第4話 まだ動かない心を、君が撫でる

 病院の予約を終えたとたん、胸の奥にあった重たい石が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


「えらいね、慧くん。よく頑張ったね」


 まどかがそう言って、そっと俺の髪を撫でる。

その手つきがあまりにやさしくて、全身がじんわりと溶けていく。


「……なんか、急に暇になったな」


「うん。じゃあね、少し歩こうか」


「……散歩?」


「陽の光、ちょっとだけ浴びよ? 気持ちも体も、ほぐれるから」


 まどかに背中を押され、久しぶりに外に出た。

 夕暮れの風が、頬をかすめる。


 ほんの少し涼しさを帯びてはいるが、空気の底にはまだ夏の熱気が残っていて、じっとりと肌にまとわりつく。

 街路樹の葉がひらひら揺れ、遠くで子どもの笑い声が響いた。

 通りすがりの親子連れが、まどかをちらりと見て、小声で何か囁く。


「ねえ、あの人、すごく素敵な彼女さんだね」


 その言葉が聞こえて、胸の奥がかすかに熱くなる。


 まどかは特に気づいていないようで、ひらひらと風に揺れるスカートを押さえながら、足取り軽く先を歩いていた。

 ふと、その横顔を見つめてしまう。──本当に、ここにいるんだな、と思った。


 なのに、胸の奥には、重たい靄みたいなものがまだ残っている。

 世界はこんなに明るいのに、自分の中だけずっと曇っているようで。 笑う声も風の匂いも、どこか現実感が薄い。


 視線を逸らすように、わざと話題を変える。


「……あの親子、たぶんお母さんスマホ見すぎだな」

「ふふ、慧くん、そういうのすぐ気づくよね」

「え?」

「営業のときもそうだったでしょ? 相手の“本音”を読むの、得意だったもん」

「……まぁ、癖みたいなもんだな」


***


 家に戻ると、まどかが湯気の立つお茶を差し出してきた。

 急須でていねいに入れたらしく、ほのかな香りが鼻先をくすぐる。


 ──けれど、味はどこか遠い。舌に触れても、甘みも渋みもぼやけていて、心まで届かない。

 ただ、不思議と温度だけは残る。両手に伝わるぬくもりが、ひどく疲れた身体をじんわりほどいていく。


「ねぇ、慧くん。日記、書いてみない?」

「日記?」

「うん。営業のときみたいに、人の気持ちを察する慧くんなら、きっといい文章が書けると思うの」


 ――ああ、そういえば俺、昔は文章を書くのが好きだった。高校の頃は文芸部にも入っていて、放課後に仲間と原稿を見せ合ったりしてたんだ。

 でも、受験をきっかけにやめてしまって……そのまま大学に進んで、本も読まないし、文章も書かなくなった。


 気づけば、書くことからずっと遠ざかっていたんだ。


 まどかの言葉が、なぜだか胸に響いた。

 気づけば、机に向かってノートを開いていた。


 最初はペンを握る手が震えて、何も書けなかった。


「どうせ続かない」「意味ない」そんな声が頭の奥でささやく。


 でも、ひと文字だけ書いてみたら、次の言葉が自然と浮かんできた。


 気づけば、まどかのことばかり書いていた。今日の空の色も、まどかの声の温度も、外の風の匂いでさえ、全部まどかと一緒にいた記憶と結びついてしまう。

 ペンを走らせるたび、心の奥のモヤが一枚ずつ剥がれていくようで。


「……すごいね、慧くん」

 まどかが背後からそっと抱きつき、顎を肩に乗せてきた。

 柔らかな胸の感触が、背中にふわりと押し寄せる。


 ──心はまだ霞がかかったまま、幸せを味わいきれない。

 けれど、それでも確かに温度があって、自分が誰かに抱きしめられているのだとわかる。

 そのことだけが、静かに胸を満たしていった。


「こうしてるとね、慧くんの鼓動、すごくよく伝わってくる」


 頬が熱くなるのを感じながら、それでもペンを止めなかった。


「……俺、まだ書けるんだな」

「うん。慧くんの言葉は、ちゃんと生きてるよ」


 まどかの囁きが耳元で震えて、胸の奥にまで染み込んでいく。


 八月の終わり。まどかと歩いた川沿いの風。まどかが笑った横顔。まどかがいて、俺はここにいる。

幸せに感じるはずなのに、心はまだ動かない。

でも、動いたとき。


俺の心はきっと、まどかへ真っ逆さまに──恋に落ちる。


 その一文だけを残して、日記を閉じた。


***


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https://kakuyomu.jp/works/16818792439399456221

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