


衝撃。

胸の奥に鋭い杭を突き立てられたような痛みが走り、熱が全身を突き破る。

背中を撃ち抜いた銃弾が肺を奪い、呼吸が途切れた。

空気を吸うたび、血が逆流し、喉が焼ける。


「っ……は、ぁ……」


足元の力が抜け、崩れ落ちるように後退する。

振り返った視界の中、監視兵が銃を構えていた。

その顔に浮かぶのは怒りではない。

ただ“職務”を果たす者の、冷たい無表情。


「逃げられると思ったか、番号」


言葉は冷酷に、風に溶けて耳を突き刺した。


視界が揺れ、世界が傾ぐ。

丘の端で足を取られ、そのまま崖下へ。


空が反転し、赫京の光が逆さまに流れ落ちる。

胸から噴き出す血が宙に散り、夜空に赤い弧を描いた。


落下する間、最後に残ったのはただひとつ。


――自由は、この手に掴むまで。


願いを抱え、俺の身体は闇へと呑まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る