第17話 裏から操る名君
「くっくっくっ……。いや、申し訳ない」
突然、笑い出した俺に、みなが戸惑い、顔を見合わせた。
緊迫していた空気が一気に緩み、ようやく笑いがおさまった俺は、目尻に滲んだ涙を左の人差し指で拭った。
「ふんっ!」
福島正則は鼻を鳴らし、石田三成を横目で一瞥した。
その刹那、横顔の口元がかすかに弧を描いたのが見えた。
なるほど、俺が福島正則の訴えを飲んだと、そう考えているわけか。
ついでに言うなら、俺に向き直ったその表情は素に戻っていたが、目の奥には余裕と嘲りがあった。
『この縄をさっさと解け! このボンクラが!』
その目がそう言っていた。
福島正則もまた、小早川秀秋を馬鹿にしていた一人だと分かる。
血の繋がりで小早川秀秋を信用し、『様』付けで呼び、日頃から石田三成の悪口を言い合う。
それすら、福島正則の本心からではなかった。明らかに、彼は小早川秀秋を自分の下に見ている。
「でもさ、豊臣を裏から操ってるだなんて、そんな誰もが知ってることを、わざわざ大声で言うからおかしくてさ」
しかし、俺は俺だ。
残念ながら、小早川秀秋ではない。福島正則の期待には応えられない。
ニヤニヤと笑い、俺が笑った理由を、飾らずストレートに言い放った。
「ちょっ!? ひ、秀秋様っ!?」
真っ先に反応したのは、福島正則ではなく石田三成だった。
目をギョッと見開き、思わず床几から腰を浮かせる。
「宇喜多殿」
それを、俺は左手を突き出して制した。
石田三成が座るのを確認すると、俺は右手側にいる宇喜多秀家に顔を向けた。
「えっ!? ……あっ、はい?」
自分の出番はないと思っていたところで、いきなりのご指名に驚いたのだろう。
宇喜多秀家は肩を震わせて戸惑い、俺は苦笑をこらえながら問いかけた。
「三成は豊臣の金庫番。この認識で間違いありませんよね?」
「はい、その通りです」
宇喜多秀家は軽く頷き、俺もそれに応じて頷いた。
「では、その金庫にどれくらい金が入っているのか、月にどれくらい動いているのか、分かりますか?」
「いや……。さすがに、それは分かりません」
続けて問いかけると、今度は宇喜多秀家が首を左右に振った。
困ったような苦笑いを浮かべ、右の人差し指で頬をぽりぽりとかいた。
「俺も同じです。……というか、ここにいる全員が把握していないはずです」
俺は深く頷いた後、肩を軽くすくめ、観察するように周囲を見渡す。
反応はなかった。
場の空気を読んで口を出すのを躊躇っているのではなく、本当に誰も知らないのだ。
石田三成の仕事ぶりは、昨日と一昨日の二日間しか見ていないが、目を見張るほど優秀だった。
数字がずらりと並んだ書類をさばくスピードは、俺の三倍はあった。
それだけに、誰かに任せるより自分でやった方が早い石田三成は、自然と仕事を抱え込む。
その有能さに頼る周囲は、さらに仕事を押し付けるため、悪循環に陥っている。
こうした弊害のせいで、石田三成でなければ把握できない情報が山ほどある。
特に、豊臣家の収支なんて最たるもの。
石田三成の直属の部下たちに話を少し聞いてみたが、彼らですら割り振られた部門ごとしか分かっておらず、全体像を把握している者はいなかった。
「金は力……。不作で米が取れなくても、金さえあればどうにでもなる。
だったら、金庫の鍵を持っている三成は、豊臣家を裏から操っていると言えないでしょうか?」
「確かに……。」
最後の一押しをすると、宇喜多秀家はしばらく迷った後、ようやく頷いた。
迷ったのは、きっと『裏から操っている』という表現の響きがあまりにも強すぎたせいだろう。
「う、宇喜多殿までっ!? ま、待ってくださいっ!?」
当然、石田三成は焦った。
再び目を大きく見開き、今度は床几から腰を浮かせるのを超え、勢いよく立ち上がった。
「三成」
「私はっ!?」
「分かってる、分かってる。座って、座って」
「……御意」
そんな石田三成を落ち着かせようと、俺は左手を突き出し、掌を下にしてゆっくりと上下に振る。
石田三成は床几に座ったが、その表情には不服さがありありとにじみ出ていた。
