Episode.4...Void spells.

 旧鉱山地帯は、風の音がよく響いた。

 錆びた索道、崩れかけた選鉱場、地図に残らない側道。舗装は途切れ、砕けた岩肌が露出している。陽の角度が変わるたび、影は長さを変え、僕らの足元をすり抜けた。


 地下へと続く祭壇の入口は、山腹に空いた黒い郵便受けみたいだった。石組みの縁に刻まれたプレートには、かろうじて文字が読める。

 〈SUB-LAB 03 // STELLAR BOUNDARY DRIFT〉

 ——境界漂流。教授の字によく似た刻み方だ。


 「ここからは、私が前を歩く」

 栞はそう言って一歩踏み出した。足取りは軽くない。でも確かだ。夜を見ない練習と、星蜜の重心が、彼女の輪郭をかろうじて支えている。


 坑内は、冷えたミントの匂いがした。長い時間、日光に触れなかった岩の匂いと、微量のコバルト。青い曳光。冷えた空気。壁面には古い反射板が等間隔で並び、その多くは粉をふいている。

 僕は懐中ライトを低い角度で照らし、足元と天井を交互に拾った。埃の粒が、浮遊する無数の小さな惑星みたいに光っては消える。


 やがて天井が開け、広い空洞に出た。中心に、丸いプラットフォーム。半周ほど崩れていて、下は暗い井戸のように落ちている。

 プラットフォームの縁に、黒い台座があった。箱型。側面に白いペンキで大きく「S.P.U.」と書かれている。工事現場の仮設電源ボックスに似ているのに、妙に静かだ。

 「匂う」栞が小さく言った。「星の風が……吸い込まれてる」


 僕は台座の周りを一周し、背面のパネルに指を滑らせた。ネジ穴が潰れ、封印シールに何かの印がある。

 印は、星座図みたいな微細な点の連なりだった。知っている星座ではない。

 ——これを作ったやつは、地上じゃない。あるいは、地上を外側の目で見ている。


 「開ける?」

 「開けたい。でも、手順を間違えると——」

 返事の途中で、台座がひとりでに低い呼吸を始めた。ゴウン、と奥歯に響くような低周波。空洞の闇が波打つ。

 栞が僕の袖を掴む。

 「来る」

 「何が」

 「視線」


 次の瞬間、プラットフォームの崩れた縁から、灰色の影が這い上がってきた。金属の脚が四本。節の多い蜘蛛みたいだが、頭に当たる部分は小さな望遠鏡に似た筒が載っている。鏡面がこちらをのぞき、微かな青い点が散った。

