第五楽章
私はその日記を静かに閉じると
ゆっくりとまたピアノの椅子に座り、凛々しき老紳士と向かい合う。
そして、拙い手つきでその曲を演奏し始める。
どうか彼のこの思いが彼の愛しき女神に届いてくれるように、と。
すると驚くことに勝手に手が、まるでずっと前からその曲を知っていたのかのように動き出した。
もうこの時には、心の臓に絡みつく蛇のことも、飽きが来ていた己のキザな口調のことももうすっかり頭にはなかった。
凛々しき老紳士の歌声、悲恋を遂げた音楽家の叫び。
私はなぜだか分からないくらいに涙が止まらない。
そして、私の手はむき出しになったステージの上で悲しく美しいステップを踏んでいくのだった。
ピアノを弾き終わると、取り憑かれていたように動いていた手はまたいつもの拙い動きに戻る。
私はなんだか、体が軽くなったようなまた微睡むような感覚になり静かにその部屋を後にする。
すると、先程までどれだけ目を凝らしても見えなかった窓の外の景色が見えるようになっていた。
今までに見たどんな絵画よりも美しい、そんな世界が一面に広がっていた。
「そうか、きっと女神様に届いたのね…。彼の思いが…。」
そう呟く私の頬には一筋、雨粒が落ちた。
そのまま、意識が薄れていく。私はその微睡むような感覚に身を委ねるように目を閉じる。
意識を手放す直前に、暖かい愛に満ちた男の声が声が聞こえた気がした。
『ありがとう、名も知らぬ音楽家さん』
私は静かに微笑みながら、そのまま意識を手放した。
目を開けると、また暖かな太陽と土や木の懐かしい香りに包まれる感覚が戻った。
それから私はゆっくりと体を起こし、帰路へ着く。
結局、あの不思議な洋館に私が巡り会った理由は分からないままだ。
だが、それでもいいと思った。
何故なら、今私の目に映るこの世界は、
あの時窓が見せてくれた美しい景色達のように何もかもが鮮やかに美しく見えたからだ。
それだけで十分だ、と私は思った。
そうして私は、女神とその女神を誰よりも愛した男に思いを馳せ、つま先から踊り舞うように歩き出した。
『ある恋人達へ送るワルツ』を歌いながら。
ある恋人達へ送るワルツ @kantkiss_01
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