第五章

 赤茶けた大地の向こうに黒煙がもうもうと立ちのぼっているのが見えた。


 熱帯特有のうだるような暑さのなか、ぼくはその風景をじっと見つめていた。

 鉄分を多く含んだ大地の赤に、熱帯雨林の濃い緑、そして一三〇ミリ砲で打ち抜かれ、炎上した車両の上げる煙の黒。それらの描く奇妙なコントラストを。

 これは戦火の風景だ。

 ぼくは兵士で、正義の名の下、西側諸国に使役される現代の傭兵プライベート・オペレーターだったから、こういう風景を幾度となく見てきた。

 その風景のなかで、こうして赤い血の滴る小銃を構えることに慣れていた。

 念のため、言っておく。

 これはぼくの血ではない。なぜなら、ぼくの血は赤くないからだ。

 ぼくの血は灰色、半分機械で半分肉の、偽物の血の灰色。

 だからこれは標的を守る警備部隊兵士の血で……。

 混ぜ物なしの肉の身体を駆使する、贅沢で高価な連中の生きたフレッシュ・ブラッドだ。

 この兵士と接敵したのは、第一目標物とされる旧政府施設のゲストハウスから、通りを一つ挟んで向かいにあるホテルのロビーだった。司令部の情報どおり、第一目標物に近づくと、友軍とも北部革命勢力ともつかない兵士たちの警戒網で付近は針のむしろのようになっていた。

 おそらく、追跡者が来ることを知っていて、それを警戒しているのだろう。

 ぼくはあらためて血の滴る小銃と、それを奪うために殺した警備部隊兵士の死体を確認する。さきの爆撃でぼくはナイフ以外の武装を失っていた。そのため装備を現地調達する必要があったのだ。

 しかしながら、殺すつもりはなかった。警備兵が徒手格闘用のアーマーを装備していたせいで締め落としチョークが通用しなかったのだ。

 おそらくアーマーが気道と血管を保護する機能を備えていたのだろう。無力化するには、そのまま頸動脈をナイフで切断するほかなかった。

 そのせいで、兵士から調達した小銃は彼自身の血でしとどに濡れそぼっている。

 ぼくは銃身にべっとりと付いた血を止血帯で拭うと、弾倉を抜き、コッキングレバーも引き切った。そのまま、リリース状態になった銃床内部を覗き、銃内部に血が浸透していないかを確認する。浸出は認められなかった。

 最後に兵士の身に付けたハーネスから拳銃と各種弾倉を回収する。モデルはぼくらと同じ四十五口径の正式採用品ガバメント・モデルだった。

 これでようやく、ぼくは戦いの準備を整えることができた。

 そこで間延びした砲声がどこかから聞こえてきた。音の大きさからして、かなり近い。

 ぼくはホテルの窓から、慎重に顔を覗かせると砲声が聞こえてきた方向を見やる。予想どおり、一キロほど離れた通りから黒い煙がもうもうと上がっていた。

 北部革命勢力の戦車部隊だった。もう市内まで侵攻してきているのだ。

 続いて、守備隊が応戦するパラパラという銃撃の音が響き渡る。すぐさま、あたりは戦場特有の、撃ち撃たれ合う者同士が奏でる旋律に包まれはじめた。

 好機だった。

 あの警戒網を突破するチャンスは今しかない。

 数ブロックも離れていない場所で守備隊と北部革命勢力が衝突したとあれば、市内に潜伏している不穏分子の一派もただではすまないだろう。当然、すぐにでもビエンホアから脱出を試みるはずだった。

 そこが狙い目だった。脱出の準備に大わらわになっている以上、建物の警備は手薄になる。逆にこのタイミングを逃せば、ぼくは以降、自力で彼らを追跡しなければいけなくなる。脱出に車両やヘリを使われれば、追跡すること自体、不可能になるだろう。


