第二楽章
扉を開けた先にあったのは時が止まったように妙に小綺麗でありながら、静かに朽ちていく洋館の姿だった。
「わ………」と吐息混じりに出た声は、その広い屋敷に吸い込まれて消えていった。
まだ心は蛇との戦いを続けているものの、
思い切って足を進めていく。
高鳴る心臓を落ち着かせるように息を吸い込むと鼻の奥に届く古い木の香りやホコリの香り。
そしてその香りにそぐわぬ豪勢な内観。
まるで、つい数分前まで人がいたのではないかと錯覚するほど妙に小綺麗だった。
入ってみるとまず目に飛び込んできたのは、
中央に飾られた美しき大輪の花。
その花々の奥には左右に分かれた階段が踊り場へと続いている。
ここだけでもう、ワルツでも踊れそうなほど
美しい姿した内観だった。
私は中に入ってからもう一度誰かいないかと声をかける。
「すみません…!勝手に中に入ってしまい大変なご無礼を…!つい、素敵なお屋敷だと思い吸い寄せられてしまいまして…!申し訳ございません!」
そう言いながらロビーを歩き回ってみるもののやはり返答はない。
誰もいないことに安堵し、同時に心細さを感じながら、私はそっと足を止めた。
「階段があるな…。せっかくだし、上がってみるか。」
私はそう言って、何となく左側から階段を上り始める。
ギシリ…ギシ…ギシリ……と軋んだ音で歌う階段は、まるでこの屋敷の長い歴史を語りかけているかのようだ。
なぜこんなに綺麗なのか、
そして何故こんなにも寂しいのか。
そんな謎を抱えたまま踊り場へ着くと、
そこには左右に続く二つの道と、それぞれに扉があった。
私は迷いつつも、なんとなく左側へ足が向かった。
左から上がったわけだし、とそのまま左側の扉へと歩みを進める。
踊り場から十数歩ほど歩いた先の扉の前へ辿り着くと、
金色の豪勢な装飾が施されたドアノブを掴み、力を込めて押し開けた。
そこには美しい彫刻や壁一面を埋め尽くすような大きな絵画が並ぶ廊下だった。
私がこれまで見たどんな美術館よりも広く、
そして美しいその廊下に、私はまたもや吐息混じりの感嘆を漏らした。その声は、やはり同じように天井に吸い込まれて消えていった。
私はまるで、子供の頃に憧れた物語の主人公になったかのような錯覚に陥った。
その胸の高鳴りに導かれ、ワルツを踊るプリンセスのように、
その美しい廊下をふわりふわりと舞い歩いた。
廊下の突き当たりには、大きな窓があった。
だが、その向こうはまるで靄がかかったかのように、何も見えない。
どれだけ目を凝らしても、外の景色を拝むことは叶わなかった。
窓の向こうに広がる靄に、私はヌルリと背後に這い寄る蛇の気配を感じた。
スっと背中を伝う冷たい汗の感触に歯噛みする。
その感覚を振り払うように窓を一瞥すると、私はそのまま曲がった先に続く廊下へと足を進めた。
不思議なものだ。
今も、心臓を締め付けようと這い寄る蛇の気配を感じる。
だが、その恐怖に足を止める時間は、
この屋敷に足を踏み入れた時よりずっと短くなっていた。
廊下の床は、赤紫の柔らかく上品な絨毯。
壁は美しい石をその身に纏っていた。
反対側の窓から見えるのは、相変わらず何も見えない光景だ。
…まるでベールを纏った女神のようだ。
私はそう呟き、クツクツと笑った。
そんなキザな感想を抱いた私を、
窓の外の景色が嘲笑っているような気がした。
そうして歩き進んでいくと、左側の壁にいくつかの扉が鎮座していた。
私は何部屋かの扉を開けて中を覗いてみる。
そこには、子供の頃に映画や絵本で見たような、豪勢な寝室や事務室、そして子供部屋や、クローゼットと思える部屋まで、様々な部屋があった。
夢にまで見た憧れの光景に、心を震わせたものの誰かのプライベートに踏み込むことに申し訳なさを感じ、中へは入らず再び廊下へ足を戻した。
そのまま私はそっと扉を閉め、また先へと進んでいく。
そのまま歩き進んでいくと、またさっきの突き当たりにあった窓と同じように大きな美しい窓に出会った。もう分かりきっていたが、やはり外は靄がかかっているようにその素顔を覗かせてはくれない。
「…どうやらここの女神様は恥ずかしがり屋なのかしら。ベールを外すのが苦手なのね。」
と私はまた窓に語りかけた。
いい加減自分のキザな発言にツッコミを入れるのにも飽きがきたが、そんな気持ちを誤魔化すように、私はまたクツクツと笑った。
当然答えは返ってこない。だが、
その窓から目を離すと、
先程まではなかったはずの扉が目に入った。
これまでの豪華絢爛な部屋の扉とは違う、ひっそりと佇む古びた木製の扉。
その扉はまるで私を呼んでいるかのように感じた。
抗い難い衝動に吸い寄せられ、私はグッとドアノブを掴んで扉を開ける。
扉を開けると、
そこは時間が止まったかのように小綺麗だった他の部屋とは違い、無残にも時の流れに蝕まれた部屋だった。
ホコリを被った本棚からボロボロの書物が溢れ、足の踏み場もないほど散乱している。
そんな荒れ果てた部屋の奥に、一際凛々しく、しかしどこか寂しげな表情で佇む一台のピアノがあった。
彼はさながら誇り高き老紳士のようにも見えた。
ピアノに関わりなどなかったはずの私が、何故だかその瞬間、彼の奏でるであろう調べに魅入られていた。まるで醒めない恋に取り憑かれたようなそんな感覚。
私は抗う術もなくその美しい誘惑に身を委ねていった。
そして、塗装が剥げて中の木の肌がむき出しになった蓋に手を添え、まるで千年の眠りについた姫君に目覚めのキスをするような優しくも確かな動作で抱き上げた。
開いてみると、やはり木の肌がむき出しになった鍵盤が並んでいた。
蓋を開くと同時に、眠っていた木の香りとホコリの匂いが部屋に舞う。
恐る恐る、なれない手つきでその鍵盤に触れると私にもわかるくらいに調律の狂った音がした。
だがどうしてだろう。その音は、私の胸を強く熱くさせた。
これまでピアノの音に、こんなにも愛おしいという感情を抱いたことがあっただろうか、と思うほどに。
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