加賀澄乃の「友達」

佐藤ムニエル

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橙色に輝く窓の向こうを、鳥の影が過った。


カラスだろうか、と加賀澄乃かがすみのは考える。だが、すぐに意識は目の前の人影に引き戻される。考えたところで答えを確かめる術はない。今はに集中する時なのだ。


澄乃の前には身長一七〇センチの人影が立っている。身体つきは男性のもので、正面から見れば左半分——今は背中側から見ているので右半分だ——の見た目もやはり男性だ。なぜこんなあやふやな物言いになるかといえば、彼の身体のもう半分は赤い筋繊維が露出し、所によっては内蔵が丸見えとなっている。〈彼〉はいわゆる人体解剖模型であり、詳細に再現されていない部位もあるので「ほぼほぼ男」と言うに留めざるを得ない。


だが、澄乃にとって目の前の人体解剖模型の性別など重要ではない。それが人の形をして立っていれば、男だろうが女だろうが宇宙人だろうが構わない。


下り階段に向かって立つ、その背中さえあれば。


遠くでトロンボーンが鳴った。どこかで吹奏楽部員が練習しているらしい。楽器ごとに別れてのパート練習であったら、ここへも来るかもしれない。


急がなければ——。澄乃は息を呑む。人が来る前に、やらなければ。


夕焼けで光る、白と筋繊維の赤が半々となった背中に、緑のイボ付き軍手を嵌めた両手を伸ばす。


迷うな。こんなところで躊躇してどうする。


澄乃は奥歯を噛み締め、一歩を踏み出す。同時に、何かを踏み壊した心持ちがした。


掌が硬いものに触れた。かと思うと、それはすぐに感じられなくなる。


立っていた人影が階段に向けて倒れていく。


遮っていたものがなくなり、正面の窓から夕日が直に眼を刺してくる。


顔を顰めた澄乃の耳に、階段を転がり落ちた〈彼〉が立てるいくつもの衝突音が届く。どこかにぶつかる一際大きな音が響き、その後で細かい部品の散らばる音がした。


一呼吸置いてから階下の踊り場へ眼を落とすと、台車に両足を固定された〈彼〉が壁際に積み上げられた段ボール箱の前で直立のまま仰向けになっていた。左腕が取れて踊り場の底に転がっている他に目立った破損は見られないが、着脱可能な内蔵類が辺りに散乱している。宙を見つめる作り物の眼が不意にこちらを向く気がして、澄乃は後じさった。


先ほどの己を鼓舞する熱い気持ちは消え、代わりに「とんでもないことをしてしまった」という焦りが湧いてくる。


ブレザーのポケットでスマートフォンが短く振動した。


取り出すと、メッセージが一件届いている。通知はすぐに二件、三件と増えていく。


澄乃は小さく溜息をつき、画面に指を滑らせる。反応しないと思ったら軍手をしたままだった。


煩わしさを覚えながら右手の軍手を引き抜いていると、上階から複数人で話す声が聞こえてきた。今の音を聞きつけた誰かが降りてくるようだ。咄嗟に廊下を駆けていこうと思ったが、逃げる後ろ姿を見られかねない。となると、行き先は階段の下しかない。


そこに誰もいないという保証はない。だが下は一階で、そちらから誰かが上がってくる気配は今のところない。澄乃は迷う前に階段を駆け下りる。


踊り場に散乱した〈内蔵〉を踏まないよう注意していたら体勢を崩し、積まれた段ボールにぶつかった。箱が傾くのがわかったが、押さえている暇はない。構わず通り抜け、一階へと降りる。背後で段ボールの落ちる音が聞こえた。


そこから先に人の姿はなかった。澄乃は小走りで昇降口へ向かい、そこでようやく人心地がついた。


またポケットの中で振動がある。


『無視?』


通知画面に表示された短い本文に溜息をつき、澄乃は画面のロックを外した。




つづく

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