20. S.Aizawa
僕が持ってきていた腕時計の針が十時を少し回った頃、瀬良さんが僕の胸の上でポツリと呟いた。
「そろそろ行こうか」
「……うん、そうだね」
僕が床から背中を持ち上げると瀬良さんもそれに合わせて立ち上がった。僕たちは黙って制服を身につけた。僕は途中でふと可笑しくなってちょっと笑った。
「どうしたの」
訝しげな顔を向けた彼女に僕は説明する。
「いや、あのね、歴史上、雨が降る午前中の神社でこんなことをした中学生なんてあんまりいないんじゃないかと思ってさ」
「あんまり、じゃなくていないと思う。たぶん」
そう返して瀬良さんも少し頬を緩めた。
僕たちは手を繋ぎ、傘をさして本殿の傍から横に逸れる草深い小径に入った。
雨はいくぶん弱まっていて、黒い影のような木立にはうっすらともやが掛かっていた。小径には無数にぬかるみができて慎重に歩かないと足を取られて転んでしまいそうだった。
僕たちは最初、横並びに歩いていたけれど、途中から道が狭くなったから僕が先を行くことにした。すると離した手のひらにたとえようのない寂しさを感じた。
本当は引き返して、もう一度どこかで瀬良さんを抱きたかった。彼女ともっと口づけを交わしたかった。もっと丁寧に時間をかけて彼女の体を愛撫してみたいと思った。愛おしいという言葉はきっと今の僕の心情を表現するためにあるのだと恥ずかしげもなく考えた。
死にたくない。
僕は生まれて初めて真剣に、そして強くそう思った。
僕たちはほどなく首のない地蔵と祠のもとにたどり着いた。
以前、僕たちが出会ったときと同じように雨に打たれている壊れかけた切妻屋根の祠はいまにも朽ち果ててしまいそうに寂れていた。柘榴神社の宮司が必要に応じて修繕していると聞いていたけど、祠の破風板は外れ、扉は建て付けが悪く、全体的に少し左に傾いていてそれも疑わしいと思えた。また地蔵も所々に苔が生え、薄汚れていてそれが地蔵であることさえ疑わしい。
もし本当に女神カリがここに居着いていたとしても、この惨状ではとっくに愛想を尽かしてきっとどこか別の神社に引っ越してしまっているだろうと僕は密かに肩をすくめた。
「相沢くん、いま何時?」
僕は腕時計を覗き、十一時二十二分だと教える。
「じゃあ、そろそろ始めないと」
瀬良さんはそう呟くと満を辞したように僕の前に進み出て祠にお辞儀をした。そして無造作に傘を傍らに投げ捨て、それから祠に向けて手のひらを合わせて目を閉じた。僕もそれに倣った。傘をそばに置き、手を合わせて目を閉じ、おそらくは存在しないはずの女神カリに祈りを捧げた。
―――― 女神カリ様、どうか僕を鬼にして瀬良さんと僕をいじめている奴らに仕返しをさせてください。
何度も頭の中で呪文のようにそう繰り返した。
いくら調べてみてもこの地域の古文書や資料には女神カリに関する記載は見当たらず、だから僕たちはそうやって闇雲に祈るしかなかった。
しとどに振り続ける雨の音が森全体を覆っていた。
かなり長い時間が経ったように感じて、時計に薄目を遣るとまだ五分余りしか過ぎていなかった。そのままチラリと目を移すと瀬良さんはさっきとまるで変わらない姿勢で一心に祈りを捧げていた。濡れた彼女のボブヘアーからポタポタと落ちる水滴が襟元へと吸い込まれていく。セーラー服はすでにぐっしょりと濡れて黒に近い紺色に変わっていた。瀬良さんの唇は震えていた。肌寒さがそうさせているのかと思ったけれど、よく見ると彼女は祈りの言葉を口先に浮かべているのだと分かった。その小さくて形の良い唇が健気に動く様に僕はふたたび目蓋を閉じて祈りを捧げた。
またしばらく時間が経った。
耳に入る雨音と森の騒めきだけの目蓋の裏の時間。
それは永遠のようで実はほんの一瞬のように感じられる不思議な数分だった。
いつのまにか僕の願いは鬼への変化と奴等への復讐ではなく、瀬良さんの幸福を祈るものに変わっていた。
屈託のない彼女の笑顔を僕は想像していた。
小さな悩みもなく子供のように声を出して笑う瀬良さん。
もちろんそばにいる僕も笑っている。
他には誰もいない。真っ白なもやにぼやけたような場所で僕たちは何がそんなに可笑しいのか二人だけで笑い合っている。
「もう……無理かな」
失意に満ちた低い声が雨音に混じった。
目を開けると瀬良さんが天を仰いでいた。
十一時三十七分。
休み時間はあと三分で終わる。
なにも起こる気配はなかった。
でも、これでいい。
僕は瀬良さんに気づかれないようにそっと安堵の息を吐いた。
あれだけの挑発を手紙にして渡した僕を、しかも呼び出しておいて現れなかった僕を奴らは手ぐすねを引いて待ち受けているだろう。学校に戻れば想像もつかないような酷い目に遭うに決まっている。
でも、それでもいい。
僕が犠牲になることで瀬良さんが救われるなら。
それともこのまま彼女と二人でどこか遠くへ逃げてしまおうか。
でも無理だな。
お金は持ってないし、中学生を働かせてくれるところなんてこの国にはないから暮らしていけない。
じゃあ、いっそ二人で一緒に天国に行くというのは?
僕は微かに首を横に振る。
いや、違うな。
僕はともかく瀬良さんを死なせたくない。
彼女には生きていつか幸せになって欲しい。
空を仰ぐ瀬良さんの横顔をそう願って見つめたその時だった。
彼女の額にひとつふたつと雨粒が当たって弾ける様子がなぜか僕の目にスローモーションで映った刹那、
――――――― 世界が時を止めた。
『そなたよ、我の力を望むか』
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