 ぼくは機械の身体をゆっくり動かすと、自己診断プログラムを起動する。

 ぼくの身体は機械だ。少しは肉の部分もあるけれど、おおむね機械でできた身の上だから、その身体を調べるのも同じ機械の論理で動く連中だ。

 さっそく、ぼくに内蔵されているシーケンサが、肘や膝の関節部分に電気的な負荷を掛け始めた。あちらへぴくぴく、こちらへぴくぴく、ぼくの足は糸釣り人形マリオネットのように、持ち主の意思とは無関係に動き出す。

 じつに屈辱的だが、ぼくはそれを受け入れる。

 そうすることによって、ぼくはこの機械の身体が滑らかに動くこと。その滑らかさが敵を確実に殺す敏捷性を有しているかを確かめる。

 迅速さは何よりも優先される。

 これから、ぼくは単身、身一つで敵地へ潜入する。

 今回は通常の潜入とは違い、ゆっくり隠密行動スニーキングをかましている余裕はない。うかうかしていれば、連中がゲストハウスを脱出してしまい、すべては手遅れになってしまう。

 そうならないためにも、第一目標物へのアプローチは最短ルートで構築する必要があった。前戯はなしだ。途中、遭遇した兵士はすべて排除する。万が一、仕留め損なえば、前から来る兵士と生き残った追手とに挟み撃ちにされ、ぼくは殺される。

 自分でも無謀な作戦だと思う。戦術的優位性を欠いた意味の無い行為だと思う。

 それでも、ぼくはやらなければならない。

 こういう事態になった以上、軍はこの作戦を公式にはなかったものとして扱うだろう。この作戦の情報がリークされれば、スポンサーであるベトナム籍企業はもちろんのこと、そこに一枚噛んでいるとされる機械産業の存在も明るみに出る。利益誘導ありきの作戦であると知られれば、平和維持軍の掲げる社会正義だとか、国際秩序の回復だとかの建前はその訴求力を失う。

 それこそスキャンダルどころの騒ぎではない。いままでぼくらが必死になって作り上げてきた平和な社会というイメージはいったい何だったのか、という話になる。軍も政府も、そうなることは本意では無いはずだ。そして軍にしてみれば、ぼくの存在もまた同じことなのだ。

 そう遠くない未来、ぼくは軍人として、国際連合平和維持軍PKFの少尉として、この作戦を語る様々な機会と場にめぐまれるだろう。ぼくには起きたことを説明する責任がある。世界の人々に、ぼくがやってきたことを、軍がぼくにやらせようとしたことを、懇切丁寧に説明する義務がある。

 それはつまりは、いつ爆発するか分からない爆弾リスクを抱えたままでいるということだ。米国議会、もしくは国連の調査委員会か……。なんにせよ、そういう国際的な場で、語るべき言葉を持った人間が、ふさわしい身分を持ち、しかるべき発言の機会が与えられるかもしれない。

 まさにおあつらえ向きの状況というやつだ。

 ぼくはいま、一つの世界を脅迫しようとしている。そこにいる善良で、物分かりのいい人たちの信頼を裏切ろうとしている。そして世界はというと、そういう裏切りを許容できるようにはできていない。

 自由で健全な社会は、不自由で不健全なものには過敏で神経質だ。表面的には、人々は良心や善性というものを軽んじこそはすれど、いまだそれらの持つ可能性を過大に評価しているし、そういうものを土台にこの社会は成り立っている。

 だからぼくは糾弾される。告訴される。

 起きたことには理由があり、その理路を誰かが説明しなければならないという、人々に拠って立つところの世界観のために裁かれる。

 そのとき、ぼくの命運を分けるのは、ぼくがどこまでかということだ。

 どこで何をしてきたか。どんな作戦に従事してきたか。誰を守り、そして誰を殺してきたか。みな、ぼくの一挙手一投足に注目する。知りたがりの馬鹿共が、ぼくの知らないところで、ぼくがどれだけ知っているのかを知りたがる。

 ぼくが今回の件について正しく情報を掴んでいれば、軍もおいそれと、ぼくのことを無碍にはできないだろう。良心の告発者であるぼくは、同時にみなが直視したくないものを見てきた稀有な人間でもある。

