第3章 消えた境界線
翌朝、ホームズは早々に姿を消した。
「旧友に会いに行く」とだけ言い残し、私は留守番を任された格好となった。
書斎の机には、あの“思考で語る円盤”が据えられていた。私はそれに触れることなく、じっと見つめるしかなかった。
まるで、触れれば境界線が崩れるとでもいうように――。
昼過ぎ、ベイカー街にひとりの若者が訪ねてきた。
軍服姿の彼はやけに無表情で、肌は青白く、手には一通の封書を持っていた。
「……ホームズ氏はご不在とのことですが、これは彼に渡して欲しいのです」
そう言うと、彼は手紙を机の上に置き、背を向けて去っていった。
手紙は軍の封蝋が施された正式なものだった。差出人は“陸軍情報局 特務分析室”。
中には、件の隕石落下地点周辺で行方不明になった兵士の報告が添えられていた。
行方不明者数は――十六名。
「そんなに……」
私が報告に目を落としていると、突如、部屋の空気がひどく冷たくなった。
振り向くと、あの“思考円盤”が光を帯びていた。
いや、違う――“光”ではない。“存在の歪み”とでも言うべきものだ。
視界の端が揺らぐ。音もない。なのに、部屋の全てが“観察されている”と感じられた。
「誰だ……そこにいるのか?」
返答はない。だが、私の心の奥に、“像”が焼きつけられた。
水晶のような瞳。無毛の細長い四肢。唇のない口元――
私はその姿を理解する前に、膝をついた。
頭痛と吐き気。異質なものに脳が晒された結果だろう。
ふと見ると、テーブルの上のコップの水が、微かに“上へと”波打っていた。
その瞬間、扉が開いた。
「ワトソン、離れろッ!」
ホームズが戻ってきたのだ。彼は手に銀製の反射盤のようなものを持っていた。
彼がそれを掲げると、部屋の空気が一気に“抜けた”。
耳鳴り。光の歪み。見えない何かが、確かに後退していった。
「……少し遅かったか」
彼は額の汗を拭きながら私を支えた。
「……いまのは、何だ?」
「“来訪者”だよ、ワトソン。正確には――その観測端末。彼らは姿を持たないが、我々の空間に触れる術を持っている」
私は震えながら訊いた。
「君は……それに対抗できるのか?」
ホームズは静かに頷いた。
そして、彼の鞄の中から取り出されたのは、あのマイクロフトの名前が書かれた封筒だった。
「政府もすでに動いている。我々の国だけではない。ロシア、ドイツ、アメリカ……それぞれが“彼ら”と接触している」
私は目を見開いた。事態は、もはや個人の手には負えない。
「これは戦争になるのか?」
ホームズの答えは、ただ一言だった。
「境界が消えるとき、戦いではなく融合が起こる――
それが、彼らの“計画”だとしたら……」
彼の目は、円盤の中央の黒い点を見据えていた。
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