ああ!昭和は遠くなりにけり!! 第15巻

@dontaku

第15巻

歌穂の開花が止まりません!天才と言われる美穂も驚く上達のスピード!そして様々なことに挑戦していきます。



ああ、遠くなる昭和の思い出たち


淡い恋心・・・信子そして美穂と里穂と歌穂



6月の土日は美穂と歌穂にとっては目まぐるしい日が続いた。ジューンブライドの言葉通り結婚式ラッシュだったからだ。多い日は4度の披露宴をこなす2人。

2人の演奏はすこぶる評判が良く、結婚式場の花形演奏者となっていた。それでも2人は驕ることもなく何時も通りの小学生だった。

少し疲れが見え始めた7月初頭、嬉しい知らせが芸能プロから届いた。

里穂のデビュー曲が決まり、そのB面の曲に美穂と歌穂が作った曲が選ばれたのだ。これには本人たちだけでなく信子も優太ママも大喜びだ。発売されると大勢の皆さんに聴いていただけるからだ。

レコーディングへ向かう里穂も気合が入っていたが、見送る美穂と歌穂、優太君にも気合が満ち溢れていた。

夏休みも近いこともあってか仕事の量も増えていく。ここからが踏ん張り時だ!と皆で気合を入れる。

しかし、信子と優太ママは仕事をセーブし始めた。

元気とはいえ、皆まだ小学生だ。成長期にあまり無理をさせたくないというのが2人のママの本音だった。

それともう一つの理由は高原ホテルでの休暇兼合宿だ。皆の仕事の関係から長くて1週間位しか休みが取れないのだ。その日程の調整に四苦八苦する3人のマネージャーさんたち。その様子を心配そうに見つめ、一緒になって考える3人娘。もうお互いが家族のような関係だ。美穂には伊藤さんが、里穂には香澄さんが、そして歌穂には若菜さんが付いていてくれる。芸能プロ内でも評判のタレントさんとマネージャーさんの仲の良さだ。


梅雨も開けようかという7月上旬の土曜日に市の小ホールにて美穂と歌穂の初のリサイタルが催された。

「何人来てくださるかしら?」と不安を抱えていた2人。予想に反して100名の定員に対して1000人近い申し込みがあり抽選という結果となった。だがこの事実は2人には伝えられなかった。これは2人のママの『決して驕ることなかれ!』の思いがあったからだ。

当日、小ホールを訪れた美穂と歌穂は嬉しい現実を目にすることとなった。それは狭い小ホールの通路にずらりと並んだ花輪、花飾りなどの見事な贈り物たちだった。所属する会社は基より、芸能プロ、音響メーカー、サッカー団体、公共性のある所からは祝電という形でお祝いが寄せられていた。入り口で立ち止まりそれらのお祝いの品々を見て感激する小学生姉妹。自ずと練習にも気合が入る。何時も結婚式場で演奏をしているものの自分たちが主体となるリサイタルだから尚更だろう。

リハーサルを終えてお昼を控室で頂く。付き添ってくださるのはスタッフ役の職員さんお2人だ。伊藤さんと若菜さんの4人でお弁当を頂く。このお弁当を拵えたのは美穂と歌穂だ。これには2人の職員さんもびっくりだった。「正直、お昼は展望レストランかな?と思っていました。」と言って驚かれていた。しかも小学生姉妹が作ったとは思えないクオリティーの高さに更に驚かれていた。

13時の開演に向けてお客さんが次々に入ってくる。そんな様子を控室から出てステージの脇から幕を磨らせて客席を覗く2人。そんな姉妹の愛らしい様子を見て微笑む4人の大人たち。自然体の小学生2人がこれからリサイタルを始めるとはとても思えない職員さんたち。

若菜さんに促されてドレスに着替える2人。何時もの様に控室の隅できゃっきゃと騒ぎながらのお着替えタイムだ。この時ばかりはさすがに男性である伊藤さんは席を外してくれる。

美穂は大人びた深紅のドレス、歌穂は美穂のお下がりながらお気に入りの、薄青色のドレスを着用する。

自分たちで少しお化粧を施した2人は先ほどとは別人かと思われるほどの可愛さだ。思わず見とれている職員さんたちをよそに曲目の最終打ち合わせを行なう2人。

最初は「花」、2曲目は「おぼろ月夜」と文部省唱歌が2曲続き、イージーリスニングから「シバの女王」「ひまわり」、クラッシックは「ロマンス第2番ヘ長調」「ラ・カンパネラ」「メヌエット」「カルメン幻想曲」そしてシメは「チゴイネルワイゼン」といった演目だ。

『まだ小学生なのにこんなに演目を弾き熟すなんて!』初めて担当する職員さんお2人も唖然として演目を聞いていた。しかも司会は2人で行うというから更に驚きだった。

にこにこ顔で開演に備え幕の裏で待機する2人の小学生姉妹。それを舞台袖から見守る4人の大人たち。

開演を知らせるブザーが鳴ると幕が上がり始める。

大きな歓声と拍手が2人を迎えてくれる。

幕が上がり切ると満員の100名のお客様からの応援の掛け声や拍手が鳴り止まない。

笑顔で会場を見渡し、2人揃って一礼してご挨拶をする。何時もの始まりと一緒だった。とても小学生とは思えない美穂の司会に合いの手を入れる歌穂。2人の会話に会場内からは「かわいい!」という声が飛び交う。美穂が曲紹介をしている間に歌穂は舞台袖に戻り伊藤さんから他所行きのヴァイオリンと弓を貰う。

ステージ中央に歌穂が戻ると美穂はピアノの元へ向かう。

お互いに顔を見合わせてにこりと笑う。これを見てお客さんたちがため息を漏らす。

ビシッ!と歌穂がヴァイオリンを構えると美穂の「花」の序奏が流れ始める。蘇ったグランドピアノは軽快な音を会場に響かせる。それに続く歌穂のヴァイオリンの綺麗な澄んだ音色。小ホールに生の楽器の音が溢れ出る。

「こんなの初めて!」本格的な演奏会などに使われてこなかった小ホールの新たな魅力をいまさらながらに知る職員さん。いつしか舞台袖には他の職員さんたちが詰めかけ2人の演奏に聴き入っていた。

「ホントにここは小ホールなのか?」

美穂のピアノ、歌穂のヴァイオリンの生演奏に酔いしれるお客様方。小学生ながら片方はプロ、もう片方はピアノコンクールの絶対王者だ。ポスターに掲げられた看板に偽りは無かった。

お互いの持ち曲である「カルメン幻想曲」と「チゴイネルワイゼン」を持ち前の技術力を発揮して見事に演奏していく2人にお客さんたちは言葉を失い引き込まれていく。

やがて演奏が終了すると100名のお客様方は総立ちとなり大きな拍手を贈ってくださった。

初リサイタルは大成功だった。

しかしお客様は一人として帰ろうとはしなかった。

「アンコール!」「もっと聴かせて!」というありがたい声を頂く。顔を見合わせて微笑み歌穂が美穂に耳打ちをした。そして再びステージ中央でビシッ!とヴァイオリンを構えた。ピタッと静まり返る会場内。

美穂の軽い序奏が流れ、弾き始めたのは「トルコ行進曲」だ。ピアノとヴァイオリンの高速演奏を披露する。ピアノが弾ける人にはおなじみの曲だがこれほどの高速で弾くことの難しさは容易に理解ができた。さらに、この美穂のピアノに歌穂のヴァイオリンがぴたりと音を合わせているのだ。それだけではない、重音演奏とオクターブ演奏を高速で弾いてのけているのだ。唖然とする会場内の皆さん。もちろん舞台袖に駆けつけた職員さんたち、2人のマネージャーである若菜さんと伊藤さんも同様だった。数々のステージを見てきた2人だが2人揃っての「トルコ行進曲」を聴くのは初めてだった。そして身体が震えた。

「今日はご来場いただきありがとうございました。ご迷惑でなければ出口でお見送りをさせてください。」美穂と歌穂は駆け足で出口へと通路を急ぐ。それに続いて走る職員さんたち。出口の左右に2人が立つと小ホールの扉が解放される。順序良くお客様たちが出てこられた。皆さんにこにこ顔で2人に握手を求め、声を掛けてくださる。それに笑顔で感謝の言葉とお礼を述べる美穂と歌穂。愛らしい2人の真摯な対応に感心する職員の皆さん方。

最後のお客さんが帰られると職員さんたちから大きな拍手が送られた。「ありがとうございました!お世話になりました。また次回もよろしくお願いいたします。」と小学生らしからぬしっかりした挨拶を済ませると走ってワゴン車に乗り込む2人。次は結婚式場での仕事が待っているのだ。ワゴン車の中には既に2人の持物が全て積み込まれていた。結婚式場までの道のりが2人の休憩時間となる。特製ドリンクで身体を癒す2人を優しく見つめる2人のマネージャーさんたち。

もう2人のことは熟知しているお2人だった。


翌、日曜日は予約が無かったため市の小ホールは1週間かけての補修工事が行われた。水曜日は大ホールで美穂と歌穂の小学校向け定例演奏会が行われる。その時間帯は工事を中断してくださるという職員さんたちの心使いに感謝する2人と伊藤さん。

今回は無作為で選ばれた2つの小学校からの希望者が対象とあって1年生から6年生までが聴きに来てくれていた。そのことを考慮して演目は文部省唱歌と美穂の十八番「カルメン幻想曲」をトリにした演目を決めて臨むことになった。

2人の演奏が始まるとそれまで落ち着きが無かった低学年の児童たちも一生懸命耳を傾けてくれた。

ピアノを習っている子が多かった様で、どの子も美穂の指使いに注力しているように思えた。そして憧れの表情を浮かべる子もかなり見受けられた。同じ年頃の子がここまでやれることが良い刺激になってくれればと思う引率の先生方。会場の一人一人の思いは別々だが美穂と歌穂の演奏はそんな会場の児童たちの心を一つにまとめていくように感じられた。

文部省唱歌が終わると「3人の王の行進」から「ラ・カンパネラ」、そして「カルメン幻想曲」へと繋いでいく2人。もう会場の皆は2人の演奏に夢中だ。特に歌穂のヴァイオリンには多くの児童が聴き惚れていた。“エチュード”のCMで僅かだが流れてはいたものの本格的に演奏を聴くのは初めての子が多かった様でかなり感動してくれていた。8歳の歌穂が奏でるヴァイオリンは人を引き付ける何かがあるとピアノを弾きながら美穂は思った。

演奏が終わってステージ中央で2人並んでご挨拶をすると「全員起立!」という先生の掛け声が。

驚く2人をよそに一斉に立ち上がる児童たち。

「よーし!気を付け!礼!」という掛け声に合わせて「ありがとうございました!」と全員がお礼を言ってくれた。

「こちらこそご拝聴いただきありがとうございました。」と小学生らしからぬ言葉を返す美穂の横で歌穂は嬉し泣きをしていた。そんな歌穂をステージ上で抱き締める美穂。その2人の姿に退席する多くの児童たちが立ち止まって拍手を贈ってくれた。


いよいよ夏休みが始まる。

しかし3人娘に休む暇は無かった。

里穂は10月からの歌手デビューに向けての歌やダンスのレッスンが本格化し、歌穂は“エチュードジュニア”の9月発売へ向けての開発会議やそのCM撮影などが、そして今や結婚式場の華となった美穂はポスター撮影やCM撮影などで大忙しだ。

そんな中、ぽつりと空いた木曜日、この日は3人とも仕事が偶然OFFだった。

久しぶりに小学生4人揃っての朝食。ちょっと会えない間に大人になった優太君の話で盛り上がる3人娘。さすがの優太君もたじたじだった。

「ねえ、今日の午後だけど皆に付き合って欲しいんだけど・・・。」信子の急な提案に優太ママを始め4人の子供たちも何があるんだろう?という表情を見せた。

朝食が終わると各自、レッスンルームに行って秋のコンクールに向けての練習に入る。

歌穂はヴァイオリンを置いて信子とピアノの練習に励む。優太君は優太ママとヴァイオリンの練習だ。かなり難しい指の動かし方を何度も何度も優太ママに教わりながら会得していく。里穂はレッスン室で課題曲の練習に励む。美穂は電子ピアノで有名なアニメソングを披露宴用にアレンジしていた。

お昼は久しぶりにお素麵を頂く。一足先にレッスンを終えた信子と歌穂が台所に立つ。久しぶりの信子との台所仕事に歌穂は大喜びだ。

次々にレッスンを終えた皆がダイニングへ集まってくる。久しぶりの何時もの生活に皆の笑顔が溢れる。

午後は全員でワゴン車に乗ってお出かけだ。

無言で車を走らせる信子。しばらく国道を走ると隣町へと入って行く。

「ねえ、ママ。何処に行くの?」皆を代表して美穂が尋ねるが「もうすぐわかるわ。」という信子。

やがて車は隣町の文化センターに到着した。

沢山の幟が立っていて色取り取りで艶やかだ。

里穂が気付く!