 それが唯一、ぼくがみなの同情を引くことのできる余地であり、この人間社会で取り得るポジションであった。

 だからぼくは何としてでも、この作戦を完遂する必要がある。

 もちろん、ぼくには情報軍なり準軍事作戦部隊の秘密要員として、自分のキャリアを再スタートさせるという選択肢もある。しかしそんなことは、誰も――ぼく自身でさえも、望んじゃいない。

 軍が望むのは、ぼくが秘密保持契約書にサインして、さっさと消えること。ぼくが軍人としてのキャリアに終止符を打ち、記録上の存在になること。そうして、データベースの底の、誰にもわからないような奥深くに埋もれて、誰にも知られず、誰にも見つけられない存在として消えていく……。

 それがみなの望むこと、世界の望むことだった。

 だとしても、ぼくはそれで構わない。

 ぼくはポケットにしまっていた紙片を取り出した。

 あの晩、ジホと焚火を囲んで話したあと、ぼくはこの紙にあることを書き出していた。


 ――身体を取り戻したら、やることリスト。


 今回、ぼくが受け取ることになるであろう退職金の額は、それこそボディペイメントの支払いなんてわけないくらいのものになる。

 そのとき、ぼくの側で身体オリジナルを受け取る準備ができていないというのは、あまりにナンセンスなことだ。

 ジホはぼくにこう聞いた。

 身体を取り戻したあとはどうするんですか、と。わざわざ肉の身に戻るということは何か理由わけがあるはずでしょうと。

 そう訊かれたとき、ぼくは何も答えられなかった。

 何がしたいとか、何のために身体だとか……。そんなこと、考えてもみなかった。

 ぼくはこの十年余り、もとの身体に戻ることだけを考えていたが、それは文字通り、自分が本来、所有していたものを原状復帰するという意味での話だ。取り戻すこと、それ自体が目的であり、取り戻したあとのことなんていうのは、それこそ雲をつかむような話。それはぼくの人生からは逸脱した考えだった。

 それでも、今回ぼくがこうして数限りない欲望をつらつらと書き綴ったのは他でもない。ぼくはそこに自分のカリスマを見出そうとしていたからだ。

 ぼくのカリスマがそこにあると、信じようとしたからだ。


 ぼくは深呼吸をすると、敵の血でしとどに濡れた小銃を構え直す。物陰から慎重に頭を出し、標的が潜伏していると思われるゲストハウスへとゆっくり近づいた。

 家屋の多くは旧仏領時代に建てられたヴィラという別荘形式の建物だった。

 建物自体の建築手法は、フランス影響下の植民地コロニアル様式という趣だったが、目に眩しい白塗りの壁がパーティションのようになって、邸内を迷路みたく区切っている。

 厄介だった。壁の上を伝うには目立ち過ぎるし、かといって乗り越えた先に敵がいたら、まずいことになる。だからぼくは比較的、穏当な方法を取ることにした。

 ぼくは先ほど兵士から頂戴したグレネードを二個ほど手に取ると、ピンを引き抜き、時間を待った。そしてちょうど、それが放物線の頂点で爆発するように調整して壁の向こう側へと放り投げる。そして爆発と同時に、壁を乗り越えて、ゲストハウスへ侵入した。

 ぼくが地面に足を着いたのと、三つの人影が崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。この爆発が及ぼした効力を、ぼくは瞬時に把握することができた。次いで拳銃を抜くと、爆発の有効射程から逃れていた生き残りの頭を撃って仕留める。

 左右に目を配り、ほかの生き残りがいないかを確認した後、ぼくは最初に倒れた人影の方に近づいた。グレネードが無力化したのは、兵士一人と現地民と思われる女性二人――おそらく、このゲストハウスの使用人の計三人だった。三人とも、グレネードの凶悪な破片に曝されて虫の息だ。こうなると、もう助かる見込みはない。

 ぼくは末期のうなり声をあげる使用人の上を跨ぎ越えると、邸内へと続く渡り廊下へと踏み入った。

 立ち止まっている時間はない。いまの爆発に気付いた兵士たちがすぐにでも駆けつけてくるはずで……。逃げ場のない閉所で囲まれれば、それはすなわちぼくの死を意味していた。

