21. S.Aizawa
恐るおそる目を向けると祠の前にオリエンタル風の真っ赤な民族衣装を身につけた女の人が立っていた。その女性は亜麻色の髪をきつく引っ詰め、黄金色の繊細で美しいティアラを被っていた。一枚布のように見える衣装は胸や腰などを覆うばかりで体の大部分は浅黒い肌が露出し、やはり金色のネックレスやブレスレッドや僕が名前を知らない種類のアクセサリーがその至るところに輝いている。その人はとても背が高く、よく見ると足が地面から数十センチ浮いていた。また魔女のように尖った高い鼻を持ち、そして極めつけに対峙しただけでその深淵まで吸い込まれそうになる金色がかった大きな瞳を三つ、そして両肩には三本ずつ合計六本のしなやかな腕を携えていた。
「なにをそのように驚いておる。我を求めたのはそなたたちであろう」
僕は目を瞠き、声もなく一瞥してこの世の存在ではないと分かるその三つ目の女性をただ凝視した。どこかで見たことのある風貌だと頭の片隅に浮かんだけれど、動揺して意識が散漫になったせいか上手く思い出せなかった。とにかく僕の目の前に現れたこの異形の女性がおそらくは女神カリなのだろうということだけは分かった。
まさか、本当に降臨してくるなんて……。
普通ならとても理解が追いつくはずの事態ではなかった。もし仮に他の誰かがこの現象に遭遇したとして、その人が慌てふためき、狼狽えて逃げ出そうとしてもそれは誰にも責めることも嘲笑うこともできない。そういうとびきり稀有で不可思議なことが起こってしまったと云うのに僕は一旦は驚愕したものの、意外にもすぐに冷静な心持ちを取り戻しつつあった。
―――――― これは僕たちが望んだことだ。
同時に諦めが色濃く混じるどうにも中途半端な快哉が胸奥にプスプスと燻り始める。
やはり時間が止まっているようだった。
僕と女神カリとの間に涙型をした無数の雨粒が静止していた。雨音とともにサワサワと鳴っていた樹々の葉ずれもなく、時折、森を吹き抜けていく湿った風も止んでいた。
僕はふと瀬良さんへと視線を流した。
両手を胸の前で合わせ、空を仰いだまま微動だにしない彼女はまるで天に祈りを捧げる聖女のようでその尊さに僕は思わず息を呑んだ。すると女神カリはその僕の様子に声を立てて笑う。
「度し難いのう、そなたは。我を前にしてそのような」
僕はおもむろに向き直り、そしてひとつ大きく息を吐き出して尋ねる。
「あなたは女神カリ様ですか」
「ああ、いかにも。人間どもはそう呼ぶ」
当たり前のことを訊くなと言わんばかりの速やかな肯首とともに額の中央に縦にひらいた目蓋が険しげな半眼になる。その奇怪さに怖気そうになる心を無理やり抑え込んで僕は挑むような目を女神に向けた。
「お願いがあります。今日、僕たちがここにやって来たのは……」
「云わずとも良い。我の力を求めて訪れる者たちの願いはひとつしかないからのう」
女神カリは然もつまらなさそうに左上の片手をひらひらと振り、それからやおら一番下の腕を組んだ。
「叶えてくださいますか」
「しかし良いのか。そなたはあまり気が進まぬと見えるが」
そう指摘されて僕は束の間、本心に苛まれた。
女神カリなんか現れて欲しくなかった。
やっぱりこのまま瀬良さんと二人で逃げられるところまで逃げて、そして……。
僕はもう一度、銅像のように身動ぎもしない瀬良さんに目を向けた。そして奥歯を強く噛み締め、それから微かに口角を上げた。
所詮、それは僕だけの浅はかな望みだ。
瀬良さんは違う。彼女は心の底から復讐を誓っている。
だったら僕は……。
僕はそこで踏ん切りをつけるように短く鋭い息を吐いた。
「いいんです。僕たちに未来はありません。だから僕を鬼にしてください。僕は自分と彼女の恨みを晴らします」
「心得た。ならば ―――――」
女神カリの六本の腕が僕を包み込むように大きく広げられた。