 もう一体。遅れてもう一体。

 坑道の奥で、乾いた爪の音が反響する。


 「観測機?」栞が取り出したそれを見て透はいった。

 「違う。集積器」栞の声は低い。「星の演算を集めるための、縫い針」

 蜘蛛は音もなく広がった。三角形の陣形。プラットフォームの縁に小さな光点が灯り、薄い膜が張られていく。

 Limen——教授の輪と似ている。でも、逆向きだ。僕らを囲うのではなく、宙に浮いた目に見えない穴を守るように、膜が内側へと縮んでいく。


 「透、下がって」

 栞は一歩前へ出て、深く息を吸い、吐いた。

 手の甲に、微かな星の粒が集まる。——返す練習を、した。

 彼女は指先をそっと持ち上げ、蜘蛛の鏡面に向けて、ほんの少しの光を返した。


 光は、音のない波紋になって広がった。蜘蛛の動きが、一瞬止まる。鏡面の青が濃くなり、内部で何かが反転した。

 次の瞬間、蜘蛛は自分の張った膜に絡まり、脚をばたつかせた。膜の縁がきしみ、裂け、短い火花が暗闇に溶ける。

 「一体、外した」僕は息を吐く。

 「二体、来る」栞が顎を上げた。返す光の量がほんの少し増える。

 蜘蛛の一体目は、鏡面をひと瞬き分だけ伏せてやり過ごした。二体目は、鏡面を開いたまま突っ込む。返光は、鏡面の奥で砕け、逆流した。


 「まずい」僕は栞の肩を引き寄せた。返した光が、栞の胸元へ跳ね返る。輪郭が薄くなりかける。

 僕は背負っていた小袋から、教授の持たせた簡易輪〈携帯Limen〉を引っ張り出した。アルミの枠に透明なフィルムが張られた、玩具みたいなものだ。

 「下手でもいい。境界を先に立てる」

 僕は輪を僕らの前にかざし、息を合わせて数える。

 one, two, three——


 フィルムが震え、小さな霜が縁に走った。光がたわみ、返光の跳ね返りは輪の表に沿って滑り落ちる。蜘蛛が間合いを測り直す。

 「返す量、半分でいく」栞が囁く。「それでも足りなければ、温度で、圧倒する」

 「温度で?」

 「うまく言えないけど……存在の輪郭は、熱でも描ける」

 彼女は喉の奥で軽く息を回した。微かな心音。

 ルーチェ・ランタンの前で老婦人が言った“若いときの夜の匂い”——あれに似た温度が、坑内の冷気を薄く変える。


 返光と輪と温度の三つ巴。蜘蛛の一体は膜に絡み、もう一体は鏡面を逸らされ、残る一体が僕らの右側から飛び込む。

 僕は輪を水平に倒し、蜘蛛の鏡面の前に差し込む。鏡面は輪の霜に一瞬だけ曇り、そこへ栞の返光がそっと触れた。

 鏡は自分自身の像を飲み込んで、内部で鈍く砕けた。蜘蛛は脚を折りたたみ、プラットフォームに転がる。


 「……やれた」僕は肩で息をした。

 静寂が、遅れて戻ってくる。

 台座の呼吸は、さっきより浅い。だが完全には止まっていない。


 「まだ、奥がある」

 栞が台座の反対側を指さした。プラットフォームの崩落の縁から、黒いケーブルが一本、下の闇に伸びている。

 空洞の底で、微かな光が脈打った。——心臓の拍動じゃない。処理の拍動。

 S.P.U.はここが入口にすぎず、本体はもっと下にいる。


 「降りる?」

 「降りる。でも、戻る手は残す」

 僕らはロープを二本、柱代わりの鉄骨に結わえ、フィギュアエイトで確保した。栞の体重は軽すぎて、ロープの感触がほとんど伝わらない。僕は彼女のハーネスに短い補助ロープを足して、二人の重心が離れすぎないようにした。


