幕 間 零れ落ちた大望
岡崎城の郊外。雑木林の奥にある廃寺。
戦乱の爪痕か、襖も障子も破れ放題。
金目の物はとうになく、御本尊すら首を落としている。
どこもかしこも長年のほこりをかぶり、割れた床板の隙間からは雑草が伸びていた。
「むぅ……。」
その本堂で、黒田長政は天井にぽっかりと空いた穴から覗く月と、流れゆく雲を眺めながら、深い溜息をついた。
大名でありながら、薄汚れた手ぬぐいをほっかむりし、ボロをまとった農民の姿で。
思惑の全てが狂いだしたのは、関ヶ原での戦いのときだった。
長政は、徳川家康率いる東軍の勝利を、戦いが始まるずっと前から疑わなかった。
これは、長政の父にして、豊臣秀吉が頼りにしつつも恐れた天才軍師『黒田孝高』も同じ見解だった。
そのため、豊臣秀吉の死後、長政はいずれ必ず起きる豊臣家と徳川家の決戦に備えてきた。
妻だった豊臣秀吉の養女との縁を切ると、今度は徳川家康の養女と結び、不満を抱える豊臣家の家中に内応工作を重ねてきた。
しかし、小早川秀秋が予想外にも徳川家本隊へ突撃したその瞬間。
長政の思い描いていた輝かしい未来に、陰りが差した。
『ついに酒が、頭に回ったか!』
この時、黒田長政にはまだ余裕があった。
所詮、ボンクラな小早川秀秋。
後先を考えず、目立とうとする、ただの匹夫の勇に過ぎぬ、と。
なにしろ、小早川秀秋の突撃は、突出しすぎていた。
その命を投げ出すに等しい行為を、長政は嘲笑い、すぐに食い止められると判断した。
馬鹿が一人、ただ命を散らすだけ。そう心中で冷静に評した。
『馬鹿な! ……なぜだ! なぜ、あのボンクラにそれができるっ!』
しかし、徳川家本隊は二つに割れた。
長政はすぐさま救援に向かいたかったが、最前線で石田三成の軍勢と交戦中だった。
それも、相手は石田三成が自らの俸禄を半分与えても手に入れたかった、『君臣禄を分かつ』の逸話で名高い島左近である。
開戦以来、一進一退。
この武勇、統率、知略の全てに長けた人物相手に、持ち場を離れることなどできるはずもなかった。
間もなくして、徳川家康が潰走した。
戦場に総撤退の法螺貝が轟き渡り、長政は目を見開き、愕然と立ち尽くした。
『信じられんっ! 本陣には本多殿が詰めていたはずだ!
まさか、あのっ……。あの本多殿が討ち取られたというのかっ!』
だが、現実は変わらなかった。
関ヶ原の戦場で、最も奥深い位置にいた黒田長政は、敵中孤立を防ぐため、即座に撤退を決意した。
その後、命からがらに伊勢まで逃れ、そこからは浜松城へ船で渡った。
関ヶ原で抱えていた3500の兵力は、わずか300までに減り、その他は散り散りになって行方知れずとなった。
それでも、西軍勝利の立役者である小早川秀秋の実力を、長政は尚も疑っていた。
『あのボンクラ、たまたま天運が恵まれて、さぞやいい気味だろうが……。
家康様が再起して、決戦を挑めば、すぐに化けの皮が剥がれる。
偶然は一回だ。奇跡は起こらん。……許さん。断じて許さんぞ。その時は、俺が首を落としてやる』
ところが、小早川秀秋は前線にいなかった。
東日本という巨大な戦場全体を見据え、岐阜城に入り、中山道に対する守りを固めるという、深い思慮を見せていた。
偶然、関ヶ原で立てた武勲に酔い、周囲の諫めにも耳を貸さず、嬉々として徳川家康を追撃する。
それが黒田長政の知る、小早川秀秋という男であった。有り得ないことだった。
そればかりか、頼みの綱である徳川家康は、すでに完全に戦意を失っていた。
長政をはじめとする多くの家臣が再決戦を進言しても、家康はのらりくらりとかわし、首を縦に振ろうとはしない。
その最中、義弟の『平岡頼勝』が黒田長政の前に姿を現した。
今、長政がそうしているように、平岡頼勝もまた農民に扮して。
『殿は……。秀秋様は今まで『うつけ』を演じられていました。
私や稲葉さえも欺き、徳川家康を打倒する大望を胸に秘めて……。
義兄上と義父上の企みをことごとく承知しておられます。ここで恭順しなければ、黒田家は潰えます!」
『……嘘だ。お前は嘘を言っているっ!』
長政は平岡頼勝の誘いを受けるしかなかった。
関ヶ原の戦いの前後、父である黒田孝高が決起する。
九州で恐るべきは、西国無双の誉れ高き『立花宗茂』と、島津家当主『島津義弘』の二名。
だが、その両雄は今回の騒動に西軍として加わっており、恐れるものはない。
小早川秀秋が治める筑前、筑後を攻め落としたのち、肥後へ進軍し、お家騒動に揺れる薩摩を制圧する。
残る九州の大名たちは、有象無象にすぎない。
黒田家は九州全土を支配下に置き、その存在感をもって、徳川政権内で力を振るう。
徳川家の本拠地である江戸から、九州はあまりにも遠い。
長政が果たせずとも、次の代が。
その次の代でも無理なら、さらにその次の代が。
爪を研ぎ続け、いずれ黒田家が天下を獲る
黒田長政が父と共に抱いた大望が見破られ、指先から零れ落ちる砂のように消え去った瞬間だった。
「義兄上、殿が参りました」
「むっ!?」
廃寺の前で、小早川秀秋の到着を待っていた平岡頼勝が、本堂へ小走りで入ってきた。
長政はほっかむりを解き、その手ぬぐいで泥を塗った顔の変装を落とすと、姿勢を正して平伏した。
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