「女は、奥さんだけだよね?」
そこに、俺は脈絡のない問いかけを投げかけた。
「えっ!? ……はい、私には『うた』がいえば十分ですから」
たちまち石田三成は困惑した。
視線を泳がせ、隣の大谷吉継と顔を見合わせた後、眉を寄せてこちらを見つめ、ゆっくりと頷いた。
石田三成が言う『うた』とは愛称であり、正式には『無量院』と呼ばれる。
その由来は、無量院の生家が宇多氏であったことにちなむのだろう。
三成との間に三男三女をもうけていることからも分かるように、夫婦仲は良好である。
「博打、しないよね?」
「当然です。胴元が絶対に勝つと分かっているのですから」
「……で、酒は下戸。好物は?」
「柿と鮎の塩焼きです」
俺はさらに脈絡のない問いかけを重ねた。
困惑は瞬く間に場全体へ広がり、福島正則でさえ『おい……。お前、いきなり何言ってんだ?』という顔をしている。
だが、俺はその顔が見たかった。
「みんな、聞いた? これが豊臣家を裏から操っている奴の生活だよ? 質素なもんだと思わない?」
その場にいた全員の視線が、音を立てるように石田三成へと集まった。
隣の大谷吉継が腕を組み、うんうんと頷いている。
「あ、あの……。ひ、秀秋様?」
注目を浴びる石田三成は、困ったように声を上げた。
俺に目で『やめてください』と訴えている。
「秀吉様の生活ぶり、みんなもまだ覚えているよね?
派手好き、女好き……。金の茶室なんて、無駄なものを作っちゃってさ。
迷惑をかけられたのは、俺だけじゃないはずだろ?」
しかし、俺はやめない。
分かりやすい比較対象として、駄目な支配者の例に豊臣秀吉の贅沢ぶりを挙げた。
ここにいるのは、豊臣家に近く、強く支持する者ばかりだ。
豊臣秀吉の贅沢な無茶に付き合わされた経験を、誰もが一つや二つは持っているはずだ。
実際、場の困惑はすぐに納得の色に変わった。
「そ、そこまで……。そ、そこまでにしてください。お、お願いします」
秀吉信者の石田三成だけが顔をこわばらせている。
俺だから言える豊臣秀吉のはっきりした悪口を前に、どう対処していいか分からず、やっと絞り出した言葉なのだろう。
「つまり、何が言いたいかって言うと……。
絶対、割に合っていない。天下の豊臣を裏から牛耳って、三成程度の生活しか送れないなら夢が無さ過ぎだろ?
昨日だって、一昨日だって、三成が誰よりも誰よりも早く起き、遅く寝て、終わらない仕事に追われているのを、俺はこの目で見ていたからね」
そんな石田三成に、俺は口元にニヤリと笑みを浮かべた。
ゆっくり間を取り、腕を組みながら場の全員に視線を次々と向け、彼らの反応を楽しむようにじっと観察する。
最後に、視線を福島正則で止めた。
滅私奉公、まさに石田三成を如実に表す言葉だ。
現代で激務の会社に勤めていた経験があるからこそ、俺は福島正則が言う石田三成の不当な評価が許せなかった。
確かに、石田三成は人付き合いが苦手なのかもしれない。
だが、それは元服前から一緒に過ごしていた福島正則は、俺以上によく承知しているはずだ。
どちらにも非はあった。
ただ、二人に違いがあるとすれば、それは互いに肩入れしてくれる人数の差だろう。
その差が、結果として互いの立場や行動に大きく影響している。
だから、俺は石田三成に味方する。
その意志を目で伝えると、福島正則は視線を逸らし、やがて目を伏せた。
俺は満足そうに頷き、顔を石田三成に向ける。
「だけど、三成……。」
「はい……。今度は何ですか?」
石田三成はこれ見よがしに溜息を漏らした。
そのうんざりした様子を見て、俺はニヤリと笑いながら告げた。
「俺は知っている。お前のようなやつを、歴史書では『名君』と呼ぶんだよ」
石田三成の目が一瞬大きく見開かれ、口元がわずかに震える。
「……わ、私が、名君?」
驚きと戸惑いが入り混じったその声に、床几に座る姿勢までぎこちなく揺れているのが分かった。
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