囚人番号一二三はゼロになる

Kai 星影

第1話 囚人番号一二三はゼロになる

「一二三号、起きろ!」


錆びついた鉄扉の向こうから、兵士の怒声が響く。

その響きは、目覚ましではなく死刑宣告のように胸を打った。


まぶたを押し上げると、冷気に染み込んだ闇が広がっている。

凍えた石床に貼り付いていた体を引き剥がすようにして立ち上がった。

足元から伝わるのは冷たさではなく、もはや“墓場”の感触。


囚人番号――それが、この都市での俺の唯一の名。

名前はとうに忘れた。

夢の中でさえ、数字が呼び声となって耳に絡みつく。

番号は足枷となり、眠りさえも檻に変える。


世界は変わった。俺自身の生き方も。


数十年前に始まった赫陽現象――

空を赤黒く染め、人類の都市を蹂躙した災厄。

それは地震や嵐のように説明のつかない“天災”として襲いかかり、

赫獣と呼ばれる赤い怪物が街を食い荒らした。


誰も抗えなかった。

国も、軍も、そして俺の家族も。


だが人類は生き延びた。

赫獣の死骸から得られる赤黒い結晶――《クリムゾン》。

それは武器に、薬に、そして通貨に変わった。

災厄はやがて、欲望の象徴となり、

赫京の街を血と光で満たす資源へと姿を変えた。


その結果――俺のような名もなき囚人が生まれる。


今日も俺は、企業の名すら知らされぬまま働かされている。

労働場は残骸処理施設。

赫獣の死骸の山に放り込まれ、

肉を裂き、臓腑を掻き出し、奥に眠るクリムゾンを掘り出す。


鉄錆と腐敗の臭気が混じり合い、吐き気を伴って肺を焼いた。

空気は血と湿気で重く、吸うたび喉に鉄の味がこびりつく。

囚人たちは誰も声を出さない。

無言でナイフを振るい、赤黒い肉から光る結晶を引きずり出す。

誰かが言っていた。――俺たちは歩く屍だ、と。

確かにそうだ。

ここにいる者は皆、名前を奪われ、忘れ去られ、死んでも誰にも惜しまれない。


「一二三号、手を止めるな!」


鞭が唸り、背中に焼け付く痛みが走る。

皮膚が裂け、熱い血が流れる。

だが誰も振り向かない。

ここでは悲鳴すら“労働の雑音”でしかなかった。


足元には、昨日捕らえられた赫獣赫鬼の死骸が転がっていた。

皮膚の下で赤黒い結晶がまだ脈打ち、血管のように浮き上がっている。

気味の悪いことに、こいつは元は人間だったと噂されていた。

クリムゾンを過剰に浴び、力を欲した者の末路――赫獣化。


切り裂けば、臓腑の奥から脈打つ結晶片が顔を覗かせる。

それを取り出すことが、俺の仕事だった。


――赫獣。


そう呼ばれる怪物には、いくつもの種類があるらしい。

俺たち囚人にとってはどうでもいい区別だが、兵や研究者は得意げに語る。


人間の成れの果てとされる《赫鬼》。

因子の塊が獣の形をとった《赫喰》。

骨と鉄片に結晶が突き刺さり、軋みをあげる《赫骸》。

そして都市ひとつを血で沈めるという伝説級の《赫竜》。


聞いた話では他にも細かい分類があり、危険度や特徴で呼び分けられているという。

だが俺たちにとってはただの“死骸”だ。

切り裂き、掘り出し、企業に納める。

どれだけの怪物であろうと、俺たちの目に映るのは肉と血とクリムゾンだけ。


湿った音を立てて赫鬼の腹を裂く。

鉄錆と腐臭に満ちた空気の中で、俺の指先にまた一片の結晶がぬめりと貼りついた。


―――――――――――――――――――


腐臭にまみれた赫鬼の腹を裂くたび、胸の奥に嫌でも蘇る光景がある。

血と臓腑の感触、その奥から脈動するクリムゾンを掴み出すたび、脳裏に焼きついた“あの夜”が甦る。


――俺は、すべてを失った。


赤い陽が昇り、空が血に溺れるように染まった夜。

赫陽現象。

人類が最も恐れ、そして最も憎んだ災厄が街を覆った瞬間だった。


赤黒い霧が路地を呑み込み、吐き出された赫獣が石畳を蹴って押し寄せる。

家々の扉を食い破り、肉を喰らい、骨を砕き、街全体を断末魔の合唱で満たしていった。

血が川のように流れ、悲鳴と咀嚼音が重なり、地獄そのものが現実の形を取った。


母の叫びも、父の腕も、兄弟の声も――すべて赫獣の顎に喰われ、血の奔流に呑まれて消えた。