 ぼくはそのまま柱に身を隠しながら、渡り廊下を進んでいく。途中、さきの爆発の現場に向かう兵士の集団をやり過ごした。侵入者――つまりぼくのことだ――に対する凄まじいまでの敵意を漲らせ、連中は次々と現場へと突入していく。ぼくはそれを横目に、扉の見張りを躱し、東の別館へと侵入した。

 事前の情報通りであれば、ここから政府関係者用のゲストハウスに繋がる細長い通路が続いているはずだった。

 薄暗い物陰の奥に、通路の入り口となる引き戸が見えた。たしかに、司令部の情報は正確だった。しかし、あくまでそれは構造図に限っての話だ。

 ぼくはそこである光景に足を止めた。

 驚くことに、別館の天井には大きなガラス製の採光窓が張り渡されており、そこからわずかに入った日の光が、廊下へと続くエントランス部分を一種のアトリウムのようなものに変えていた。

 厳かに。

 控えめに。

 おそらく、差し込む光の量も計算されているのだろう。絶妙な加減で差し込んだ光が、エントランス中央にある花壇の上に小さな陽だまりを落としていた。

 ブーゲンビリアやハイビスカス、夾竹桃。奥の水瓶には、蓮の花ホアセンが小さくも、そのピンク色の花びらを天に向けて開いている。花々はときおり室内空調のわずかな風に揺れるのみで、それ以外はまったく微動だにしない。

 まるで廟か何かにいるようだった。壁を一つ隔てた先では銃弾や怒声飛び交う戦場が広がっていて、一方では完全に静止した世界が厳かな時を刻んでいる。

 そのあまりに隔絶した情景を前に、ぼくはあることを思い出していた。

 母の背中。

 はめ殺しの窓の近くに小さな植木鉢を置いて、そこから入ってくる微かな陽光を頼りに花を育てていた母の消え入りそうな後ろ姿。

 あのとき見たままの光景が、時を経て再びぼくの前に現れていた。

 ぼくは知っていた。夕方になると、日射しの入ってくる位置に合わせて鉢の置き場所がわずかに移動していることを。母がそうやって、小さなカタバミやらニリンソウのために、どんな些細なことでも労を惜しまず、心を砕いていたことを。

 その異様な相似を前に、ぼくは知らず知らずのうちに手を伸ばしている。

 蓮の花の、そのピンク色の花弁に触れようと。母の愛を一心に受けて育った、あの健気な花々と同じように揺れる、小さな花びらに触れようとして。

 花弁の切っ先に指が触れるか否かの瞬間、それが目の前ではじけ飛んだ。

 しまった、と思ったときにはもう遅かった。

 ぼくは反射的に音の方向へ銃を向け、狙いも付けずに引き金トリガーを引き絞った。そのまま敵の火線から逃れるように、急いで奥の水瓶の裏に身を隠す。視界の端に、銃撃から身を隠した兵士のブレた残像が見えた。数は二人、戦闘単位としては最小のツーマンセル。

 敵の本拠地のど真ん中で、こんなふうに堂々と身をさらしていれば、それは発見してくれといっているようなものだった。自分でもあまりに迂闊さに怒りすら湧いてきたが、いまそんな内省をしている時間はない。

 もはや、敵に反撃の機会を与えるわけにはいかなかった。陶器の鉢という遮蔽物としてあまりにお粗末なものに身を隠している以上、そこを狙われれば、ぼくの身体にも同様に穴が空くことになるのは避けられない。

 ぼくは銃を手で掲げるようにして一心不乱に向こう側を撃ちまくった。狙いなんて、まともに付けられるはずない。それでもこの威嚇射撃のあいだ、相手はぼくのことを狙おうなどと思わないはずだ。

 そして、一か八かで、ぼくは水瓶の裏から飛び出すと、通路へと続く扉へ向かって走っていった。途中、何度か、釘を打ち込むかのような異音が背中から聞こえてきたが、それでも構わず、ぼくは扉に向かって体当たりをした。