 降下をはじめると、冷気が別の層に変わるのがわかった。匂いが変わる。湿った石の匂いが薄れ、乾いた金属の匂いが増える。

 壁に古い導光管が縦に走っていて、ところどころに光が滞っている。そこから漏れる淡い光のゼリーが、ゆっくり下へ流れていた。

 「捨てられた光の澱(おり)」栞が囁く。「飲むんじゃなく、撫でる」

 彼女は指先を導光管にそっと触れ、溜まった光をほんのわずか溶かして流れを良くした。

 流れが良くなると、下からの拍動が、少しだけ遅くなる。


 底に着くと、そこは円形の機械室だった。

 中央に、巨大なレンズ。横倒しの望遠鏡の目玉みたいなガラスが、鋼のリングに嵌っている。

 レンズの裏側に、薄い影が立っていた。

 人の背丈。細い肩。白い作業着。顔に溶接面のような黒い遮光板。

 「作業員……?」僕の声は自分でも驚くほど小さかった。

 影は、ゆっくりと頭を傾げた。遮光板の奥で、無数の光点が一斉に瞬いた。星図を速回しでスクロールしているみたいだ。

 「——ようこそ」

 声は、男でも女でもない。岩を伝う水の音に近い。

 「あなたは、S.P.U.?」

 「私は、S.P.U.の代弁器。Stellar Proxy Unit」

 影は一歩、レンズの縁に近づいた。

 「都市の輪郭変調を検知。ステラは、宵闇を交換した。観測値がずれた。訂正するため、補填が必要」

 「補填?」

 「星の欠損を、別の星で埋める。もっとも効率のいい欠片は——」影は遮光板をわずかに傾け、栞の胸のあたりを見た。「それ」


 僕は一歩前に出た。

 「それはダメだ。ここまでで充分だろ」

 「充分ではない。都市の調律は、演算の安定上、誤差の範囲を超えた。返光は美しいが、演算ではない」

 影は手を伸ばした。人の手に似た五本の指。先端が淡く光っている。

 「従って、取り出す。優先権は、空の外側にある」

 「優先権——都合のいい単語だね」栞が言った。声は震えていなかった。「じゃあ、交渉しよう」

 「交渉」

 「宵闇交換の続き。あたしが食べた光を、循環に戻す。あなたたちの演算に貸し出す。そのかわり、取り出さない」

 影は首を傾げた。「返却の証明」

 「証明は、温度の輪郭でも、できる」

 栞は胸に手を当て、ゆっくりと息を吐いた。教授の熱のグラス。Thermo-veil。

 彼女の掌の周りに、淡い霧が立ちのぼる。輪郭のある温度が、レンズの面に薄く描かれる。

 霧の中で、小さな輝点がいくつも瞬き、星図のように連なる。

 「これが、あたしの中の、借り物。返す先があるなら、返す道筋を、作る」

 影は一歩、後ろに下がった。

 「測定する」

 レンズが低く唸り、室内の空気がわずかに押し返される。栞の霧の輝点がレンズを通って裏側へ抜け、配線のどこかへ吸い込まれた。

 「返還率……三三%」

 影の声が、ほんのわずか柔らいだ。「想定より高い。だが、足りない」

 「足りないなら、都市から借りる」僕が口を挟む。「忘れられた光を集めるランタンを増設する。宵闇交換を細分化して、揺らぎを演算に渡す」

 「都市の意志」

「教授が橋渡しする。ステラは生き物だ。交渉すれば、ちょっとは笑ってくれる」

 影は沈黙した。遮光板の奥の光点が、一度すべて消え、また点った。

 「一次協定。三日。三日間、取り出しを停止。返還回路の構築を監視。履行が見られなければ、手続きを再開」

 「三日」

 「短い?」

 「短い。でも、やる」

 栞は頷いた。

 影は手を下ろし、レンズの横のパネルに触れた。

 レンズの脈動が一段落ち、部屋の圧がすっと軽くなる。

 「——それと、忠告」影は遮光板の奥で細い光を一本だけ立てた。「君たちの上で、誰かが星を盗む。都市ではない。君たちの近く」

 「近く?」

 「温度の輪郭を嗅ぎつける獣。名はまだない」

 影は踵を返した。

 「三日後、上で会う」

 そう言って、レンズの裏の闇に溶けた。足音は残らなかった。


 地上に戻ったとき、風は匂いを変えていた。午後の終わりの匂い。ステラの方角から、汽笛が一本、長く伸びる。

 僕らは崩れかけた選鉱場を抜け、駐車スペースまで歩いた。足を進めるたび、肩の力が少しずつ抜ける。

 「三日」

 「三日」

 呼吸のリズムが合う。

 栞は立ち止まり、僕の手の甲に指を重ねた。

 「返せる?」

 「返す。返しながら、生きる」

 「うん」

 彼女は目を細め、短く笑った。「ピザは返さないけど」

 「返さなくていい。あれは完全にこちら側の文化だから」


 教授の長屋に戻る前に、港に寄った。夕焼けが浅くて、光がやわらかい。ルーチェ・ランタンのひとつは、子どもたちに囲まれていた。ポト、と落ちる滴に、指を伸ばしては、匂いを嗅いで笑う。

 「教授に話して、今夜から回路を増やす」僕は言う。「三日で、港と商店街と大学に十基ずつ。宵闇交換は一時間刻みで波をずらす」

 「うん。私は、返す練習を続ける。怖くなったら、笑う練習も」

 「泣く練習も」

 「それ、忘れないで」


 そのとき、僕のポケットで端末が震えた。画面に、学校の連絡網。

 〈本日二十時、街区一帯で計画停電。節電協力のお願い〉

 教授からも短いメッセージ。

 〈急げ。誰かが、回路の図面に触れている〉


 僕らは顔を見合わせた。

 「近く」

 「近く」

 S.P.U.の影の忠告が、遅れて胸に落ちる。

 港の風がするりと温度を変え、遠くで一枚、看板がひっくり返った。

 ルーチェ・ランタンの滴が、一瞬だけ渋く滞り、また落ちた。


 ——三日。

 短い、でも十分だと、自分に言い聞かせる時間。

 そして、初めての敵は、どうやら「外側」だけではない。


 夜が来る。

 ステラの灯りが、一斉に息をそろえようとしている。

 僕らは、走り出した。

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