その時の匂い、焼けた鉄と臓腑の腐臭は、今も鼻腔にこびりついて離れない。


生き残った俺は、“保護”を名目に施設へ連れられた。

だが保護など幻だった。

あれは労働力を狩るための網にすぎない。

与えられたのは名前ではなく、番号。

人ではなく“掘る道具”として数えられる日々の始まりだった。


……皮肉なものだ。


あれほど人類を蹂躙し尽くした赫陽現象は、今では都市を動かす資源へと変貌した。

赫獣を殺し、その死骸から掘り出したクリムゾンは兵器に、薬に、通貨に姿を変える。

血と死を撒き散らした災厄は、欲望を肥やすための“祝福”にすり替えられた。


俺の家族の死も、数えきれない命の犠牲も――すべてはクリムゾンに換算され、数字として消費されていく。

血の惨劇が金の礎となり、涙は利益の裏書きへと変わった。


だからこそ、俺は夢を見る。


この鎖を断ち切り、鉄格子の外を歩く夢を。

奪われた名を取り戻し、俺の命を俺の意志で燃やす未来を。


―――――――――――――――――


ふと、労働の終わりを告げる鐘が、鉛を溶かしたような鈍い響きをもって坑道全体に広がった。

鉄扉が重々しく閉ざされる音が続き、その瞬間、残骸処理場を満たしていた喧噪はぷつりと途切れた。

残されたのは、血と汗と腐臭が入り混じった、息苦しいほどの臭気だけだった。


囚人たちは一斉に手を止め、糸の切れた人形のように床へと崩れ落ちていく。

壁に背を預け、肩で荒い息をつきながら、誰一人として言葉を発さない。

目には光がなく、ただ「今日が終わった」という事実だけに縋るような表情。


その沈黙を破ったのは、一人の若い囚人だった。

汗と血にまみれ、痩せこけた頬を震わせながら、掠れた声で呟く。


「……今日も生き延びた。それで……十分だろ」


それは自分を納得させるための言葉にも聞こえたし、隣人たちへの言い訳のようでもあった。


すると、隣に座っていた年老いた囚人が、乾いた咳をひとつ零し、唇を歪める。

その顔には諦めというより、むしろ憎しみすら削ぎ落とされた虚無があった。


「外に出られると思うな。俺たちは企業の燃料だ。死ぬまでここでクリムゾンを掘り続ける――それが“決まった運命”ってやつさ」


その言葉に、周囲の囚人たちは誰も反論せず、ただ小さく頷いた。

抗う意思も、未来を夢見る力も、とうの昔に擦り切れて失われている。

彼らにとって「生」とは、ただ呼吸を続けることだった。

明日も番号で呼ばれ、鞭で打たれ、死ぬまで掘り続ける。

それがすべてで、それ以外は望むべくもない。


だが――俺は違う。


俺は同じように壁に背を預けながらも、胸の奥では小さな炎を握りしめていた。

諦めを口にすれば、きっと楽になるだろう。

だが、それを吐いた瞬間、俺は本当に「番号」になってしまう。


俺だけは――まだ人間だ。

俺だけは――まだ夢を見ている。


――――――――――――――――――


労働の終わりを告げる鈍い鐘が響いた。

その音は解放ではなく、ただ「別の檻」への移動を意味していた。


鉄扉が開き、監視兵たちの無機質な声が響く。

「列を作れ。宿舎へ戻す」


俺たち囚人は疲弊した体を引きずりながら列に並び、無言で歩かされる。

剥き出しの鉄柵と錆びた通路を抜けた先にあるのは、労働場と同じくらい血と鉄の匂いが染みついた宿舎――いや、牢屋だった。


外見は粗末な部屋でありながら、中は鉄格子で区切られ、ベッドと呼ぶのもおこがましい硬い板が並んでいる。

窓はなく、壁の隙間から吹き込む風さえ腐臭を運んでくる。

人を休ませるためではない。次の労働まで「生かす」ための場所。


「入れ」

無機質な声とともに背を押され、俺たちは押し込まれる。

重い鉄扉が閉まった瞬間、空気はさらに淀み、囚人たちの呼吸音だけが牢内に充満する。


皆、壁に背を預けて糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

息は荒く、肩は上下するが――誰一人、声を出さない。


その沈黙を破るように、再び鉄扉が開いた。

現れたのは、無機質な装甲を纏った監視兵たち。

彼らは俺たちを「人」とは見ていない。


一人が木箱を抱え、もう一人がそれを傾けた。

