毒の終わりとハッピーエンド
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人間戦争に安らぎを与へ賜へ
錆びた舟が空を征く。死体を落としに戦地へ向かう。
死体には呪いが詰まっている。現実的な呪いが詰まっている。人形の綿と人間の腸にどれだけの違いがあるのか、血濡れた戦争はそれすら隠してしまっていた。
現実的な呪いの正体を明かすならば、それは致死性の高いウイルスを指した。
古い戦争では、天然痘患者の用いた布類を敵陣に投げ込んだり、黒死病の末に死んだ遺体を投げ込んだりした。そんな残酷な戦法と全く同じ考えで、舟は敵陣に死体を落としに行く。
死体はその重量を以て落下し、高高度から戦地に叩き付けられる。残酷は乗算される。残酷は決して加法に甘んじない。死体の衝撃は新たな犠牲を生み出し、迷えるを生者へと新たに呪いを媒介する。そしてその有様を見た戦地に住まう人々は精神に大きな傷を負う。
その呪いが死体の風体を容赦なく抉ったからだ。呪いに死んだ身体は、従来の色を忘れ赤紫に腫れあがり、血は重厚な粘度を以て、肌から血管の形のままで突き出る。
戦地の人々は想うのだ。こうは、死にたくはない。
落下用の死体にエンバーミングは施されない。何せ触れたらダメだから。何がダメって死んでしまうから。
『戦争に際してエンバーミングの技術を持つ葬儀屋の需要は、果たして上がっただろうか?』
問いに、彼らは答えを出せなかった。
──彼らとは、【開典】と呼称される舟に乗り込んだ二人の男を指す。
亜蘭と卦敏は空を征く。
頑丈なスーツを着込み、マスクを被り、死体を落としに戦地の遥か上空へ。
初めは二人して出撃の回数を数えていたが、今ではもう、数などというたかが条件は、最早どうでもよくなっていた。如何に早く仕事を終わらせるか、どれだけ効率よくノルマをこなすか、歩を支えるのは帰島後の夕飯とわずかな酒。
二人は仕事に慣れた。
操縦席の背後に無数に詰まれた死体袋にも、最早慣れてしまっていた。
亜蘭と卦敏は仲が良かった。しかしそれは、友好関係と名付けるほどの輝かしいものではなくって、他者から忌避される仕事を請け負わざるを得なかった悲哀から成るものだった。
ウイルスは死体を媒介に、生者へと感染してゆく。正式な名称は長ったらしく忘れてしまったので、二人はウイルスを【呪い】と称した。そうすれば、死体を投棄する自分たちの行いを鑑みる時、何処かヒロイックな気持ちになれた。
自らの行いが、どれだけの成果を挙げているのか? 彼らは一切確認しなかった。答えを聞いても空しいだけだ。
死体はヒトなのか、物体なのか? 彼らはお互いに確認し合わなかった。答えは聞くまでもなく、心に根差していた。
しかし、一人の人間の決意とか心とかに左右されるほど、争いというものが小奇麗で子供っぽいものではないことを、彼らは翔ぶ度に思い知るのだった。
──────────・・・
その日、戦地は曇っていた。雨や雷の心配は無さそうだが、気分の良い物ではない。操縦桿を握る卦敏の手のひらは、じんわりと手汗に湿っていた。
その日は運命的な日であった。誰も、彼も自覚はしなかったが、全員の心臓がいつもよりワンテンポ早かった。それは熱病でもなく、興奮でもない。ただ、言うなれば天命を謀る天秤があらぬ方向へと傾いていたのだ。
操縦を担当する卦敏に対して、亜蘭の職務はのんびりとしたものだった。亜蘭は卦敏の後輩に当たる立場であり、今は仕事を見て覚える為にと、上官に使命されて隣の席に座っている。基本、亜蘭は何をするでもなく、隠れたマスクの下で大きな欠伸をしながら、空の行軍を旅のように捉えて、雲の形でしりとりをしていた。
だが先述したように、この日は運命的な一日であった。
本来ロクに動かない亜蘭の心臓も、この日ばかりは速かった。それは起きた瞬間から、彼の中で拍動する謎の衝動だった。彼は首を捻りながらも顔を洗い、歯を磨き、朝食を摂り──平常な日々の内の一回として、それを処理しようと試みたわけだが、スーツを着込み、マスクを被ってなお、その拍動が冷めないことに、驚きつつも苛立っていた。
出撃から三時間が経って、亜蘭は唐突に立ち上がった。
