第36話 影は舞い、母に沈む
「舞うは影……。」
ニンニン、今の俺は忍者だった。
袴の裾を握り、踵を上げたつま先歩きで、早朝の薄暗い大阪城の廊下を、音も立てずに駆け抜ける。
今夜も茶々との密談がつい長引いてしまった。
昨日のうちに帰るつもりが、気づけば明け方になっていた。
「残すは屍……。」
一応、三成に頼まれて、昨夜遅くまで仕事をしていたことになっている。
いや、夕飯過ぎまで働いていたのは事実だ。
徳川家康に組した東日本を主とした大名たちの所領を軒並み没収したため、その後釜を決める作業である。
東日本は広大だ。
論功行賞である程度は埋めたが、まだ埋めなければならない空白は多く残っていた。
正直に言えば、今でも『どうして俺が、こんな面倒な仕事をしなくちゃいけないんだ?』と思っている。
だが、三成に『城に泊まる口実になりますよ?』と唆され、ついほいほいと乗ってしまった。
「我が一生は無患子の如し……。」
ところが、この作業は思った以上に大変だった。
なにしろ、現実はゲームのように数値化されていない。
ゲームなら『お前はそこ、お前はあっち』と簡単に済むことが、先の戦いの武功と照らし合わせ、あやふやな評判で決めなければならないのだ。
『いっそ、とりあえず送った代官のままでいいんじゃね?
その方が強い中央集権を作れるしさ。東日本はまるっと豊臣家の領地ってのは、どう?』
面倒臭くなった俺はそう進言したが、三成から白い目で見られた。
『とても面白い意見です……。
ですが、土地の者たちは、その土地の統治者に忠誠を捧げるものです』
『そして、統治者も土地に根付かねば、私服を肥やし、民を虐げがちです。
当然ですね。所詮は一時の腰掛けに過ぎませんから、任期のあとなど、どうでもいいのです』
『その傾向は、中央から遠く離れるほど強くなります。
いや、失礼……。聡明な秀秋様なら、すでにご承知のはずですよね?』
俺は押し黙り、書類とにらめっこを再開するしかなかった。
当然だが、戦国時代にはテレビもネットもない。
多数の監視や批判がない以上、不正はやり放題だと納得せざるを得なかった。
おかげで、年末まで大阪城に泊まり込みとなった。
年明けに合せて、各地の統治を認める豊臣家発行の朱印状を発行する。それが三成の腹積もりらしい。
「されど魂は万両の如し……。」
とにかく、俺は泊まり込んでいる来賓屋敷に早く戻らなければならない。
日替わりで朝食を届けに来る古満と雪が来る前に、布団に入っていなければならない。
最近の俺の日常はこうだ。
朝食を届けに来た古満か雪と一緒に風呂に入り、そのまま仲良くなる。
その後、昼前まで寝て、昼食は秀頼と茶々と共に食べる。
午後は三成たちと会議。夕飯すぎまで書類と格闘する。
夜、皆が寝静まるのを待ち、茶々の元へ忍び込み、そのまま仲良くなる。
今日こそはと思いつつも、結局は朝帰りし、布団の中で古満か雪を待つ。
実にハードなスケジュールだ。いつも眠く、いつも疲れている。
自分で自分を追い込んでいる気もするが、止められないのだから仕方がない。
「死して屍拾う者なし……。」
最後の関門であるこの屋敷裏の通用門を静かに開く。
半身がぎりぎり通れる隙間に体を滑り込ませ、屋敷から一歩踏み出した、その時だった。
「おや、秀秋? こんなところで、こんな早くに奇遇だね?」
朝靄が立ち込める早朝にもかかわらず、目の前には豊臣秀吉の正室『北政所』が笑顔で立っていた。
「ぐわーーっ!? ……し、死んだ! デ、デス!」
「なんだい、なんだい! 母の顔を見るなり、失礼な子だね!」
俺は目を大きく見開くと、思わず痛いくらいにドキリと高鳴った胸を押さえながら、その場に崩れ落ちた。