中身は容赦なく床へぶちまけられる。


ガラン、と鉄器の音。

灰色の粥が器にぶよぶよと広がり、無臭の泥のように波打つ。


「食え。明日も掘れるようにな」

兵は吐き捨てるように言い、残った器を足で蹴り転がした。

その仕草は――犬に餌をやるのと何一つ変わらなかった。


囚人たちは反射的に器へと手を伸ばす。

誰も文句を言わない。いや、言えないのだ。

声を上げたところで、返ってくるのは鞭か銃弾だけだから。


俺も器を拾い上げ、口に流し込む。

冷え切った粥は舌の上で砂のように広がり、喉に貼りついていく。

だがもう、吐き気すら湧かない。慣れすぎてしまったのだ。


「……餌をもらえるだけマシだろ」

誰かがぼそりと呟いた。

声には生きる執着も誇りもなく、ただ「受け入れる諦め」だけが滲んでいた。


俺は答えなかった。

ただ泥を嚙み砕き、喉へ押し込む。


――いつか、俺は自分の意思で食事を選ぶ。

投げ与えられる餌ではなく、自分の手で選んだ食事を。


器を持つ手に力を込めながら、俺は心の奥で密かに誓った。


――――――――――――――――――


翌日もまた、怒号が耳を裂いた。


「起きろ、一二三号!」


錆びついた鉄扉が軋みを上げて開く。

番号を呼ばれた囚人たちは、疲れ切った体を無理やり起こされ、列を組んで採掘場へと連れ出されていった。

空気は鉛のように重く、誰もが限界に達していた。

だが反抗などありえない。ここで逆らうということは、すなわち死の宣告を受け入れることと同義だからだ。


いつも通りの作業が始まり、腐臭と鉄の味に満ちた残骸処理場に湿った音が響き続ける。

だがその単調な地獄を破るように――


ガラン、と乾いた金属音が鳴り響いた。


囚人のひとりが、掘り出したクリムゾンを取り落としたのだ。

結晶は床を転がり、石壁にぶつかって粉々に砕け散る。

赤黒い光は儚く宙を舞い、やがて石の隙間に吸い込まれるように消えた。


その瞬間、場の空気が凍りついた。


クリムゾンは命より重い。

ひとかけらあれば、街の貧民が数日間生き延びられるほどの価値がある。

それを失ったとなれば、償いは決まっていた――命で払うしかない。


「……やりやがったな」


監視兵の低い声が響いた。

重い足音が石床を叩くたびに、囚人たちは息を詰め、体を縮める。

銃床を握るその手は、処刑の刃と何ひとつ変わらなかった。


怯えた囚人は膝をつき、震える唇から声にならない呻きが漏れる。

次の瞬間、その頭蓋が砕かれる――はずだった。


「――待て!」


自分でも気づかぬうちに、俺の身体はその間に割り込んでいた。

汗と血で滑る床に立ち、背をさらす。


「……やったのは、俺だ」


口をついた声は、驚くほど低く、静かで、揺るぎがなかった。


監視兵の眼が俺に突き刺さる。

そこに映るのは人間ではない。

ただ“処分すべき物”を確認しているだけの、冷徹な目だった。


「ほう……一二三号、か」

兵の口元が歪む。


次の瞬間、鞭が閃き、背中に焼けつく痛みが走った。

皮膚が裂け、血がにじむ。だが、声は上げなかった。

声を出せば――その瞬間に俺は本当に「物」に堕ちる気がしたからだ。


「くだらん真似を……クリムゾンの代わりに、お前の背で払わせてやる」


鞭は何度も振り下ろされた。

そのたびに肉が裂け、熱が走り、血が背を伝う。

だが俺は歯を食いしばり、ただ前を見据えた。


やがて兵は興を失ったのか、鞭を収めた。

砕け散った結晶を冷ややかに一瞥し、吐き捨てる。


「忘れるな。お前たちの命の値は、クリムゾンより軽い」


重い足音とともに監視兵が去り、鉄扉が閉じられる。

その途端、張り詰めていた囚人たちの呼吸が一斉に解き放たれた。


怯えていた囚人が、恐る恐る俺を見た。

「……どうして、助けた」


俺は答えなかった。

ここで庇ったところで、意味などない。

命は数字で量られ、クリムゾンで換算されるだけだから。


それでも――俺はまだ、人でありたかった。

番号ではなく、“名前を持つ誰か”として。

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