「積み荷の様子を見てきます」
言った亜蘭に、卦敏は若干の驚きを覚えたが、しかし容認した。卦敏もまた、早鐘打つ心臓に苛立って、隣で怠ける後輩に無自覚の威嚇をしてしまっていたためである。
戦地の真上で仲違いなど御免である。
亜蘭は卦敏の首肯を受けて、死体袋の山に近づいて行った。
ビリジアンの死体袋は整頓された状態で並んでいる。
横に二十体、縦に五体を並べて、それを三回分積み重ねているわけだから、全三百体の死体があった。
亜蘭は望郷する。この死体のうち、何体が【マザー】による感染体なのだろう、と。
【マザー】とは、世界で初めて、呪いで死んだ女の子のことである。
亜蘭と卦敏の祖国で、この呪いが発生したのは、戦争が始まってから二ヶ月が経ってのことだった。一人の少女が呪いに感染し、亡くなった。
未知のウイルスということで、少女の遺体はすぐに政府直轄の研究施設へと輸送され、研究され──その遺体は、今では【マザー】と呼ばれ、貧困に喘ぐ我が国の持てる重要な兵器工場となった。
国中の死体は、一度研究所へと移送され、マザーの納められた大聖棺へと投入される。そして変色による感染が認められたものから出荷され、舟による投下作戦の積み荷になる。
『何故国が、感染を制御出来ているのか?』
『何故他国は制御出来ないのか?』
誰にも答えは出せなかった。老人とテレビは、我が国は聖なる神の御力によって支えられているからだ、と頻りに喧伝するし、それに反抗するものは新たに積み荷になるわけだから、そういうことなのだろう。
そういうことなのだ。畢竟、誰にも分からない。
いつウイルスが変異するか分からない。いつ、このマスクをすり抜けて亜蘭を永遠の孤独へと突き落とすか、分からない。
けれども生き残る術は唯一つ、この手以外に在り得ない。
亜蘭は死体の山の前に膝を突いて十字を切った。見様見真似で座禅を組み、遠くの神に祈った。とにかく、自分の知る世界中の神に感謝を述べた。何か意図があったわけではない。ただ、今の安定が如何に脆い土台の上で成り立っているのか改めて考え直した結果、誰かに謝意を述べねばなるまいと思っていた。そしてその想いの先は祖国ではないと、やわらかくも確信していた。
プロペラの激しい音を忘れるほどに祈って、彼は戦争が始まってから、初めて静寂な心地になれた。
彼は約十五分の感謝を終えると、泣きたくなる心地を抑え付け、立ち上がり踵を返した。
その瞬間のことだった。固い肉を噛むような音がして、彼の心臓は痛いほどに速くなる。
異常は心臓だけに留まらない。胃が縮み、腸が震えあがり、際限なく頭痛が増幅してゆく。自重を支えられなくなった亜蘭は座り込み、床に手を突いた。此処に床がある、自分は此処にいると何度も唱えた。己という矮小な一瞬が、人類史からノミのように潰されて排斥されるような、例えようも無い大いなる悪妄想が脳裏に雷土として顕現し、道理に沿った思考を貫いて黒焦げに臥してゆく。
彼は何かに縋りたいと願った。しかし、その対象は神ではなかった。先ほどまで世界中の神に祈っていた男が、何故かそれよりもずっと近い者に縋りたくて仕方が無くなった。彼は這いずって死体の山を目指す。自分が何をしているのかまるで不明だが、彼は死体の山の──真ん中の袋を目指した。他のどれでも無く、その袋のみを目指した。何故か? 誰にも分からない。呪いに惹かれたとしか言いようのない彼の行動を諫める者はいなかった。死者は語らない。言葉も、想いも。秘めていたすべてを放たない。
だから彼が、その袋の元へと到着し、嘔吐と下水の幻聴を頭蓋にて反響させ続けながら、あまりにも貧相な棺蓋──建付けの悪いチャック──を開け放った時、
彼は絶叫し、約一秒間の気絶と、その後の覚醒を経て、戦争の終わりを悟った。
死体袋の中の女の子。原型を保った死体。真っ白で貧相な身体。剃られた髪。見開かれた瞳。縫合跡がやたらめったらに全身を刺していた。
亜蘭が【マザー】を発見した刹那、頭上の天使が終末の喇叭を吹いた。
毒の終わりとハッピーエンド 固定標識 @Oyafuco
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