「ママ!ひょっとして!」そう叫ぶ里穂に信子は静かに話しかけた。

「里穂。もう一人のママ、パパとお兄さんにデビューのご挨拶をしましょうね。」そう言って微笑む信子。

「そう・・。そうだったの信ちゃん。」涙ぐむ優太ママ。

「里穂のもう一人のママって・・・。」美穂の言葉をじっと聞いている歌穂。優太君も無言のままだ。

信子と里穂を先頭に6人揃って楽屋へ向かう。楽屋からはお化粧の独特の匂いが香ってくる。大きな暖簾をくぐる信子。「こんにちわーっ!」

「あらあーっ!信子さん!」久しぶりに聴くもう一人のママの声に身体を震わせる里穂。

「今日はご挨拶に伺ったのよ。さあ、里穂、入っておいで。」信子に呼ばれてゆっくりと暖簾をくぐる里穂。

一瞬で記憶がよみがえる。昔過ごしていた舞台の楽屋、大部屋に大勢の役者さんたちが居たあの頃の記憶だ。

「ああっ!おかあさん!おとうさん!おにいちゃん!」そんな里穂を迎えてくれたのは時代劇の衣装を着た父と母、そして兄の姿だった。

後から暖簾をくぐった4人はまるでタイムスリップしたような錯覚に襲われる。歌穂に至っては目をくるくるさせて大勢の役者さんたちを見つめている。

「やあ!みなさんいらっしゃい!」お父さんが大きな声で手招きをしてくださった。

里穂は母親に抱き着いて泣きじゃくっている。

「お邪魔します。」4人で声を合わせる様にご挨拶をすると大勢の役者さんたちも声を合わせてご挨拶をしてくださった。

「あれっ?どこかで見たことがあるぞ!」役者さんの一人が美穂と優太君を見比べながらそう言った。

「いや、俺はこの子、テレビで見たことがある!」

他の役者さんもそう言って歌穂を見つめている。

「はい。こちらの2人は警察音楽隊のポスターで、こちらの子は最年少のヴァイオリニストとして演奏活動をしております。」そう言いながら3人を紹介する優太ママ。

「そうか!そうか!どおりで見たことがあると思ったんだ!」そう言って皆さんにこやかに笑ってくださった。

「今日は、里穂の歌手デビューのご挨拶に伺いました。」信子の一言に居合わせた皆さんたちから「おおーっ!」と驚きの声が上がる。

「そうか、そうか。里穂、良かったな、おめでとう。」

父親は嬉し涙を流して里穂に優しい言葉を掛けてくれた。そんな父の元へ駆け寄る里穂。

「お父さん!わがままを聞いてくれてありがとう!」そう言ってまた泣き始めた。

「せっかくだから芝居を見ていってくださいな。」

里穂のもう一人のママのお誘いに甘えることに。

観客席はマス席で一仕切りを陣取る。

幕が開き演目「国定忠治」が始まる。お客様は年齢が高めの方が多いと見受けられた。時々掛け声がかかる中、芝居は続いていく。その演技に目を奪われる美穂と歌穂。自然と芝居の世界に引き込まれていく不思議な力。

『お芝居も演奏もお客様を惹きつけなければいけないのね。』美穂はそう思った。

『皆さんの演技の様に演奏でお客様の心を掴みたい!』歌穂も思いは同じだった。良く考えると響子さんのリサイタルがそうだった。良いお手本のプロが身近にいてくださっている。「うん!」と思わず声をあげてしまう歌穂に美穂と優太君が「しいーっ。」と声を掛けた。

第1幕が終わると幕ノ内(小休憩)だ。急な来訪にもかかわらず立派な松花堂弁当を用意してくださった。初めて見る豪華な松花堂弁当に目を輝かせる料理好きな美穂と歌穂。久しぶりに見た父、母、兄の芝居に思わず涙ぐむ里穂だったが、気持ちの切り替えが早い!美穂と歌穂ときゃっきゃと松花堂弁当を頂いている。それを見て微笑む2人のママと優太君。

第2幕は歌謡ショーだった。

司会のお兄さんが小学生4人に声を掛けてくれた。

「さあ、行ってきなさい。」2人のママに後押しされて舞台へ上がる4人。突然の小学生4人の登場に沸き立つ観客の皆さん。

老人ホームでの実績がここで発揮されることとなる。

最初は優太君が「旅の夜風」を熱唱、観客席は大騒ぎだ。まさか小学生にこの歌を聴かされるなんて!皆がそう言って感激してくださった。そして何かが舞台へ放り込まれる!驚く優太君。“おひねり”だった。それも1個や2個ではない。舞台のあちらこちらに飛来してくる。何が何だか分からずうろたえる優太君を司会のお兄さんがフォローしてくれる。舞台袖の美穂と歌穂も優太君と同様だった。『お客さんたちを怒らせてしまったのかしら?』2人で顔を見合わせる。

「うふっ!あれは“おひねり”といって感動したり、お気に入りの役者さんにお小遣いをくださっているのよ。」里穂の説明に納得するも余りの量に驚く2人。

「大体中身は1万円札だよ。」続けて説明してくれる里穂の顔を見つめながら「いっ!一万円?」と声を合わせて驚く美穂と歌穂。大衆演劇の舞台と自分たちのリサイタルの違いを肌で感じる2人だった。

続いての登場は歌穂だった。そして歌ったのは何故か知っている「小指の想い出」だった。これには居合わせた全員がびっくりだった。8歳の女の子が歌う、しかもかなり色っぽい曲に観客のおじ様たちはもうメロメロだ。またまた“おひねり”が宙を舞った。目を見開き唖然とする歌穂。『こんなにストレートに喜びを表現する方法があったなんて!』

3曲目は美穂の登場だ。得意の「乱れ髪」を披露するとこれまた会場内は大歓声だ!雨あられの様に“おひねり”が飛んでくる。それを巧みにキャッチしたりしながら名曲を歌い終えると劇場内からはため息さえ聞こえてくる。

舞台袖で見守る里穂の父、母そして兄の前でいよいよ里穂が登場する。大きく成長した娘の歌を今か今かと待っている。そして、イントロが流れる。

里穂のお得意の中の1曲「アンコ椿は恋の花」だ。

「おい!本当に歌えるのか?」うろたえる父に信子が優しく言った。「大丈夫ですよ。貴方の娘さんですから。」

拍手に迎えられて里穂が歌い出す。軽やかな声とパンチの効いた声を織り交ぜながらの熱唱だ。

余りの上手さにびっくり仰天の親子3人。民謡を歌っていたのは知っているもののここまで歌唱力があったとは!やはり天性のものとボイストレーニングの成せる業としか思えなかった。

「歌手デビューするって言っていたけどこれなら大丈夫!里穂はちゃんとやっていける!」3人はそう確信した。

里穂の歌が終わると大勢の時代劇の衣装を着た役者さんたちが舞台に現れた。予定にない行動に驚く司会者のお兄さん。

「里穂お嬢さん、デビューおめでとうございます!」そう言いながら大勢で里穂を胴上げする。これに会場内も「わっしょい!わっしょい!」と掛け声をかけて大興奮だ。軽々と宙を舞う里穂。舞台袖でそれを唖然として見守る3人の小学生。

親子3人は頷きながらその光景を見つめていた。

そして、無事に公演も終わり再び楽屋へお礼のご挨拶に伺う。

またしばしの別れとなる里穂だがもう寂しくは無かった。これほど応援してくださる人たちが居てくれる!そんな思いが里穂を前に向かわせる。

「これを持って帰ってください。」大きなビニール袋に入った“おひねり”を各自毎に別けてくださっていた。

「いえいえ、これは興業のお役に立ててください。」そう言ってお断りする2人のママだったが、「いえ、これはお客様の演者へのお気持ちなのです。ですからご本人に差し上げます。それがこの世界のしきたりですから。」里穂の父はそう言って豪快に笑った。


金曜日は学校の帰りに加奈ちゃんを迎えにマンションへ立ち寄る。車に乗って直ぐに加奈ちゃんが歌穂に相談してきた。どうやらヴァイオリンの音がうるさいと苦情を貰ったようだ。

「そうか、やっぱり。僕もそうだった。だから公園で練習していたんだ。でも、そのおかげで力強い演奏が出来る様にもなったけどね。」優太君がそう言って同情してくれた。そして「皆、毎日学校帰りに加奈ちゃんを家に招待しようよ。」と里穂が提案してくれた。

「私は構いませんよ。」話を聞いていた伊藤さんがそう言って賛成してくれた。

家へ着くと早速2人のママに相談する4人。

「やっぱり。優太の時と同じね。」そう言ってため息をつく優太ママ。

「わかったわ。加奈ちゃんのママには私からお話ししておくわ。おやつが済んだらそれぞれ練習にしましょうね。」信子はそう言って優太ママにお願いをした。

「加奈ちゃんの練習に付き添ってあげて。」

優太ママは頷いて歌穂と加奈ちゃんと一緒にピアノルームへ。

ヴァイオリン教室の復習から始める。本当に初期の練習だ。『これを歌穂ちゃんは2歳から始めていたのね。』優太ママはそう思うと胸が熱くなった。

加奈ちゃんがヴァイオリンを弾く。「えっ?」

優太ママが思わず声をあげた。余りにも加奈ちゃんのヴァイオリンを弾く音にノイズが無いからだ。弓がきちんと弦を捕えている証拠だ。出会ってから数か月、歌穂は加奈ちゃんに基本中の基本を教えてきたのだと優太ママは思った。

「まだこの曲しか弾けないの・・・。」そう言いながら弾いてくれる加奈ちゃんの「きらきら星」は澄んだ音で気持ちが良い。聴き心地が良いのだ。

「加奈ちゃん。綺麗な音が出ているわよ。基本をしっかりお勉強したからなのね。後はどんどん色んな曲を弾いてみると良いわよ。」プロの優太ママに褒められて加奈ちゃんは大喜びだ。それは歌穂も同じだった。

一生懸命ヴァイオリン教室の練習をする加奈ちゃん。

ドレミと音階をそつなく弾いて行く姿に幼い頃の優太君を重ねてしまう優太ママだった。

インターホンが鳴り信子がピアノルームにやって来た。優太ママと一緒に歌穂の横に座り加奈ちゃんの演奏に耳を傾ける。

「まあ!綺麗な音が出ているわね。」信子にも褒められて少し気恥しそうな加奈ちゃん。そのうち里穂が、そして美穂と優太君もピアノルームへやって来た。

皆思いは一緒だった。「姿勢が崩れないから余計音がぶれないんだね。」優太君もそう言って加奈ちゃんを褒めてくれた。

「そうだ!優太お兄ちゃん。お願いがあるの。“エチュードジュニア”の3号試作器を弾いてみて欲しいの。」そう言って優太君にお願いする歌穂。

「うん、良いよ。」そう言って“エチュードジュニア”3号機を歌穂から渡されると立ち上がって構えた。

「何を弾こうかなあ。」そう言いながら弾き始めたのは「カルメン幻想曲」だ。伴奏なしのソロでのヴァイオリン演奏だ。目を閉じてじっと聴き込む歌穂。その横で同じように目を瞑って優太君のヴァイオリンの音色を聞く加奈ちゃん。そんな2人の様子に思わず微笑んでしまう美穂と里穂、そして2人のママ。

優太君の熱演は続く。歌穂の演奏も力強いが、さすがに男の子だ、さらに力強い。

「いやあっ!2人のプロの前だと緊張するなあ。」そう言って“エチュードジュニア”3号試作器を歌穂に返す優太君。「うふっ、優太君力入っていたよね。」そう言って美穂が笑う。

「そ、そうかなあ・・・。」そう言って優太君も照れ笑いをする。

「いい出来だと僕は思うよ。前回の弓の滑り具合も改善されているしね。」優太君はそう感想を述べてくれた。

「歌穂ちゃん、私も弾かせてもらって良いかしら?」突然の優太ママのお願いだった。

「わあっ!弾いてくださるんですか?」大喜びの歌穂。

優太ママも同じく「カルメン幻想曲」を弾き始めた。

『何かが違う!』だがその何かが分からない。

5人の子供たちには違いは分かるもののそれが何であるかは分からなかった。

優太ママの円熟した演奏は続いた。音色が優しく全身を包んでくれる。

「うーん。久しぶりに弾いたって感じだわ。」そう言いながらも満足そうな優太ママ。「良い出来具合ね、歌穂ちゃん。これなら大丈夫じゃないかしら。」そう微笑みながら“エチュードジュニア”3号試作器を歌穂に返す優太ママ。「ありがとうございます!」声を弾ませてお礼を言う歌穂。

「ねえ、ママたちに聞きたいことがあるの。優太君と歌穂の演奏と優太ママの演奏なんだけど、決定的に何かが違うの。」美穂が口火を切ると里穂も続く。「そう!私もそう思うんだけどそれが何か分からなくって。」「私は微妙な弦裁きだと思ったけど・・・。」歌穂もそう意見を出す。

「加奈ちゃんはどう思った?ちょっと難しかったかなあ?」美穂に聞かれて加奈ちゃんは首を横に振った。そして「音が柔らかくってママの子守歌みたいだった。」と答えてくれた。

「優ちゃんはどう感じた?」最後に優太ママは優太君に尋ねた。「小さい頃に聞いていた時と比べると直線的な音ではなく、何か、こう、丸いものが身体に入ってくる感じ・・。上手く言えないなあ。」そう答えてくれた優太君。

信子が微笑みながら口を開いた。

「皆、それぞれが正解よ。良く感じ取ってくれたのね。うれしいわ。良く成長してくれているって分かったの。

それで良いのよ。ねっ!みっちゃん。」

それに頷く優太ママ。

「あのね、答えって言うのか、それは人生の経験値なのよ。漠然としている答えだけど経験を重ねるとそれを吸収して今度は放出できるの。難しくてごめんなさい。自分が高まれば外に出せるものも高まるでしょ?そういうことなの。」優太ママの説明に頷く子供たち。

「だから、いろんなことを本や人のお話、テレビやラジオから学んで自分のものにしていけば経験していなくても経験した人の話を聞いて自分も経験した気持ちになれるでしょ。そうして自分を高めていくの。」信子にそう付け加えられての説明に頷く優太ママ。

「そうかあ!だから私、響子先生の演奏に惹かれるんだわ!」歌穂はそう言って自分で納得していた。


梅雨が明けた土曜日、今日も市の小ホールでのリサイタルだ。午後の仕事もあるため午前10時開演となった。それでも多くの申し込みを頂き満席になっていた。

今日は信子がお休みのため付き添ってくれた。

若菜さん、伊藤さんと3人でリハーサルを見学する。

2人とも息がぴったりで見ていて清々しい。

「もう2人だけでも大丈夫ね。」信子は安心したように若菜さんと伊藤さんに言った。2人ともにこにこと頷いて「ええ。そうですね。」と返事を返してくれた。

幕が開くと大きな拍手と歓声に迎えられる美穂と歌穂。『小学生姉妹のリサイタルにこんなに大勢の方々が詰めかけてくださっている!』そう思うと自然と涙が出てくる信子だった。

最初の演目「花」が流れる。

「!」信子は驚く。美穂の曲調が明らかに違う!

そして歌穂のヴァイオリンがそれに続く。

「うそ!どうして?」歌穂のヴァイオリンの調べも荒々しさが薄れ、滑らかに響いてくる。

『昨日の今日でここまで成長したというの!』

「何だか何時もと違いますね。」若菜さんがそう口にすると伊藤さんも頷いた。

「何か一皮むけた・・・と言うか。」居合わせた大人3人は同じ気持ちだった。

リサイタルは順調に進み、いよいよトリの演目「チゴイネルワイゼン」となった。

歌穂の力強いヴァイオリンの音が鳴り響く出だしのパートだ。

『うん。やはり音が変わったわ!』そう思って美穂と歌穂を見つめる信子。

そしてフィナーレの高速演奏、そして一気にフィニッシュだ。

会場は拍手喝采だ。それに答える2人の姉妹。

アンコールの声が飛ぶ。

再び美穂がピアノの前へ。そして2人が微笑み合って顔を合わせる。美穂の指が動きそれに即座に歌穂が反応する。

「トルコ行進曲」だ。それもヴァイオリンで高速演奏をする歌穂。

「いやあ、この曲は定番になりつつありますね。」伊藤さんが腕組みをしながら感心する。

信子には初めて聴く2人の「トルコ行進曲」だった。

歌穂の高速演奏だけでなく、持てる技をすべて使った高度なテクニックに唖然としてしまうのだった。

『この子たち!素晴らしすぎる!』涙をぽろぽろ流して2人を見つめる信子だった。


夏休みに入ってからは毎日加奈ちゃんが訪れるようになった。当然歌穂のレッスンが毎日続く。

歌穂はいよいよ「きらきら星」の続きを教え始めた。

今まで短調だった基本のレッスンに加えての曲のレッスンに最初はためらう加奈ちゃんだったが、1小節ずつ弾き進めていく楽しさを知っていくのだった。さらに、加奈ちゃんは音符を知らず知らずに覚えてしまっていた。それに合わせて自然と弦を抑える指も動くように。自分でも驚く加奈ちゃんに歌穂はにこにこ顔で話しかけた。「今度のお教室での発表会はフルで弾いてみようね。」その言葉に大きく頷く加奈ちゃん。

丁度その頃、信子の携帯が鳴った。加奈ちゃんのお母さんからだった。まだ一度もお月謝を払っていなくて申し訳ありませんと言う内容の電話だった。

「いえいえ、加奈ちゃんは歌穂の“内弟子”ですからお月謝はいりませんよ。」信子の答えに電話口からは「ええーっ!加奈を弟子として見てくださっていたのですか!」という驚いた声が返ってきた。

そんな話をよそに、歌穂と加奈ちゃんのレッスンは続いていく。まるで乾いたスポンジが水を吸収するように「きらきら星」を演奏する加奈ちゃん。そんな加奈ちゃんを相手に熱が入る歌穂。自分でも弾いて見せて指の動かし方を細かくレクチャーしていった。


週末の土曜日、里穂はサッカースタジアムに居た。

今日もオープニングセレモニーが行われ入場曲に美穂と歌穂が作詞作曲した「栄光の君へ(仮題)」が流された。初めて聴く曲に驚く大観衆。これは皆藤オーナーの粋な計らいだった。発売前の曲を流す試みは皆藤オーナーと芸能プロ副社長の強力なタッグにより実現されたものだった。これに感激する里穂。

そして、定番となったフリーキックセレモニーで、里穂がとんでもないことをやってのける。

両チームの選手の皆さんが見守る中、走り込んで力強いシュートを放つ里穂。ゴールキーパーさんは何時ものバナナシュートだと思い込んでいたようで油断があった。

里穂が放ったボールはストレートにゴールへ向かう。

やっとの思いで、片手でボールをはじき返すのが精一杯のゴールキーパーさん。そして戻ってきたボールは里穂の背丈よりも上に飛来してきた。

「やあっ!」里穂の可愛い掛け声が上がる。

里穂の身体は宙に舞い、後ろ向きでボールを蹴った。

「わああーっ!」スタジアムが湧く!選手の皆さんも唖然としていた。

見事な“オーバーヘッドシュート”だった。思わず立ち上がるサポーターの皆さん。歓声と笛や太鼓の大合唱となった。これを貴賓席から見ていた皆藤オーナーも大喜びだった。各テレビ局でもこのシーンが一斉に流された。『新曲のイメージ通りだ!』そう言って大はしゃぎの皆藤オーナーだった。

一方の里穂は両チームの選手たちにもみくちゃにされていた。そして期せずの胴上げとなった。大歓声の中、広いスタジアムのグランドに舞う里穂。芸能プロ副社長の元へは即座に香澄さんから報告がなされ、副社長も大喜びだった。


8月を迎えると月末に行われる加奈ちゃんの音楽スクールの発表会に向けての練習に熱が入る歌穂だった。これとは別に、加奈ちゃんはもう1曲秘密裏に練習している曲があった。しかし、先ずは加奈ちゃんのコンサートデビューが大きく立ち憚っていた。

まだ6歳の加奈ちゃんだがみっちりと基礎練習を重ねており、ヴァイオリン歴が5か月とは思えないほどの成長ぶりであった。

練習を見守る優太ママからも“歌穂ちゃんの再来”と絶賛されていた。

優太君も、歌穂が亡き父親に教わってきたことをそのまま加奈ちゃんに注ぎ込んでいたことを知っていたものの、その成果を見せつける加奈ちゃんの成長に驚き、大きな期待を持って見つめていた。

そんな中で「きらきら星」に磨きをかける加奈ちゃん。

そんな加奈ちゃんは恒例の“夏合宿”の話を皆がする中じっと聞いているだけだった。

信子が“夏合宿”の説明をしていると少し寂しそうに下を向いていた加奈ちゃん。そんな加奈ちゃんに信子が注意をした。

「加奈ちゃん!ちゃんと聞いていますか?」

これに驚く加奈ちゃん。そして突然泣き出してしまった。これに慌てる3姉妹。信子は続けてこう言った。

「加奈ちゃん、心配しないで。お父さまとお母さまの許可は頂いていますからね。」

その言葉を聞いて泣いている加奈ちゃんの傍へ寄り添う3姉妹。そう、加奈ちゃんは自分が“夏合宿”に行けないと思っていたのだった。うれし泣きをする加奈ちゃんに歌穂がそっとハンカチで涙を拭いてくれた。「ありがとう!歌穂お姉ちゃん。」そう言ってまた泣き始めた。


夏休みに入ってからはずっと一緒に過ごしている歌穂と加奈ちゃん。“夏合宿”前の土曜日、初めて結婚式場へ連れて行って貰えた加奈ちゃん。余りの別世界にしばし呆然となっていた。絵本でしか見たことが無かった宮廷のような雰囲気にドキドキ感が溢れていた。そんな加奈ちゃんを両脇でガードする美穂と歌穂。マネージャーさん、サブマネージャーさんにも紹介して貰い緊張の面持ちだった。

一旦、美穂の控室に荷物を置き美穂と歌穂に誘われる加奈ちゃん。「パフェ食べに行くよ!」

お留守番を伊藤さんにお願いして1階の喫茶室へ向かう3人。少し暗めの従業員専用通路にも興味津々の加奈ちゃんだった。すれ違うスタッフさんたちと挨拶を交わす。最初は少しおどおどしていた加奈ちゃんだが直ぐに大きな声で元気よく挨拶が出来るようになった。

喫茶室へ入ると直ぐに個室へ案内される。テーブル席とはまた違う雰囲気に落ち着かない様子の加奈ちゃん。しかしメニューを見た途端、何時もの加奈ちゃんに戻る。「私、ピーチパフェが良い!」

3人で思い思いのパフェを頂きながら話は“夏合宿”のことだ。歌穂も初めての参加になると知り驚く加奈ちゃん。夏合宿が終わり9月になると歌穂がわが家にやって来て1年となる。「駅前でじっと皆のことを見ていたの。皆、演奏が上手で、とても輝いていたわ。それが羨ましかったの。」そう言ってパフェのバナナをほおばる歌穂をじっと見つめる加奈ちゃんだった。


日曜日の夜、わが家に加奈ちゃんを含む5人の小学生と2人のママ、マネージャーの伊藤さんが集合。高原ホテルへと向かう。

歌穂と加奈ちゃんは最後部座席で走り出すや否や眠りについていた。8歳と6歳では無理のないことだと全員が気遣って音楽を聞いたり電子ピアノを弾いたりと音を立てない様にして自分の時間を楽しんでいた。

夜中の高速道路を快適に走るワゴン車。車の揺れに釣られるように皆眠りについた。伊藤さんは常時80㎞

の定速走行で皆の安眠を保ってくれていた。

夜も明けきらぬ頃にワゴン車は高原ホテルのロッジに到着した。ワゴン車から出て思い切り背伸びをして高原の美味しい空気を吸い込む。寝ている間に高原に到着しているためポカーンとしている加奈ちゃん。

皆自分の荷物を持ってロッジへ入る。

優太くん、美穂、里穂は懐かしさでいっぱいだ。

大人3人と優太君は朝風呂を楽しむという。

子供4人はリスくんに朝ごはんをあげると言って残ることになった。歌穂と加奈ちゃんは初めてのリスくんたちとの対面と言うことでわくわくしていた。

ガラガラと雨戸を開ける。外の爽やかな高原の風がロッジに流れ込んでくる。

4人でテラスの椅子に座ってリスくんたちを待つ。

ガザガザと音がしてリスくんたちがやって来た。

「わああーっ!」喜ぶ歌穂と加奈ちゃん。手すりの上で1列に並んで落花生を受け取ると素早く口の頬袋にしまってもう1個をおねだりするリスくんたち。

「かわいいーっ!」囁くように喜ぶ歌穂と加奈ちゃん。

4人で順番にリスくんたちに落花生をプレゼントし終えると手を振って見送る4人。4人とも大はしゃぎでロッジの中へ戻る。そして順番に歯磨きをして顔を洗う。初めての2人をフォローしてくれる2人の姉。もうすっかり4姉妹だ。