******
「さあ、たんとあがり」
「……いただきます」
針の筵に座るとは、まさにこのことだろう。
にこにこと笑う北政所と向かい合いながら、俺は配られた朝膳の箸を手に取った。
ここまで問答無用で連れてこられた。
この上は、さっさと食べて、さっさと立ち去るに限る。
北政所は、小早川秀秋が二歳から十二歳の間、母親として共に過ごした相手だ。
言い換えるなら、誰よりも小早川秀秋を知る人物である。
豊臣秀吉についても同じことだ。
北政所に『秀吉マジック』は通用しない。
しかも、法則『俺の顔見知りは脇役』に、俺の『母さん』が当てはまっていた。
あとから知ったが、俺の母さんの旧姓が『杉原』なら、北政所の旧姓も『杉原』らしい。
当然、そんなことは知らなかったから、初めて会ったときは心底驚いた。
どう考えても、二人きりでいたらボロが出る。
俺は大阪に来て以来、北政所と顔を合わせることをずっと避けていた。
たとえ必要があっても、必ず誰かを同席させ、絶対に二人きりにはならないようにしていた。
「むっ!?」
まずは大根の味噌漬けを口にした。かなり塩辛い。
慌てて味噌汁を飲むと、薄味で、俺は思わず眉をピクリと跳ねさせた。
これは、俺が食って育った『おふくろの味』だ。
俺の父さんは薄味好みで、うちの食卓の味は、世間に比べると薄かった。
だから母さんは、父さんが手をつけない漬物に、塩気を求めた。
手作りに凝り、大きな樽をいくつも並べて、漬物をやたらと塩辛く仕込んでいた。
それこそ、その味を知らない者が食べたら、思わず目をギュッとつむって、口をすぼめるほどだ。
「これ、これ! これだよ!」
ご飯に大根の味噌漬けを乗せて、その上から味噌汁をぶっかける。
行儀は悪いが、これが最高に美味い。
魂に刻まれた味に、箸が止まらない。気づけば、あっという間にかき込んでいた。
反らせていた首を戻し、椀を置こうとしたが、物足りなかった。
久々に口にする懐かしい味を、もう一杯、どうしても食べたい。
「ほれ、まだ食べるだろ?」
「あっ!?」
いつの間にか、隣にいた北政所に椀をかっさらわれた。
北政所はニコニコと笑いながら、お櫃からご飯を山盛りによそった。
味噌汁のお代わりはないので、食後のお茶が入った急須を差し出し、自分の分の大根の味噌漬けを俺の膳にそっと置いた。
俺は衝動に駆られ、勢いよくご飯に大根の味噌漬けを乗せた。
「あんた、秀秋と同じ好みなんだね?」
その瞬間、北政所が小さくボソリと呟いた。
「……えっ!?」
カラーンと音が鳴った。
俺は息が詰まり、思わず箸を落とした。
箸は膳にぶつかり、床へと転がっていった。
「お待ちを! 今すぐ、代わりの箸を持ちます!」
部屋の隅で控えていた侍女が、慌てて立ち上がり、部屋を出て行った。
俺は山盛りになったご飯から、顔を上げられなかった。
横目でチラリと見ると、ぎりぎり見えた北政所の口元が、にこにこと笑っていた。
「食べ方も一緒だけど……。
あの子が味噌汁をかけるのは、ご飯を半分食べてからさ」
「一度、味噌汁を溢れさせたことがあってね。
それを父ちゃんにきつく叱られて以来、そうしているんだ」
失敗した。大失敗だ。
北政所は、俺が小早川秀秋でないことをとっくに見抜いており、この食事で敢えて俺を試していたのだ。
恐らく、俺は塩加減の関門は突破した。
だが、所作の面で誤ってしまった。やはり、母親には勝てない。
「食べ終わったら、二人だけで話をしようか?」
「は、はい……。す、すべて話します」
急速に失われてゆく食欲。
俺はシュンと首を垂れ、肩まで力を抜いて膳にご飯茶碗を置いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます