2章
第8話 かわいいワンちゃん
夕月がスーパーの袋を片手に、冷蔵庫の扉を開けた瞬間、部屋の空気が僅かに変わった。
そこにあるべきものが失われていた。
「……翔吾。」
定位置になったラグにいた恋人は、テレビのリモコンをいじりながらゆっくり顔を上げた。
「……ん?」
「私のプリン、一昨日の夜入れたんだよね。
静かな口調に、翔吾が微妙に目を逸らす。
「あー……それな。なんか、冷蔵庫見たら、奥にあったから……。」
「食べたんでしょ。」
沈黙。
「……ちょっと、味見した。ほんのちょっと。」
夕月は小さくため息をついて、冷蔵庫を閉めた。
ゴミ箱に空のプリンカップ。スプーンは小賢しくも洗って片付けられていた。
「いつもは洗い物しないくせに……。『全部』は、ほんのちょっとって言わないんだよ。」
翔吾は頷きながら、少し照れ臭そうに笑った。
「今度買ってきますー。お前の好きなコンビニパフェも。」
反省するどころか、どことなく嬉しそうな男に、夕月も怒った顔を保てなくなって、笑いながら、それでも一応ため息をついて見せた。
「一週間ぶんね。」
「夕月さぁ、最近すぐ帰っちゃうじゃん?なんかあるの?」
ある日の講義中、友人のリカにそう問われた夕月はノートを取るふりをして顔を伏せた。
「えっと、ワンちゃん?拾ったんだよね。」
「ワンちゃん?ってなんで疑問系よ。捨て犬って最近珍しいね。どんなやつ?」
リカが半笑いでまた聞いてきて、出来たばかりの彼氏を思い浮かべた。
誤魔化すつもりが、ドツボにはまっていく気がする。
「えっと……、大っきくて、金ぱ、金と黒のマーブルっぽいかな。見た目はちょっと恐いけど、かわいいよ。」
そうなんだー、と言いながら、リカはニヤっと笑った。
「彼氏でも出来たのかと思った。今も耳赤いし。」
「ち、違うよ…、ちょっと寂しがり屋なワンちゃんなの!」
改めて言われた「彼氏」という言葉に、翔吾を思い浮かべていた夕月はますます赤くなった。
「お前さぁ、今日俺の事、犬って言ったろ。」
いつものローテーブルで夕食を食べながら、翔吾が笑った。
「えっ!何で知ってるの?」
「圭介が言ってた。『あのちっちゃい子犬飼ってるんだってー』って。お前あのアホにも狙われてるからな、気を付けろよ。……夕月の名前も知らねぇクセにさぁ。」
そういえば、斜め後ろに翔吾の友だちが座っていた気がする。
「そ、そうなんだ…。あ、それでね、その時リカとカラオケいく約束したんだけど、良いかな?」
「友達と遊ぶくらい好きにしろよ。……夕月って何歌うの?」
「『そばにいるね』。」
「俺への当てつけじゃねーか……!」
箸を持ったまま頭を抱える翔吾が本当に可愛く見えて、夕月はマグカップで思わずにやついてしまった顔を隠した。
次の土曜日、夕月は朝から念入りに支度していた。
「じゃあ、行ってくるね。」
「おう。留守番は『ワンちゃん』に任せろ。」
大学の帰りに転がり込んで以来、すっぴんか通学用のメイクしか見ていなかったから、夕月の休日のお出掛けスタイルは、翔吾にとって新鮮だった。
髪をまとめて、少しだけキラキラしたメイクをしている。
どうしても、今の夕月にちょっと触ってみたかった。
玄関の三和土に降りて靴を履いた夕月を引き寄せて、一瞬キスをして囁いた。
「リカちゃんと浮気しないで。」
「バカ。リップつくよ……。」
翔吾の胸をひとつ叩いて、夕月が笑顔で出て行く。
「……なんか、唇スースーすんな?」
首を捻った翔吾の呟きにはもう誰も答えなかった。
部屋に戻った翔吾はそのまま部屋の中央に敷かれたラグに腰を下ろす。
毛足の長い、淡い桃色とアイボリーのグラデーション。
いつの間にか、このラグが定位置になっていた。
そしていつも、ここから見えた。
キッチンに立つ夕月の背中、カーテンを閉める指先、マグに息を吹く唇。
翔吾は、ラグの端を指先で撫でた。
毛足が逆立ち、色がわずかに濃くなる。
なぞったまま、しばらく手を止める。
テーブルの上には、翔吾専用のマグカップ。
夕月が選んだ取っ手が広くて指がしっかり入るやつ。黒い陶器を夜空に見立てて小さく光る白い月。
翔吾は、ラグの毛をもう一度なぞる。逆立った毛色が手の動きに合わせて戻っていく。
「……夕月、帰ってくんの早ぇかな。」
言った途端、自分で照れて笑った。
部屋に満ちた彼女の香りに当てられそうで、煙草を掴んでベランダに出た。
「ただいまー。」
夕月が帰って来たのは、22時を回った頃だった。
「……遅くねぇ?」
翔吾はほろ酔いの夕月を抱き留めて、不満を漏らす。
「寂しかった?」
「ハチ公の気分だぜ。ごほーびはねぇのかよ。」
いい子いい子、と夕月が翔吾の頭に手を伸ばし、届かずに耳の辺りを撫でた。
抱き締めた体勢のまま夕月のつむじに顔を寄せ、少しずつ体重をかける。
「うぇぇ、背骨折れちゃうー!」
「今度俺とも出かけよ。その、スースーする化粧で。」
肩を叩きながら笑っていた夕月が、静かになる。
「……ラブソング歌ってくれる?」
「……いや、それは恥ずかし過ぎ。」
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