戻って来た伊藤さんに連れられて高原ホテル本館へ向かう。何時もと変わらないホテルのエントランスだが歌穂と加奈ちゃんは初めて見る高級リゾートホテルの景観に少しためらっていた。

2人でキョロキョロと辺りを見回しながらエントランスの回転ドアの前で立ち止まる。それを見た里穂が慌てて2人の元へ駆け寄ってきた。

「縄跳びと一緒だよ。」そう言って回転ドアのタイミングを計って2人の手を取り掛け声をかけて迫ってくる扉の中へ飛ぶように入る。おっかなびっくりの2人を助ける里穂、そして2人の幼い姿に通りがかりの方たちから優しい視線が注がれていた。

フロントで支配人さんとスタッフさんたちにご挨拶をする。新しい顔ぶれに笑顔で接してくださる皆さんに2人の緊張も次第にほぐれていく。

「4人とも温泉でさっぱりしましょうね。」優太ママに一人ずつ着替えを渡されて予約して貰っていた家族風呂へ向かう。こじんまりとした岩風呂で小学生4人にとってはかなり広く感じる。特に歌穂と加奈ちゃんは自宅のお風呂しか知らないためとても新鮮に映る家族風呂だった。

4人でキャーキャーと騒ぎながらボディーソープで洗いっこする。これも幼い2人にとっては初めてのことだった。姉2人に全身泡だらけにされて楽しそうにお風呂でのお喋りに花を咲かせた。

4人でロビーに戻ると信子たち3人が待っていてくれた。信子はピアノで「愛の挨拶」を弾いていて周り日は大勢の宿泊客の皆さんが集まって聴き入ってくださっていた。思わず駆け寄る4人娘。

4人を見て微笑む信子。その様子に気付いた宿泊客の一人が歓喜の声をあげた。

「里穂ちゃんだ!」「あっ!美穂ちゃん!」「いやあ!歌穂ちゃんもいる!」

少し驚く加奈ちゃんに美穂が言った。

「今日は私たちもホテルの宿泊客、つまりお泊りのお客さんなの。だから特別でも何でもないの。」そう言って加奈ちゃんを落ち着かせてくれた。

「うん。」にっこりと頷く加奈ちゃんに同じように頷く美穂。

信子の演奏が終わると大きな拍手が送られる。4人娘も一緒に拍手を贈る。

信子がピアノから離れると宿泊客の皆さんも自然とロビーを離れそれぞれの目的地へと去って行った。

「さあ、朝ごはんにしましょう!」優太ママの掛け声に「はーい!」と返事をする4人娘。

1年ぶりの高原ホテルのレストラン。何時もの奥のテーブルが指定席だ。遠慮気味の伊藤さんを後ろから押すようにレストランの中を歩いて行く4人娘。

愛らしい4人の姿はどうしても皆さんの視線を集めてしまうようだ。皆さんの微笑みを受けながらの登場となっていた。

席に着いてコック長さんのご挨拶を受ける8人。

一言、一言丁重に話しかけてくださる何時ものおもてなしだ。

緊張しまくっている2人の幼い姉妹にも優しく話しかけてくださり思わず笑顔を溢す2人。それを見て信子と優太ママも顔を見合わせて微笑む。

「さあ!好きなものを取っていらっしゃい。」信子の言葉に「はい!」と元気な返事を残して一斉に席を立つ5人の子供たち。4人娘が最初に向かったのはスクランブルエッグのところだ。真っ先にお皿にこれでもかと思うほどに盛り付ける美穂。それを唖然として見守る2人の幼い妹たち。そして続く里穂も山盛りにスクランブルエッグを盛り付ける。続いて歌穂と加奈ちゃんだ。さすがに2人の姉の様にはいかなかったが、それでも大冒険の量のスクランブルエッグをお皿に盛り付けて大喜びだった。4人で連れ立ってウインナーのコーナーへと向かう。数種類のウインナーをお皿に並べていく。加奈ちゃんは”タコさんウインナー”をお皿の上で整列させていく。3人の姉はそれを見て「かわいい!」と笑顔を向ける。少し照れた加奈ちゃんを連れて4人が続けて向かったのはマカロニサラダのコーナーだ。数種類のパスタのサラダが並んでいる。今まで見たことのない愛らしいパスタたちに思わず笑顔がこぼれる2人の妹。パンはそれぞれ好きなものを取り、”ころころバター”を添えて席へ。仕上げは大きなコップにたっぷり注がれた高原牛乳だ。

賑やかな朝食が始まる。食事をしながら優太ママから今日のスケジュールが発表される。

食後のデザートは何時ものチョコレートフォンデュだ。滝のように流れてくるチョコに驚く2人の妹。

姉たちの真似をしてバナナとイチゴをチョコで覆い、待ちきれずにその場でパクリ!

余りのおいしさに顔を見合わせて目を丸くする幼い2人を見て大笑いの2人の姉。お行儀よく4人でチョコレートフォンデュを作る姿を見て他の宿泊客の皆さんたちも思わず吸い寄せられるように4人の周りに集まって来た。知らない者同士でチョコレートフォンデュの話で盛り上がる。加奈ちゃんも知らないお友達とも気軽に会話が出来ていた。

楽しい朝食が終わると一旦ロッジに戻る。

最初の訪問は高原霊園、歌穂の父が眠る場所だ。

信子に耳打ちされて伊藤さんが純白のヴァイオリンケースと電子ピアノをワゴン車に運び込む。

8人で高原霊園への山道をぐんぐんと登って行く。

途中飛び込んでくる牧場の景色がいかにも高原らしい。加奈ちゃんは牛さんたちに手を振ってご挨拶だ。

霊園に着くと加奈ちゃんは純白のヴァイオリンケースを持とうとするが歌穂は自分で持つからと言って軽々と背負った。電子ピアノは伊藤さんが背負ってくださる。美穂は脚のパーツを持って広い霊園内を歩いて行く。

やがて奥まった一角に到着するとすでに清掃が行われており、信子と優太ママが霊園内で買い求めたお花を添えて軽く手を合わせた。

信子の合図で、全員で手を合わせてご挨拶だ。幼い加奈ちゃんも見よう見まねで手を合わせる。

「お父さん、またやって来ました。私はプロとしてヴァイオリンを弾いています。お父さんの教え通りに基本に忠実に演奏をしています。そしてお弟子さんも出来ました。まだ8歳の私ですがお父さんの望み通りにヴァイオリンの道を歩んでいきます。お父さん、聴いてください。美穂お姉ちゃんの伴奏で「ロマンス第2番ㇸ長調」です。

歌穂はヴァイオリンケースから父から買って貰った他所行きのヴァイオリンを取り出す。さらにケースの中から国際郵便で届いたレターを取り出し「お父さん。これ、ママの手紙です。私はお父さんとママの子供だから私にとっての大切なお守りなんです。」

そう言い終わると何時もの立ちポーズを構える。

斜め後ろで電子ピアノに指を置く美穂が合図を送る。

美穂の電子ピアノが鳴る。そして歌穂のヴァイオリンも。広い高原霊園に流れるピアノとヴァイオリンの調べ。居合わせた6人は感動せざるを得なかった。それほど2人の演奏は素晴らしかったからだ。何時も結婚式場で演奏している2人だが今日の演奏は格別だった。同じ霊園に居た方々がじっとこちらを見つめている。そんな2人の演奏を喜ぶかのように風が吹き抜けていく。亡き父が『ありがとう!』と言ってくれているかのようだった。

演奏が終わると皆涙ぐんでいた。

そして泣き止んでいたセミたちが再び大合唱を始めた。

亡き父に別れを告げて次に向かうのは高原高校だ。

去年2年生だった皆は3年生となり最後のコンクールに向けての練習に熱が入っていた。

桜さんの顧問ぶりもすっかり板につき夏休み期間の練習にも積極的に指導に当たっていた。

久しぶりの再会に喜び合う。初めて訪れた歌穂と加奈ちゃんの子弟コンビの自己紹介に驚く皆さん。

さっそく合同練習が始まる。

1年生が大多数を占める第2ヴァイオリンに加奈ちゃんが参加。高校生の中に幼稚園児が一人という構成に何か可愛らしさを感じる皆さん方。

「加奈ちゃん、ここはこう弾き始めて。」優太君の指導の下ヴァイオリンを弾く加奈ちゃん。

「えっ?」皆さんの顔がこわばる。音が綺麗すぎるからだ。基本をずっと習ってきた加奈ちゃん。澄んだ加奈ちゃんのヴァイオリンの音は高校生の皆さんを驚かせたのだ。急に姿勢を正して各自練習を始める皆さんたち。良い刺激となったようだ。

お昼になるとご挨拶のため午後の練習はお休みさせていただき、喫茶店「白樺」へ。

久しぶりの店内には皆のCD曲がBGMとして流されていた。「何だか気恥ずかしいね。」と言いながら店内奥の何時もの席へ進んでいく。アルバイトのお姉さんたちが「いらっしゃいませ!」と言って声を掛けてくれる。「奥の席、良いかしら?」信子の声に気付いたご夫妻。「あらあーっ!皆さん!」大喜びの奥様とご主人。それに気付くアルバイトのお姉さんたち。「あっ!天使の3姉妹、わあっ!歌穂ちゃん?」

そんな騒ぎをよそにチーズトーストとナポリタンをオーダーする。歌穂と加奈ちゃんは初めての喫茶店に興味津々だ。「ここは何をするお店なの?」加奈ちゃんの素朴な質問が飛び出し店中大笑いとなった。

皆でチーズトーストとナポリタンを取り分けながら会話を弾ませる。歌穂と加奈ちゃんもチーズトーストがお気に入りになったようだ。そしてケチャップたっぷりのナポリタンに至っては大嫌いだったピーマンまで食べてしまう程のお気に入り様だ。これには皆びっくりだった。

喫茶「白樺」を後に市役所へ向かう。町長さんのスケジュールに合わせての表敬訪問だ。ヴァイオリンとお留守番をしてくださる伊藤さんに見送られてエレベーターで秘書課へ向かう。短い時間しか持てない市長さんとの会話だったが、大人の会話に一生懸命聴き入る加奈ちゃん。「園長先生のお話と思っちゃったわ。」と笑顔を見せる可愛らしさに市長さんはご機嫌だった。さらに驚きの事態が起こる。

それは、歌穂の父が使っていたヴァイオリンの件を信子と優太ママが気に掛けていたのだが、転売先が分からなかったのだ。そして転売先が判明したということを町長さんが明かしてくださった。

「あっ!」歌穂の記憶がよみがえる。一時施設に保護されていた時に勝手にヴァイオリンを持ち出されて壊されたのだった。折れた指板部分を見て泣き出した歌穂を職員さんが慰めてくださったのだった。それが歌穂が施設を飛び出した原因だったのだ。

それは清掃工場で保管されていた。職員さんが捨ててしまうのは惜しいと思われたそうでロッカーに大切にしまってあったとのことだ。先日、その方が勇退されて荷物整理の際に出てきたとのことだった。

喜ぶ信子と優太ママ。そして何よりの笑顔を見せる歌穂。担当のお姉さんが現物を持ってきてくださった。

「わあ!」優太君の悲痛な声が上がる。

無残にも取れた指板と本体部分、弦はちぎれてしまっていた。皆言葉も出ないほど静まり返っていた。

「ママ!これ修理できるかなあ?」ぽつりと歌穂が呟く。

「うん。ベルギーのメーカーさんに頼んでみようね。」信子の言葉に明るく頷く歌穂。

「ベルギーのって、まさか・・・。」驚く町長さんと職員さんたち。

「そう、優ちゃんが使っているヴァイオリンとのシリアルナンバーが連番なの。つまり、この子は1500万円の名器なのよ。」壊れたヴァイオリンを手に取って優太ママが説明する。

「歌穂、あなたがお父さんの形見だと思っているヴァイオリンは、実はこれから大きくなる貴方へのプレゼントだったのよ。」

信子の言葉に両手で顔を覆い泣き出す歌穂。厳しかった亡き父の優しさに触れたことが嬉しかったのだ。

美穂と里穂が両側から歌穂を抱きしめる。加奈ちゃんもそれに加わり一緒に泣き始める。

「修理代は町の方で負担させていただきます。」そう言う町長さんに信子がそっと言った。

「あくまでも事故で壊れたものです。当方で負担します。」

「いや、町の施設で発生した不祥事による損壊です。町として補償させていただくのは当たり前です。」

お互いに譲らない展開となった。

「信ちゃん、弁護士の先生にお任せしましょうよ。」優太ママはそう言って2人を納得させた。

2人に笑顔が戻ったところで町営ホールでのリサイタルの話となった。夏祭りの一環としての開催なのでまた通行規制があるという。特に歌穂は見ていた側から出演する側になり少し戸惑っていた。

町長さんとの面会を終えて全員で衣装合わせに赴く。

庁舎の一角に洋服屋さんがありそこでの衣装合わせとなる。優太君を筆頭に順番に衣装を着て最終調整を行う。その様子をじっと見つめる加奈ちゃん。

「はーい!最後は加奈ちゃーん!」

その声に驚く加奈ちゃん。まさか自分も出演するとは思っても居なかったのだ。戸惑う加奈ちゃんを引っ張るように歌穂が更衣室へ連れて行く。皆が笑顔で2人を見送る。更衣室からは嬉しそうな加奈ちゃんと歌穂の声が聞こえてきた。

衣装合わせが終わると春子さんの駅前音楽教室へ向かう。駅ビルの地下駐車場に車を停めて業務用エレベーターで2階へ。懐かしい従業員控室の脇を通り商店街へ出ると直ぐに楽器店だ。すっかりリニューアルされたお洒落な楽器店に8人で入って行くと春子さんと小春さんの驚く声が。その声に店内のお客さんたちが一斉に8人に目を向ける。

「きゃあーっ!優太君!」「うわあーっ!里穂ちゃん!」「あっ!美穂ちゃんだ!」「あっ!歌穂ちゃんだ!ヴァイオリンケースが可愛い!」と言う声が店内のあちらこちらから上がる。

新しいメンバーとして歌穂と加奈ちゃんを紹介すると春子さんと小春さんはにこにこ顔で大歓迎してくださった。特に2人がヴァイオリンを弾くということで亡き夫が引く音色を思い出してしまうとのことだった。小春さんはあまり父の記憶はないようだがやはりヴァイオリンの音色を聴くと何かしら懐かしいものを感じると話してくれた。そして店の経営を勉強するため、現在は専門学校で簿記を学んでいるとのことだった。

「歌穂ちゃん、ミニステージで何か弾いて貰えないかしら?」そう言うお2人のリクエストに笑顔で「はい!」と答える歌穂。純白のヴァイオリンケースから他所行きのヴァイオリンを取り出すとミニステージへ。

「美穂お姉ちゃん、伴奏をお願いします。」

「それでは『ラ・カンパネラ』から行きます。」

静まった商店街に美穂のピアノが鳴り響く。

そして勢いよく歌穂のヴァイオリンが音を奏でる。

ピアノでも有名な「ラ・カンパネラ」を軽快に弾き進めていく歌穂。楽器店の前はあっという間に人垣が出来ていた。小さな小学生が弾くヴァイオリンの調べは人を引き寄せる力があった。

「音に澱みがないから隅々まで音が届くのね。」小春さんが感心して信子に話しかけた。

「はい。亡きお父さんの教えと持って生まれた才能だと思います。ちなみにあの子、加奈ちゃんもそうです。」

その会話をじっと聞いていた小春さんが加奈ちゃんに視線を移すとハッとして凝視した。『美穂ちゃんと同じだ!』

加奈ちゃんは自然と左指を動かして歌穂の音を拾っているのだ。それは幼い頃の美穂と同じ仕草だった。

演奏が終わると歌穂が加奈ちゃんを呼んだ。

「加奈ちゃん!ヴァイオリンを持っておいで!」

急な展開にドキドキしながらミニステージに上がる加奈ちゃん。拍手で迎えてくれるギャラリーの皆さんの顔が遠くに見える。

「加奈ちゃん!もう制限なしだよ。」歌穂に言われて「はい!」と頷く加奈ちゃん。

『制限なしって・・・?』美穂を含めた全員が首を傾げた。

「それでは「きらきら星」いきます!」歌穂はそう言って美穂に声を掛けた。「出だしだけお願いします!」

美穂の優しい前奏が流れる。そして加奈ちゃんのヴァイオリンが音を出す。

「おおーっ!」どよめきが起こる。

「何て綺麗な音色なんだ!」「幼稚園児でもこんな綺麗な音が出せるのか!」と言う声が飛び交う。

2小節目からは解禁していた“ビブラート”が、さらに“重音”、“オクターブ”演奏まで飛び出す。しかもどの音も濁っていない綺麗な音なのだ。

『毎日練習していたのはこういうことだったのね。』ピアノの手を休めている美穂はそう思って一人にこにこしていた。

春子さんも小春さんも加奈ちゃんの突然の高度な技法に驚きを隠せなかった。

優太君も腕組みをしながらニコニコと頷いていた。

信子と優太ママは両手を叩いて喜び合っていた。

何とも言えない位綺麗な音での「きらきら星」が終わると盛大な拍手が幼稚園児加奈ちゃんに送られた。

もう家族である7人からも温かい拍手を頂き少し照れ臭そうな加奈ちゃんを歌穂が抱きしめた。

「おめでとう!人前で練習の成果が出せたね!」

ミニリサイタルが終わるとお店番の小春さんを残して「樹林」へ向かう。人通りを避けるため裏道を歩く。

「こんにちわーっ!」皆で挨拶をしながら店内へ。

突然の天使3姉妹とヴァイオリニスト歌穂の登場に色めき立つ店内。アルバイトのお姉さんたちも呆然と立ちすくんでいた。

「あらあーっ!いらっしゃい!待っていたのよーっ!」マスターと奥様がそう言って新設された2階の個室へ案内してくれた。2階の住居部分を全て客室へ改装したとのことで15人は着席できる長いテーブルと椅子が備えられていた。

「学生さんたちのミーティングでも使っていただいているのよ。」そう言いながらお冷をコップに注ぐ奥様を制止して美穂と里穂が手際よくお冷を皆に渡して行く。

「お昼を頂きましょうね。」信子の一声で美穂のオーダー取りが始まる。メニューをじっと見つめる歌穂と加奈ちゃん。

「しっかり食べておいてね。夕方6時まで食べれないからね。」優太ママにそう言われて真剣にメニューに目を通す2人。

「最近、“お子様セット”を始めたの。可愛いお2人にいかがかしら?」奥様の指差す先にはプレートに様々なおかずが乗った写真があった。一目でこのメニューが気に入った2人は声を揃えて「“お子様セット”をお願いします!」と美穂に伝える。「はい、はーい!」と笑って答える美穂。幼い2人、特に加奈ちゃんは初めてだらけのこの合宿だ。どの場面でも目を見開いて驚いていた。

午後4時からのリサイタルの内容の打ち合わせを行なう。

トップバッターは歌穂と加奈ちゃんだ。「きらきら星」の序盤を加奈ちゃんが、後半部を歌穂がそれぞれソロで弾く。そして2人が得意とする文部省唱歌だ。

「花」を2人で高音部と低音部に分かれてのヴァイオリン演奏だ。そして加奈ちゃんのソロ演奏で「赤とんぼ」をそれぞれ披露しリサイタルデビューをする。

その後は歌穂と里穂の「チゴイネルワイゼン」ㇸと繋がる。久々のオリジナルコンビだ。加奈ちゃんはまだ里穂のピアノ演奏を聴いたことが無い。その為か、加奈ちゃんはこの演目を楽しみにしていた。

後は里穂の「花のワルツ」、そして優太君と美穂の「カルメン幻想曲」、最後のトリは全員での四季より「夏」の演奏となる。ここで注目なのが加奈ちゃんだけでなく、美穂のヴァイオリンデビューだ。加奈ちゃんと2人で比較的優しいパートを受け持つ。ある意味、歌穂と練習をしてきた加奈ちゃんの方が先輩かも知れない。加奈ちゃんにすれば、ピアノの絶対女王との競演というプレッシャーもあった。

「加奈ちゃん、よろしくね。私、ヴァイオリン苦手なの。」そう言って笑う美穂。しかし、加奈ちゃんはそれが信じられなかった。

「こちらこそ、よろしくお願いします、美穂お姉さん。」

そうしている間に小さなエレベーターからお料理が次々に上がってくる。優太君も手伝って3人でのお給仕となった。歌穂と加奈ちゃんも手伝おうと席を立ったが人数が多すぎると反って危ないと無理やり美穂に座らされた。

美味しいお料理を楽しんだ皆は再び裏道を通って駅ビルへ戻る。春子さんの楽器店に預けていたヴァイオリン6挺を一人ずつ引き取りワゴン車で町営ホールへ向かう。

町営ホールの楽屋口から数名の熱烈なファンの声援を頂き楽屋へ。

着くや否や会場でのリハーサルが行われる。

殆どがマイクや照明の調整で軽く一演奏と言った感じでリハーサルを終える。特に加奈ちゃんはメ張りをしっかり確認していた。そして緊張している素振りは全くなく、むしろ歌穂と一緒にステージで演奏できることに喜びを感じているようだった。

「花」の出だしを里穂のピアノで確認し少し弾いてみる加奈ちゃん。客席の一番奥のスタッフさんが大きな丸で合図をくれた。嬉しそうに「ありがとうございます!」とお礼を言う加奈ちゃんに緊張気味のスタッフさんの顔もほころぶ。

「リハーサルは終了です。全て良好です。開演まで暫しお休みください。」ディレクターさんがメガホンで伝えてくださると皆控室へ戻っていく。

開演前の皆の話題は演目の曲のことが殆どだった。

演奏方法そのものよりも作曲者や演奏家の心情や曲を作った背景の話を信子と優太ママに教わっていく。

「加奈ちゃんの「花」は墨田川そのものだね。」そう言って褒めてくれる優太君に少し首を傾げながらも「優太お兄さん、ありがとうございます。」と礼儀正しい加奈ちゃん。これまた幼稚園児とは思えなかった。

「お客様、入られまーす!」会場からスタッフさんたちの声が聞こえる。

着替えを終えた7人が円陣を組み「がんばるよっ!おおーっ!」と声を出す。

美穂の挨拶によって幕が開く。舞台中央には歌穂と加奈ちゃん、ピアノには里穂がスタンバイしている。

大きな拍手を頂き少しはにかむ加奈ちゃん。

そして「あっ!」と目を見開いた。客席の最前列中央にご両親の姿が。わが子のデビューだと信子に聞かされてチャーターしたハイヤーではるばる応援に来てくれたのだ。小さく手を振るお母さん。お父さんはビデオカメラを回している。

そんな中、里穂の前奏が始まる。そして加奈ちゃんの独奏だ。

「おおーっ!」客席のあちらこちらから驚きの声が起こる。加奈ちゃんの演奏は澄み渡り澱みのない綺麗な旋律を流し始めたからだ。まだ6歳の幼稚園児の一本調子の演奏だと思い込んでいた大勢の人たちが期待を裏切られたのだった。そして途中から歌穂の低音部が加わり見事な演奏となった。目を見開き信じられないといった表情の母親。こんな大きな会場で自分の幼い娘が立派に演奏をしている現実が信じられなかった。

舞台中央に小さな女の子が2人立ち、とんでもないヴァイオリンの演奏を行なっているのだ。満員のお客様は身じろぎも出来ず2人の演奏に引き込まれていく。

舞台袖で見守る4人もうんうんと頷きながら小声で声援を送っていた。「加奈ちゃん!見事に花を咲かせましたねえ。」そう言って涙ぐむ伊藤さん。

「赤とんぼ」を弾き始める加奈ちゃん。綺麗な音色が見事にマッチした演奏だ。途中で歌穂も加わり見事な重奏となった。そして「きらきら星」だ。ここで加奈ちゃんの力量が爆発する。第2小節は重音を披露、ビブラートを使い余韻を出すと最後はオクターブ演奏だ。驚きまくる会場内。「うそ!信じられない!」たまたま来場いただいたヴァイオリニストのお姉さんたちから驚きの声が上がる。

そして加奈ちゃんの演奏が終わり一礼をすると拍手喝采だ。隣の歌穂も拍手を贈る。嬉しそうに舞台袖へ引き揚げて行く加奈ちゃん。待ち受けた5人にハグされて照れ臭そうだ。

加奈ちゃんが引き上げると今度は歌穂と里穂の出番だ。美穂の曲紹介に会場がざわつく。

「小学生が弾けるのか?」そう言った声も聞こえてくる。しかし、小学生とはいえ、そこはプロ。構え一つで会場を黙らせてしまう歌穂。

里穂の力強い前奏が始まる。そして身体を上手く動かしながらの歌穂の迫力あるヴァイオリンの音色が会場の隅々まで響き渡る。『何で弾けるの?』驚きの表情を浮かべるヴァイオリニストのお姉さんたち。

舞台上は歌穂の世界観で染められていた。

ゆったりした第2部から高速演奏の第3部へ。

舞台袖の優太君も唸るほどの演奏だ。しばらくぶりのコンビは全くブランクを感じさせない演奏を繰り広げていく。最高潮を迎えるヴァイオリンとピアノの高速演奏に会場内は息を飲んで見守っている。

そして圧巻のフィナーレ。

歌穂が一礼すると里穂の元へ駆け寄っていく。里穂も椅子から降りて両手を広げて歌穂を迎え入れた。

鳴り止まぬ拍手の中二人は抱き合ったままだった。

それを見て涙ぐむ5人。もうこのコンビでの演奏は見られないかもしれないからだ。翌9月から芸能界へ旅立つ里穂。それを祝福するかのような歌穂の熱演だったのだ。

その後の美穂と優太君のコンビの「カルメン幻想曲」も鬼気迫るものがあった。何時もより激しい美穂のピアノに乗せられるかのような優太君のヴァイオリン捌き。とても小学生とは思えない2人の演奏に会場の皆が痺れた。会場の優太君ファンからはため息さえ漏れ聞こえていた。

シメは6人(ピアノ1台、ヴァイオリン5挺、指揮者1人)での「夏」の演奏だ。この演奏で美穂と加奈ちゃんがヴァイオリン4重奏デビューを果たす。美穂は得意のピアノとは勝手が違うせいか顔をこわばらせて一生懸命ヴァイオリンを弾いていた。そんな美穂の様子をピアノを弾きながら眺めていた里穂は笑いを堪えるのに必死だった。

こうして第1日目の公演は大盛況に終わった。

控室には加奈ちゃんの両親が訪れ、娘の初舞台をたいそう喜んでくれた。それに飛び切りの笑顔で答える加奈ちゃん。歌穂も嬉しそうだ。歌穂だけではない、美穂や里穂、優太君も笑顔で拍手を贈ってくれた。


高原合宿2日目の朝。

恒例となったリスくんたちへの落花生のおすそ分けに大喜びの4姉妹。きちんと順番を守り列を作るリスくんたちに感心する歌穂と加奈ちゃん。口の中に大きな落花生を2つ詰め込み3つ目は小さな手でしっかり持って帰っていく姿にもうメロメロな2人だった。

リスくんたちが帰っていく頃にやっと大人たちが起きてくる。順番に顔を洗ったら信子の運転で高原ホテル本館へ向かう。朝風呂ならぬ朝温泉を楽しむためだ。

温泉を出てロビーへ向かうと出発準備を整えた伊藤さんが新聞を読みながら皆を待っていてくれる。そんな伊藤さんに朝のご挨拶をして一緒にレストランへ。

食事を終えロッジに戻ると合同練習のために高原高校へ向かう。爽やかな高原の風がワゴン車を通り抜ける爽快さに心も安らぐ。流れていく高原の緑色の景色にため息さえ出るほどの安心感を覚える。

高原高校に着くと音楽室だけでなく隣の教室も使っての個別練習だ。

歌穂と加奈ちゃんはツタッカートの練習に励む。

感の良い加奈ちゃんはすぐにマスターして周りの皆を驚かせていた。ヴァイオリンを弾く音楽部員たちへのアドバイスを小学2年生の歌穂が行う姿は異様に映るかもしれないが、小さくてもそこはプロだ。

皆、頷きながら何度も繰り返して練習をしていく。

そしてついには加奈ちゃんの周りに集まり弓の動かし方をマスターしようとする部員まで現れた。これには加奈ちゃんも大照れだった。

小休憩の時、優太君が歌穂と加奈ちゃんにオレンジジュースを持って来てくれた。「わあ!優太お兄ちゃんありがとう!」3人で美味しそうにオレンジジュースを頂く。ヴァイオリンの雑談に花が咲く。

「歌穂ちゃん、お願いがあるんだ。」突然優太君が切り出した。「えっ?」と驚く歌穂。

「実は「カルメン」を弾いて欲しいんだ。」

「でも、「カルメン」は優太お兄ちゃんと美穂お姉ちゃんの一番大切にしている楽曲だよ。」そう答える歌穂に優太君は言った。

「僕は、歌穂ちゃんの「カルメン」を聴いてみたいんだ。女の子が演奏する「カルメン」を。」

優太君の真剣な目に圧倒されて頷く歌穂。

3人でピアノの前で休憩している美穂の元へ。

「あら、お疲れさま。3人揃ってどうしたの?」

美穂だけでなく周りにいた里穂も何事かと視線を向ける。

「実は、歌穂ちゃんのために「カルメン」を弾いて欲しいんだ。」優太君のストレートなお願いに躊躇する美穂。普段歌穂と共に結婚式場で演奏をしている美穂は歌穂の実力は十分判っていた。美穂が恐れているのは歌穂の優太君越えだった。8歳ながら才能を開花させ更に進化し続ける歌穂。余り2人を近づけたくないと距離を持たせるようにしていたのだが、その時は来てしまったのだ。『優太君は自分の十八番を歌穂に弾いて貰って歌穂の実力を認めようとしているんだわ。』

美穂は信子へ視線を向けた。少し遠くで様子を見ていた信子は美穂に向かって静かに首を縦に振った。隣の優太ママも同様だった。昨日の「チゴイネルワイゼン」の完成度の高さから2人のママも歌穂の実力を確かめたかったのだ。

2人のママはピアノの傍にやってきてこう言った。

「今日の演目を入れ替えましょう。「チゴイネルワイゼン」は優太君、「カルメン幻想曲」は歌穂が弾くことにします。伴奏は従来通り、「チゴイネルワイゼン」は里穂、「カルメン幻想曲」は美穂とします。」

真剣な面持ちで頷く優太君と歌穂。思わず顔を見合わせる美穂と里穂。

町民ホールには急遽演目と演奏者の変更の案内が貼り出された。その前には大勢のファンの姿があった。

そしてその中には響子さんの姿が。

「うそでしょ!ダメだよこんなの!どちらかが潰れてしまうわ!」そう言いながらマネージャーさんと楽屋へ飛び込んでくる響子さん。

「わあ!響子さん!いらっしゃい!」突然の響子さんの訪問に沸き立つ全員。お喋りに夢中だった小学生と幼稚園児も直立不動の体制でお迎えする。

「あっ!いや!こんにちは。」何時もと変わりない皆の姿に拍子抜けする響子さん。信子に促されて奥の応接セットに腰を下ろす。

「掲示板、ご覧になったんですね。」お茶を入れながら優太ママが響子さんに尋ねた。

「ええ。驚いちゃって。だって2人ともこれからの子たちじゃないの。それを直接対決させるなんて。どちらかがダメになっちゃうような気がして・・・。」

お茶を頂きながら一気に話す響子さん。

「うふふ。ご心配頂きありがとうございます。でも、あの2人はご覧の通りです。」そう言う信子の視線の先では5人仲良く談笑する子供たちの姿が。とても競演前とは思えない優太君と歌穂の仲の良い姿があった。

「あの子たち、お互いを尊重し合っています。そしてお互いを良く知っています。だから平気で、全力でぶつかり合えるんです。分からないことがあれば必ず誰かに聞いて、必ず誰かが答えてくれます。そしてそれを糧に前へ進む。それがあの子たちの勉強法なんです。」信子がそう説明すると頷く響子さん。ひたすらレッスンに打ち込んできた自分とはあまりにもかけ離れて、しかも自由で羨ましいとも思える響子さんだった。確かにいつかのヴァイオリンコンクールの控室がそうだった。美穂が初めて優太君の付添いをした時に殺伐とした皆の雰囲気が変わったことを思い出した。明るく、天真爛漫な姿に驚いた記憶が鮮やかによみがえってきた。

「そうよねえ。今の皆さん方は元々ピアノコンクールでのライバルの子たちばかりですものね。よくもまあ、皆さん仲良しになれたものだと感心しているんですよ。今私の伴奏をしてくれている遥香さんもそう。」

そう言っているとスタッフさんから「着替えてください。」との連絡が。

「あら、ごめんなさい。そろそろ私客席へ行きますね。」そう言う響子さんの目に飛び込んできたのは幼い加奈ちゃんの姿だった。

「えっ?あの子も出て演奏するのかしら?」

響子さんが観客席に行くと顔見知りのヴァイオリニスト、ピアニストの面々が今や遅しと開演を待っていた。皆さん一人一人にご挨拶をすると皆さん笑顔で返してくださった。ヴァイオリニストの皆さんは優太君と歌穂の実力を、ピアニストの皆さんは美穂の演奏を確かめに来ているようだった。

「プロの目が光るこの会場でどんな演奏を聴かせてくれるのだろうか。」そう思うと胸が高まる響子さんだった。

「先生!遅くなりました!通行規制で車が入れなくって。」そう言って響子さんの隣に座ったのは遥香さんだった。

「まあ!大変だったのね。でも、どうやってここまで来れたの?」何気なく尋ねる響子さん。

「はい。白バイとパトカーに先導して頂きました。」その遥香さんの答えに驚く響子さん。

「先導って?」理解できない響子さんに遥香さんが続けた。

「昨年、お世話になったんです。」あっけらかんとした遥香さんの返事に益々驚く響子さん。

「えっ!遥香さん!警察沙汰になったことがあるの?」その大きな声に周りの人たちが一斉にこちらの2人に目を向けた。

「やだ!違いますよ!補導されただけです!」慌てる遥香さんだったがさらにさらに響子さんを驚かせてしまう。

「いや!補導って?何?万引き?喫煙?」少し引いたように遥香さんをびっくり顔で見つめる響子さん。

「違いますよ!家出した中学生に間違われただけです!」思わず大きな声をあげる遥香さんに周囲は思わず笑い出してしまう。響子さんも思わず手を叩いて大笑いだ。

「はーい!そこ!」静かにしましょうねえ!」いつの間にか前説をする美穂にしっかり注意をされてしまった。

「ええーっ!美穂ちゃん!何やってるの?」驚く響子さん。まさかこんな大きな場でも何時も通りに前説や司会をするなんて。響子さんだけでなく他のプロの皆さん方もびっくりだったようだ。

美穂の前説から司会へと変わり、歌穂と加奈ちゃんの紹介が行われた。同じ制服姿で現れた2人に「かわいい!」の声が飛び交う。

美穂の曲紹介が終わると加奈ちゃんの独奏が始まる。

「きらきら星」。ヴァイオリン初心者が良く弾く曲だ。

「ええーっ!」澄んだ加奈ちゃんのヴァイオリンの音色に驚く会場内。まるでお手本のような沁み切った音色に思わず吸い寄せられるほどだ。

「何で!何でこんな演奏があんな小さな子に出来るの?」居合わせたヴァイオリニストの皆さんは驚きを隠せなかった。

『身体を動かしても体感がぶれないからだね。』冷静に分析をする響子さん。

加奈ちゃんの演奏は2番に入る。

突然始まる重音演奏と小節の切れ間のビブラート。

さらにはオクターブ演奏まで飛び出す。

余りの綺麗な音と高度な演奏法に唖然とするプロの皆さん方。皆さん驚きで開いた口が塞がらなかった。

さらに驚きは続く。2曲目は「花」で歌穂との2重奏を披露、そしてそのまま「愛の挨拶」へと弾き進めていく。会場の皆さんは驚くことしか出来なかった。

まさかの幼稚園児の演奏に圧倒されていた。

「素晴らしい!素晴らしすぎるわ!」真っ先に立ち上がって拍手を贈ったのは響子さんだった。それに続いてプロのヴァイオリニストの面々も立席しての拍手を惜しみなく送ってくださった。

満面の笑みでご挨拶をする2人。そして足取りも軽く加奈ちゃんは退場していく。

美穂のアナウンスにより歌穂が「カルメン幻想曲」を披露することが案内されると大きな割れんばかりの拍手が起こった。小中学生に大人気の小学生プロの登場に館内は熱気を帯びてきていた。

その気配に期待を高めるプロの皆さん方。小学生のプロヴァイオリニストと話だけは聞いていたが実際に演奏を聴くのは皆さん初めてだった。

美穂の力強い何時もの前奏が鳴り響く。

続いて歌穂のこれまた力強いヴァイオリンの音色が会場内に響く。

「嘘でしょ!これが小学生の弾く音色だなんて!」プロの皆さん方がお互いに顔を見合わせて驚く。

響子さんはじっと目を閉じて歌穂の「カルメン幻想曲」に聴き入っていた。

『光一君。君のお嬢さんはプロ中のプロだよ!』

そう思うと響子さんの目には光るものが溢れてくる。

『美穂ちゃん!全身全霊を掛けて演奏しているのね。相手は誰であれ美穂ちゃんの演奏で答えようとしているのね!』同じピアニストである遥香さんは美穂の気持ちを流れてくるピアノの音色を全身で感じ取っていた。

「さすが音大ピアノコンクールの絶対王者だな!」プロのピアニストさんたちも美穂の演奏に大いに感激をしていた。

ステージ上でのヴァイオリンとピアノの見事な融合に居合わせた皆は飲み込まれ、酔わされるしかなかった。歌穂の高度な演奏テクニックはヴァイオリニストだけでなくピアニストの方々の心を掴んでいった。

『この子と演奏してみたいなあ!』居合わせたプロの面々は美穂と歌穂の演奏と自分の演奏を想像しながらそう強く思っていた。

劇的なラストで美穂と歌穂の「カルメン幻想曲」は幕を閉じた。

ほぼ全員が立ち上がり大きな拍手と声援が飛んだ。

美穂と歌穂はステージ中央で抱き合ってお互いの演奏をたたえ合い、手を繋いで会場の皆さんに深く一礼をしてご挨拶をする。

退場する2人と入場する2人が途中でハイタッチを交わす。これに再び会場が湧く。

優太君がステージ中央に立つと黄色い声援が、里穂がピアノの前に立つと野太い声援が飛び交う。

ヴァイオリン界の貴公子とサッカー少女アイドルの登場に会場の盛り上がりはピークに近かった。

それを鎮めるように落ち着いた美穂のアナウンスが流れる。

「続きましては優太、里穂のコンビで『チゴイネルワイゼン』をお送りします。それではどうぞ。」

プロのピアニストさんたちはサッカー少女アイドル里穂のピアノ演奏も楽しみにしていた。抜群の歌唱力、抜群の運動神経、これにピアノ演奏が加わればまさにスーパーアイドルと言える。そしてお相手はヴァイオリン界の貴公子優太君だ。

「これはまた華になるわねえ!」そう言って色めき立つ女性ヴァイオリニストとピアニストさんたち。それを横目で見ながら響子さんと遥香さんは気が気ではなかった。優太君と里穂のコンビは即席に近い。それを2人は心配していたのだった。

里穂の力強いピアノが鳴り響いた。

一瞬で会場内は静かになった。

そこへ優太君のヴァイオリンが第一声を上げる。特徴的な始まりの楽章だ。見事な立ち上がりで楽曲を演奏していく優太君と里穂。時折、笑顔で視線を合わせながら間を合わせていく。その度に「きゃっ!」と悲鳴を上げる女性ファンたち。男性ファンも「うっ!」と嫉妬に近い声をあげてしまう。

「さすが、音大オーケストラの客員ヴァイオリニストの貫禄ね!」思わず響子さんが口にする。

圧巻の第3部の高速演奏は見事過ぎる演奏ぶりだった。里穂の高速演奏とのマッチングも見事だった。

怒涛の内に終了すると小さな影がステージ脇から飛び出してきた。加奈ちゃんだ!余りの熱演に感動して飛び出してしまったのだ。それに続いて歌穂と美穂も。

優太君は両手を広げて加奈ちゃんを受け入れて抱き締めた。それに3人が外側から抱き付いていく。

5人で熱演をたたえ合う姿に会場から割れんばかりの拍手が起こっていた。

「信子さんの言う通りだわ!誰が勝った負けたではないのね。この子たちには勝ち負けなど無いんだわ。そしてこの子にも!」そう言って思わず遥香さんを抱きしめる響子さん。

「やだ!先生!どうされたんですか!」驚く遥香さんに響子さんは言った。

「ずっと私と一緒にピアノを弾いて頂戴ね。」

夜は高原ホテルで響子さんと遥香さんを迎えてのちょっとしたパーティーが催された。

本館最上階のスカイラウンジでのパーティーで主催は信子で招待客は響子さんとマネージャーさんだ。

小学生と幼稚園児は19時までとされたものの皆演奏時の制服のまま大人の世界を探検していた。

運ばれていくカラフルなカクテルを目で追う歌穂と加奈ちゃん。お酒と聞いてびっくり顔をする姿が愛らしかった。バーテンダーさんの振るシェーカーが気になって仕方がない美穂と里穂はカウンターの背の高い丸椅子によじ登るようにして座り目まぐるしく動くシェーカーを飽きることもなく見つめていた。そして棚に置かれた様々なリキュールを眺めていた。

そんな興味津々な2人の前でいつもより多めにシェーカーを振るバーテンダーさん。にっこりと笑ってオレンジジュースを作ってくれた。お礼を言って2人でオレンジジュースを頂いていると歌穂と加奈ちゃんが2人の姉を誘いにやって来た。が、2人が飲んでいるオレンジジュースを見て自分たちも欲しいと隣の椅子によじ登ってオーダーをする。結局4人横並びでオレンジジュースを頂くことに。搾りたてのオレンジジュースはとても瑞々しく4人は本物のオレンジジュースを思い切り堪能出来た。

バーテンダーさんにお礼を言ってお料理のバイキングコーナーへ。丁度中華料理が運ばれてきてそれぞれの料理の良い匂いが4人の娘たちの食欲を刺激する。

4人で取り皿を持って料理のコーナーを何度も回る。

酢豚やホイコーロー、春巻き、シューマイ、餃子とお馴染みのものに交じって小さな肉まんの様なものを発見する。「ショーロンポウって言うんだよ。」

傍に居た若い男性に教えてもらい皆で1個ずつ取り皿に並べた。美穂は卵ときくらげの炒め物をたっぷりと取り皿に盛り付けて得意げだ。そして窓際のテーブル席でお料理を頂く。皆、最初に頂いたのは小籠包だ。中から美味しさが詰まったスープが飛び出してくる。「熱い!でも美味しい!」そう言いながらふうふうと小籠包に食らいつく。「美味しいね。」大満足の4人だった。ふと信子たちのテーブルに目を遣ると大人たちは和やかに談笑して笑っていた。特に同じマネージャー同士である伊藤さんと響子さんのマネージャーさんは意気投合して楽しそうに見えた。

中華料理のデザートと言えば杏仁豆腐だ。滑らかな舌触りとほのかな甘さが後を引く。3人の姉たちが何度もお替りをする中、加奈ちゃんはとんでもないものに目覚めていた。それはゴマ団子だった。余の美味しさに2個3個と平らげる加奈ちゃん。

「加奈ちゃん!お腹壊すよ!」美穂が声を荒げて止める程だった。しかし、加奈ちゃんは美穂に叱られたことがとても嬉しかった様でじっと美穂を見つめて微笑んでいた。本気で叱ってくれる美穂を本当の姉だと思っているようだった。

伊藤さんにロッジまで送って貰う4人の小学生と幼稚園児1人。戸締りをしっかりしてから練習タイムだ。

歌穂は加奈ちゃんに指使いをレクチャーする。

今回でコンクールを卒業する美穂と優太君。音大付属中学へ入学する予定だからだ。送り出す曲は「トルコ行進曲」だ。これは遥香さんが音大へ進学する際に美穂が檄奏したのが始まりだった。今度はそれを里穂が務める。問題は優太君だ。歌穂がプロとなったためコンクールには出られない。加奈ちゃんしかいないのだが、さすがに加奈ちゃんといえども「トルコ行進曲」をヴァイオリンで弾くのは難しいと思われた。

エアーで指の動かし方を伝授する歌穂。それに食らいつく様に練習に励む加奈ちゃん。音がないだけに他の者たちには何を練習しているのかは全く分からなかった。

美穂と里穂は電子ピアノで練習をしていた。ヘッドホンをしているため音は漏れない。ロッジには優太君の弾くヴァイオリンの音だけが流れていた。

そんな中、大人の皆さんが帰ってきた。本館で部屋を取っている伊藤さんを見送るとロッジの中へ。優太君のヴァイオリンの調べの中で、音もなく電子ピアノを弾く美穂と里穂。後ろからそっと近づく遥香さん。そんな様子を歌穂と加奈ちゃんが、くすくすと笑って見つめていた。

「わあ!」美穂と里穂の驚いた声が上がる。

「もう!誰かと思えば遥香お姉ちゃん!」そう言いながら遥香さんに抱き着く2人。遥香さんもにこにこ顔で迎え入れる。

暫らくじゃれ合った後、今度は歌穂と加奈ちゃんの元へ。少し緊張気味の加奈ちゃん。保育園で歌を歌ってくれていた遥香お姉さんが目の前にいるからだ。

「初めまして。加奈です。歌穂お姉さんにヴァイオリンを習っています。」少しはにかみながらきちんと挨拶をする幼稚園児に遥香さんも「初めまして!遥香です。ピアノを弾いています。」と元気にご挨拶を返す遥香さん。

「えっ?音大生の挨拶ってそれだけ?」と里穂にからかわれて大笑いする遥香さん。釣られて皆大笑いだ。

「それにしても加奈ちゃんのヴァイオリンの音は綺麗だよね。しかも重音やオクターブ(演奏)まで披露するなんて。」そう言って褒めてくれる遥香さんをますます好きになってしまう加奈ちゃんだった。


翌朝はテレビで昨日のリサイタルの話題が取り上げられていた。小学生のトップピアニストたちとヴァイオリニストと言う話題で持ちきりだった。その中でスーパー幼稚園児ヴァイオリニストとして紹介されたのが加奈ちゃんだった。自分の事がテレビで放送されていることに不思議な感覚になっている加奈ちゃん。

「加奈ちゃん!良かったね!皆が褒めてくれているよ!」4人の姉と1人の兄に褒められてとても嬉しそうな加奈ちゃん。歌穂も嬉しそうに加奈ちゃんを見つめていた。

本館の朝温泉でもお客さんの話題は見事な演奏を披露した幼稚園児加奈ちゃんの話題で持ちきりだった。

しかし、知らないふりをしてお風呂を楽しんだ。元々普段は普通の小学生と幼稚園児だ。特にお風呂では誰も気づく人はいなかった。

朝温泉を楽しんだ後は朝食バイキングだ。何時もの光景が繰り広げられ、それに輪を掛けたのが遥香さんだった。

「もう、本当に大学生かしら?」と2人のママが笑ってしまう程の無邪気さだ。

響子さんとマネージャーさん、そして伊藤さんも合流して益々賑やかになる。

期せずして話題は秋のコンクールの話になった。

美穂と優太君は音大付属中学へ進学するためコンクールは卒業となる。残るは里穂だが、里穂も9月のデビューが控えており今後のスケジュールは分からないのだ。

「信子さん、ピアノコンクール、寂しくなるわね。」

響子さんがぽつりと言った。

「いいえ、響子さん。うちにはもう2人妹がいますよ。」そう言って微笑む信子と優太ママ。

「えっ?それって・・・。」美穂が驚いて声高に喋る。

「そう、歌穂と加奈ちゃんよ。」信子の衝撃的な言葉に一同大きな声で「えええーっ!」と驚きの声をあげる。レストランのお客さんたちが一斉に何事かと視線を向けた。

「だって、2人はヴァイオリンが・・・。」里穂が信じられない様子で信子に尋ねる。

「こっそり2人に教えていたんだけど、2人とも結構上手なのよ。ねえ、歌穂、加奈ちゃん。」

「ちょっと待って。と言うことは、歌穂ちゃんと加奈ちゃんはそれぞれ相手のピアノ伴奏が出来るってことよね。そうか!中学生になると美穂ちゃんは優太君の伴奏に専念できるってことね。でも、結婚式場のお仕事は美穂ちゃんと歌穂ちゃんだし、加奈ちゃんは歌穂ちゃんに、歌穂ちゃんは加奈ちゃんにそれぞれ伴奏して貰うという・・・ことよね?」響子さんも少し混乱していた。

「でも、私たち、まだレパートリーが殆どないから課題曲と自由曲の2曲で精一杯なの。」歌穂と加奈ちゃんは寂しそうに話してくれた。

「大丈夫だよ。私と里穂が「チゴイネルワイゼン」と「カルメン幻想曲」を教えてあげるから。」美穂にそう言われて「ハードルが高過ぎだよおーっ!」と2人の悲鳴にも近い声が。それに皆大笑いだった。


合宿最終日の金曜日。何時も通りにリスくんたちに落花生をあげてバイバイと手を振る5人姉妹。

最後の朝温泉に向かう。明日からはまた忙しい毎日が始まる。翌土曜日と日曜日は美穂と歌穂は結婚式場の仕事が、里穂は歌唱とダンスのレッスン、遥香さんは響子さんのリサイタルの伴奏と仕事が控えていた。

そのため、加奈ちゃんは自宅でご両親とゆっくり過ごすことになった。何時もの様に朝食バイキングを済ませると皆で高原霊園へ。暫くのお別れのご挨拶をするためだ。その後は最後のリサイタルのために町営ホールへ向かう。最終公演と言うことで春子さん、小春さんも来てくださるという。

リハーサルが終わるとお昼ご飯の時間だ。展望食堂の個室でそれぞれ好きな定食を頂く。

歌穂と加奈ちゃんはエビフライ定食、美穂と里穂は焼肉定食、優太君は2人のママと同じ海鮮丼をそれぞれ堪能した。最後の演奏に向けての腹ごしらえだ。

業務用エレベーターで控室へ戻る。ヴァイオリンたちとお留守番をしてくれていた伊藤さんにお昼ご飯に行ってもらい全員でヴァイオリンの手入れをする。

「加奈ちゃん、お給料が入ったらヴァイオリンを買ってあげる!」歌穂に言われて大喜びの加奈ちゃん。今使っている“エチュード”では皆と微妙に音が揃わないからだ。雑談をしている間に伊藤さんが食事から戻って来た。全員で着替えにかかる。

大入り満員が5日間続きリサイタルは大盛況に終わることとなった。マスコミの取材も多く、入り口では響子さんと遥香さんが取材を受けていた。関心は加奈ちゃんの演奏技術についてが殆どだった。「皆さんがおっしゃる通り“スーパー幼稚園児”ですよね。」とにこやかに答える響子さんの横で頷く遥香さん。

また、観客の中には高原高校の面々の姿も見受けられた。

こうして最後のリサイタルも無事に千秋楽を終えた。

春子さんと小春さん、そして桜さんを始めとする高原高校の音楽部の皆さん方に見送られてマイクロバスは高原町を離れた。


早朝にわが家に着くと一斉に窓を開け空気の入れ替えを行う。皆車中でぐっすり寝ていたため元気いっぱいだ。伊藤さんにはぐっすりと睡眠をとっていただくために2階の和室を用意した。

荷物を運び終わると掃除係と洗濯係、食事係と別れて一斉に行動を開始する。

手分けをする事と皆の機敏な動作であっという間に作業は完了、途中で仕入れたハンバーガショップのモーニングセットを各自頂く。今日明日の打ち合わせに余念のない皆を少し羨ましそうに見つめる加奈ちゃん。「加奈ちゃん、電子ピアノを持っていきなよ。」そう言って話しかける歌穂。これから明日日曜日に掛けて全員が出かけるため加奈ちゃんは自宅で両親とゆっくり過ごすことになるのだ。ピアノコンクールにもエントリーしている加奈ちゃんのピアノの練習にも熱がこもる。


夏休みの後半はCM撮影やポスター撮り、特に歌穂は“エチュードジュニア”の最終会議に出席し9月1日の発売の準備に備えてのCM撮影も控えていた。

そんな折、芸能事務所の副社長さんから信子に直々に電話があった。それは、加奈ちゃんを女児向け玩具のCM出演のオーディションを受けてみないかという内容だった。里穂に続いて加奈ちゃんもオーディションを受けるためのレッスンに通うこととなった。

この時点で改めて加奈ちゃんは“セブンミュージッㇰ”の正社員となった。とはいえ、何時もと変わらず元気な加奈ちゃんと3姉妹であった。


加奈ちゃんのオーディション当日、加奈ちゃんと母親は若菜さん運転の車で玩具メーカーへ向かった。

受付の付近には様々な玩具が飾られたショーケースが並び、それらに心を奪われる加奈ちゃん。どうやら幼いながらもモチベーションが上がって行ったようだ。控室で大勢の参加者たちと椅子に座って順番を待つ。順番が来ると若菜さんは純白のヴァイオリンケースを加奈ちゃんに背負わせた。「加奈ちゃん、特技はヴァイオリンだよ。」そう言い聞かせるように親子を見送る若菜さん。今日参加しているのは大小の、子役たちが所属するプロダクションの子供たちばかりだ。

『演技力では見劣りするかもしれない。でも、加奈ちゃんにはヴァイオリンがある!』若菜さんは目を瞑ってじっと加奈ちゃん親子が部屋から出てくるのを待っていた。

審査会場でははきはきと自己紹介が出来た加奈ちゃん。「特技は?何がお上手に出来るのかな?」と尋ねられて「はい!ヴァイオリンです!」と言いながら背負っていた純白のヴァイオリンケースを降ろし、中から“エチュード”を取り出して「弾いてもよろしいですか?」と審査員の面々に了解を求めた。幼稚園児の見事な受け答えに感心する審査員の面々と母親。いつの間にか逞しく成長している娘に驚きと感動を覚える母親だった。

加奈ちゃんがヴァイオリンを構えると審査員の皆さんの顔が真剣実を帯びる。

そんな中で流れるのはリサイタルでも演奏した「花」だった。澄み切った幼稚園児らしからぬヴァイオリンの音色に驚き心奪われる審査員の皆さん方。お互いに顔を見つめ合いながらしきりに用紙に何かを記入していく。だれも「ストップ!」をかけない。その為加奈ちゃんは2番の演奏に入る。

「えっ?」審査員たちの顔色が変わった。

加奈ちゃんが重音演奏を始めたからだ。澄んだ和音が加奈ちゃんのヴァイオリンから放出される。

「おおっ!す、素晴らしい!」審査員の皆さんは皆笑顔でお互いを見合って頷いていた。

見事な演奏を終え、一礼する加奈ちゃんに審査員の皆さん全員が温かい拍手をくださった。

「ありがとうございます。」はにかみながらにっこりと笑顔を見せる加奈ちゃんにもう何も言うことは無い審査員の皆さんたちだった。

「最後に、お芝居を見せてください。帰って来たお父さんがお土産に可愛らしいぬいぐるみを買って来てくれました。それを渡されたらどうしますか?」

「わあーっ!パパありがとう!加奈、ずっとこの子と仲良しで居るよ!」そう言ってギュッと抱き締める演技を見せる加奈ちゃん。何時もそうやって姉たちに抱き締められているので自然と出た演技だった。

部屋を出てきた加奈ちゃんに「どうだった?」と尋ねる若菜さん。「いつも皆といる時と変わらなかったよ。」と無邪気に話す加奈ちゃんだった。


夏休み最終日の31日。優太君と3人娘は夏休みの宿題に追われていた。“夏休みの友”は早く終わったのだが自由研究に頭を悩ませていた。

美穂がふと加奈ちゃんを見ると一生懸命絵をかいていた。「あっ!」何かを閃いた美穂はスケッチブックを取りに2階の自分の部屋へ駆け上がっていく。里穂と歌穂はそんな美穂を唖然として見送っていた。

「そうだ!私も!」今度は里穂が2階へ駆け上がって行った。

「いいなあ。お姉ちゃんたちは・・・。」そう言って頬杖を突く歌穂。そう思いながら夏休み中の出来事を思い起こす。『そうだ!お父さんを想って演奏したあの時の気持ちを・・・。』

そう思うともう指が動いていた。ノートに詩を書き留めていく歌穂。それをダイニングから遠目に眺める2人のママ。「うふふ。皆、それぞれ思い付いたみたいね。」


2学期が始まった。何時も通り子供たちを学校まで送り届ける信子。その足で優太ママを迎えに行く。今日は芸能事務所との打ち合わせを行なう。9月の予定の擦り合わせを行うと同時にマネジメント料の支払いも確定させなければならない。お客様である楽器メーカーさんからはCMの出演料や歌穂の顧問報酬が振り込まれてくる。また同様に、里穂のキャンペーンガールの契約金と報酬、美穂と歌穂の結婚式場での演奏料も入金される。月末に入金されたことを確認するために銀行にも行かなければならない。支払いは給与を含めてすべて10日で纏めて行っている。請求書の確認と振り込みの準備など、結構事務的な仕事も多かった。特に8月は夏休みだったこともあり皆の仕事量が半端なく多かった。8月もだが9月のお給料は1年を通して最も高額になるであろうと思われた。


9月のお給料日の数日後、この日は奇跡的に美穂と歌穂はオフだった。そこで3人で加奈ちゃんのヴァイオリンを買いに行くことにした。

伊藤さんの運転でヴァイオリン専門店へ向かう。

駐車場から少し歩くのだが、意外なことに街ゆく人達は3人の存在に気が付いていない。

店内に入って2階へ。優太君のヴァイオリンを購入してからもうだいぶ経つ。店内には様々なヴァイオリンたちが並んでいる。ヴァイオリンだらけの世界に目を丸くして驚く加奈ちゃん。しばらく見て回っていると香織さんがすうーっと3人の傍へ。

「いらっしゃいませ。お久しぶりです。」にこやかに挨拶をしてくれる香織さんに歌穂と加奈ちゃんを紹介する。もう香織さんの耳には2人の情報はばっちり入っているようだ。加奈ちゃん用に次々にヴァイオリンたちを紹介し、そして実演させて頂けた。どのヴァイオリンも澄んだ音を響かせてくれる。これは!と思ったものをキープしていく。そのキープは5台にも上った。1挺ずつ「きらきら星」を弾いて音を確かめてみる。5挺から4挺へ、4挺から3挺へと絞り込んでいく。すると澄み切った「きらきら星」の音色に釣られるように人がどんどん2階に上がってきた。そして品定めをしている3人を遠巻きにして見守るように距離を置いて集まって来た。慌てた他の店員さんたちが交通整理に乗り出す。最後の2挺は歌穂も加わっての「きらきら星」の大演奏会となった。息を飲んで見守る観客たちを尻目に3人で意見を出し合う。

やっと決まった!と思ったら浮かない顔をする歌穂と加奈ちゃん。予算は20万円だったのだが、最後に選んだものはなんと30万円だったからだ。

「うん、任せて!」美穂はそう言ってクレジットカードを財布から取り出した。信子から貸与されている会社の法人カードだ。驚く2人、だけではなかった。集まった皆さんたちからも驚嘆の声が上がる。そしてその声で大勢の人が集まっていることを知る3人。

買い物を終えて店内を移動すると人混みがさっと道を開ける。皆さんが協力してくださっているのだ。そんな中、伊藤さんを先頭に小学生と真新しいヴァイオリンケースを背負った幼稚園児の女の子たちが歩いて行く様は不思議な感覚に陥るしかなかった。


9月に入って早もう中旬、コンクールを控えて皆の練習は熱を帯びてきた。皆それぞれレッスン室にて心行くまで練習に励んでいた。特に美穂と優太君は音大附属中学への推薦入試の条件をクリアしているためよほど学科試験での成績が低調でない限りは問題なく入学出来るようだ。

送り出す側は里穂を筆頭に歌穂、加奈ちゃんがピアノ部門に出場するのだが、ヴァイオリン部門は歌穂がプロ転向のため出場出来ず、加奈ちゃんだけとなってしまうのだった。当の優太君はさほど気にもしていないようで、ヴァイオリン歴6ヶ月の加奈ちゃんの演奏を楽しみにしていた。そんな加奈ちゃんは歌穂と一緒にピアノの特訓を信子に受けていた。


そんな折、芸能プロ副社長から直々に信子宛に電話が入った。何と!加奈ちゃんのCM出演が決まったということだった。大喜びの4姉妹と優太君。皆からハグされて嬉しさを爆発させる加奈ちゃん。さっそくお母さんにその旨を伝える信子。お母さんも大きな声をあげて大喜びだ。今宵は祝賀パーティーとなった。さっそく信子と優太ママがパーティーの買い出しへ向かう。子供たちはそれぞれ練習に励む。

その頃、音大の事務局ではちょっとした騒ぎになっていた。それは、前回のピアノコンクールの上位入賞者が皆「トルコ行進曲」を自由曲に選んでいるからだ。

「何故皆『トルコ行進曲』なのかしら?」事務局のお姉さんたちはしきりに首を傾げていた。

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ああ!昭和は遠くなりにけり!! 第15巻 @dontaku

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