第39話 特別な、なんでもない日

 それは河津桜が咲く頃。


「翔吾、何それ…。全然駄目、悪い人みたい。」

「…っせぇな。」


 いつものバイト先へ、形だけの面接に向かう翔吾は、苦労して結んだネクタイをだらっと緩めてしまっている。

 購入した時は世界一カッコよかったスーツは、すっかり着崩されてしまっていた。


「駄目だよそんなんじゃ。子どもに泣かれるよ。」


 夕月は笑いながら、緩んだネクタイを締めなおした。

 翔吾は窮屈そうな顔をしながら、されるがままになっている。


「はい、出来たよ。…ちょっとかっこいい顔してみてよ。」

「しねぇって!」


 玄関でじゃれあっていると、不意に翔吾が真剣な目をした。


「夕月。今日、ここに帰って来ていい?」


 夕月はきょとんと首を傾げた。


「いつも勝手に帰ってくるじゃん。」

「そうじゃなくて、明日も、明後日も、引越しても、ずっと夕月のいるとこに帰っていい?俺、金も、家族も……、何にも確かな事言ってやれねぇし、今までも迷惑ばっかりかけたけど。でも、この先一生、夕月の隣にいたい。」


 この先、一生。


 それは、今夜の予定の確認ではない、もっとずっと大切な約束だった。

 さあっと全身に血が巡るのがわかった。

 言葉が出なくて、でも、言いたかった。


「……帰ってきて。ちゃんと、私のとこに。今のままの翔吾が良い。一緒に生きよう。」


 翔吾は嬉しそうに笑って夕月を抱きしめた。


「今度さ、親父にも会いに行こうと思うんだ。ずっと会ってなかったけど、夕月の事、紹介したい。今度は一緒に行ってくれる?」


 翔吾を見上げると、滲んだ視界の中で、その目元が赤くなっているのが見えた。


「翔吾、かっこいい顔、しないんじゃなかったの。」




「ちょっと、なんでスーツなの?」

 ある日の夕方、大学に書類の提出の為に出かけた夕月を呼び出すと、用を済ませた夕月が目を丸くして駆け寄ってきた。


「前に約束したろ、スーツでデートしてやるって。」

「覚えてたの? 冗談だと思ってた。」

「まぁな。少し歩こうぜ。」


 パンツのポケットに突っ込んでいた右手を差し出すと、頬を染めた夕月がぴょんと飛びつくように掴んだ。


「今日はちゃんとカッコ良く着てるじゃん。」

「特別感あるだろ。」


 内ポケットの小さな箱が、「特別」の言葉に震えた気がした。

 公園の河津桜はもう満開を通り過ぎて、そよ風に花びらを舞わせている。


「わあ、花吹雪だ。」


 夕月が足を止めて葉っぱに見え隠れする桜を見上げた。

 マジックアワーの薄青い空に花の濃いピンクだけが発光した様に浮かび上がっている。


「寒くないか。」

「うん。」


 平気、と夕月は笑ったが、その身体を引き寄せて後ろから抱え込んだ。


「俺寒いわ。」

「もう行こっか。」

「いいよ、まだ見てても。」

「ううん、ちょっとお腹空いた。また明日も、来年も見れるし。」


 腕から抜け出した体温を名残惜しく感じながら、また歩き出す。

 桜と反対の藍色の空には半分程に膨らんだ月が浮かんでいた。


 足を止めたのは、以前夕月がチーズケーキが美味しいと言っていた小さな喫茶店。

 中途半端な時間の店内には他に客がおらず、落ち着いた音楽が流れていた。

 腹が減ったと誤魔化した夕月に合わせて軽食を摂った。


「ケーキは?」

「どうしよ。ここの、おいしいんだよね……、半分、食べる?」

「それで良いから、好きなの選べよ。」


 ケーキとコーヒーが来るまでの時間に、切り出した。


「……あのさ。今日ちょっと、渡したいもんがあって。」


 内ポケットから小さな箱を取り出すと、夕月が息を呑んだのがわかった。

 蓋を開けると、白い真珠と、その上で小さく光るダイヤが灯りを返した。


「……きれい。ネックレス?」

「夕月に似合うと思って。派手じゃねぇし、毎日つけられる。」


 夕月がそっと指先で触れる。


「これ、……翔吾が?」

「本当は、ずっと前に用意してたんだけど。この間は、どうしても今言わないとと思っちまって……。だからもう一回ちゃんと言うよ。」

 

 一度息を吸う。


「夕月。卒業したら、結婚しよう。」


 夕月は目を瞬かせ、それからゆっくり笑った。

「……うん。よろしくお願いします」


 夕月は箱の中の真珠にそっと触れた。


「つけてみてもいい?」

「ああ。……俺やろうか。」


 はにかんだ夕月の背中に周り、繊細なチェーンを首に回す。

 指先がうなじに触れた瞬間、夕月の肩がわずかに揺れた。

 髪をそっと流すと、鎖骨の間に満月のような真珠が浮かび上がる。

 柔らかな光沢が、夕月の肌の色と溶け合って、思った以上に似合っていた。


「……どう?」

「似合う。……すげぇ似合う。着けてくれて嬉しい。」


 夕月がネックレスのトップに触れて、照れたように笑った。


「これ、なんでもない日もつけていい? ていうか今日も普段着なんだけど」

「当たり前だろ。なんでもない日が一番特別なんだよ。」


 毎日手を取って、汚れたら拭う。

 そんな日々が1番大切で幸せだと、もうとっくに知っていた。


 ──俺が、一生傍にいる。例え何があっても「不幸」だとは思わせないように。

 

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