「あのッ、その前にもうひとつお願いがあります」
「なんじゃ」
女神カリは訝しげに表情を曇らせ、三つの恐ろしい瞳で僕を睨みつけた。僕はその圧力に怯みながらもできる限り声を張った。
「ここにいる彼女を、瀬良さんを無事に返してあげて欲しいんです」
「それはできぬな」
女神の即答に僕は慌てた。
「どうしてですか。鬼になるのは僕だけですよね。だったら瀬良さんは関係な―――」
「ちとムシが良すぎるのう。むしろこの娘こそが我の力を強く求めておるのだ。代償は等しく与えねば公平ではない」
「代償……」
重みのあるその言葉を呆然と唇の先で繰り返した僕に女神はふんと鼻を鳴らした。
「しかしそなたのその厚かましさはなかなか小気味が良かった。褒美の代わりにこの娘は我の身の回りの世話をする下女としてここにおいてやろう。まあ、いろいろと試したいこともあったゆえ退屈しのぎにはちょうど良い。それでかまわぬな」
威圧的なそのセリフに僕は少し考えてから仕方なく頷いた。
きっとこれ以上の願いは不遜となる。
おそらく女神カリの寛容はここまでだ。
「お願いします。どうか彼女に安らかで平穏な日々を与えてあげてください」
「安らかで平穏か。そうじゃな、少なくともこの娘がしたいようにはさせてやる。それでそなたの望み通り、娘が安寧を得られるかどうかは我の知ったことではないがな」
そこでひとしきり女神カリは不気味な声を立てて嗤った。
「では、そろそろやるとするか。時を止めておくのもなかなか疲れるからのう」
女神カリがさっきと同じように両肩から伸びた三本ずつの腕を大きく広げ、そして慈しむようにゆっくりと僕を包み込んでいく。
―――――― 僕はこれから鬼になるのか。
覚悟というほどのものではないそれはやはり中途半端な諦観だったと思う。
女神の指先が僕の脚に、腰に、首に、そして頬に次々と触れていく。
触れた場所がジワジワと熱くなり、そこから放射状にその範囲を広げていく。
やがてその熱が全身を覆い尽くしたと感じた次の瞬間、僕の身体は暴発した。
灼熱の炎に身を焼かれるようなその熱さと痛みに僕は激しく身悶えした。
喉からは自分の声とは思えない野獣の咆哮が低く響き渡る。
つれて意識がぼんやりと霞んでいく。熱と痛みが遠退くほどに僕が僕でなくなっていくのがよく分かった。ふと見下ろすと見慣れた僕の足はすでになかった。そこには丸太と見紛うほど太い漆黒のふくらはぎの先に鋭く尖った五本の鉤爪が雨に濡れた地面をつかんでいた。その傍らにはボロ雑巾のように破れ散った学生服やスニーカーが転がっていた。両手をかざしてみるとやはり鉤爪の五本指と厳つい真っ黒な二の腕がそこにあり、それは隆々とたくましい肩口へとつながっていた。
自分は紛れもない鬼へと変貌を遂げたのだと薄まっていく意識の中で実感していた。すでに葛藤も後悔も消え、身悶えするほどの激しい怒りとその恨みを晴らすことができるという高揚感に満ち満ちていた。
けれどそれでも微かに残っていた自我は瀬良さんに目線を向ける。
彼女は未だ一心に空を仰いでいた。
額に当たった雨粒が弾けて微小な水飛沫を上げていた。
その瞳は落胆と怒りの色に染まっていた。
――――――― もう一度だけ、瀬良さんの柔らかな頬に触れてキスをしたかったな。
途切れゆく意識の最後でそう思った僕は次の刹那、暗くて狭い通路のような場所に立っていた。
どこか遠くから喜悦に弾む女神カリの声が聞こえた。
「光の導くままに行け。そして己とこの娘の恨みを存分に晴らすが良い。我はそれを糧とする」
僕の自我は完全に消えていた。
残されたのは冷酷な使命と煮えたぎるような怨恨だけだった。
そうして僕は返し鬼となった。
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