 ぼくはそのまま扉の向こう、客室に続く通路の堅い床に倒れ伏す。

 急いで、腕のモニターで負傷箇所を確認する。背中に二発、左の腿に一発、被弾していた。しかし、敵が使っていたのが、室内での取り回しを優先した小口径弾銃なのが幸いした。体内への弾の浸出をアーマーと合金製ボディが薄皮一枚のところで防いでいてくれた。仮に敵が使用していたのが通常のライフル弾やAPアーマー・ピアシング弾頭であれば、ぼくはそこで死んでいただろう。

 ぼくは急いで立ち上がると、追撃を警戒しながら通路を全速力で駆けていく。通常、目標に対して、ここまで大胆なアプローチを取ることなどあり得ない。先の兵士がぼくに追いつくまで、かなりの猶予があるはずだった。

 客室までの道順はすべて頭に叩き込んであったから、あとはそこまで敵の部隊と正面切って遭遇しないことを祈るだけだ。

 そうして、ぼくは息を切らせて走りながら、意識だけは、あの花々の揺れる光景に囚われたままだった。


 ――そうだ。あれはたしか、今日みたいに蒸し暑い日のことだった。


 ぼくは銃を構え、通路に飛び出してくる兵士たちを撃っていく。意識だけは、とうに過ぎ去った過去を指向して、ただ引き金に掛けた指だけが、辛うじてこの現実と繋がっていた。


 ――季節の変わり目で母さんは体調を崩して寝込んでいた。だからぼくは母さんにスープを作ってあげようとしたんだ。

 ――ぼくが寝込んだりしたとき、母さんがいつも作ってくれたのと同じ、あの野菜のスープを……。


 一人、また一人と、敵兵士の頭部が花弁のごとく開く。照準器はもう使っていない。銃は水平に構え、動体視力だけを頼りに撃ち抜いていく。狙いを付けていれば、足が止まる。照準器スコープを覗いていれば、反応が鈍くなる。


 ――何を準備すればいいかはわかっていた。玉ねぎに人参、キャベツ、それと刻んだマッシュルーム。それらをコンソメスープでほろほろになるまで煮込む。それが母さんのスープ。

 ――でも結局、火の使い方に慣れていなくて、母さんが寝ているあいだに、ぼくはそれを自分の腕にひっくり返してしまったんだ。


 そうして、次々と敵を撃ち倒し、ぼくは通路の奥へと進んでいく。ときおり、敵の反撃を貰うこともあったが、ぼくは標準射撃姿勢を崩さず、火線の中へ堂々と入っていく。

 遮蔽物のない通路であれば、どんな回避行動も意味をなさない。なら、無駄に避けようとするだけ、アクションが遅れるだけだった。


 ――そう、あのときの痛みは憶えている。二の腕に大きな水ぶくれができて、それが針を突き刺したように、じんじんと痛かった。

 ――いま思えば、ぼくはここで声をあげて泣いたり、叫んだりすればよかったんだ。でも、ぼくはそうしなかった。何を思ったのか、そのときのぼくは火傷したことを母に隠そうとした。

 ――なぜだろう。なぜ、あのとき、ぼくは火傷したことを隠そうとしたのだろう。


 ようやく通路の終わりが見えてきて、ぼくは小銃の残り弾数を確認する。装填したばかりの弾倉マグが一挺、ポーチにもう一挺。拳銃弾はまだ残っているが、曲がり角の先で待ち伏せされていたら、心許ない数だった。

 ぼくは走る速度を一切落とさず、通路側面の壁に身体を押しつけるようにして、突き当たりに差し掛かる。銃床を力ずくで肩付けの位置に押さえ込み、いつでも撃てる姿勢のまま、ぼくは曲がり角に突入した。

  

 ――もちろん、怪我をしてショックだったというのもある。

 ――しかし、当時のぼくからすれば、怪我をしたことより、怪我によって自分の大切な一部が駄目になってしまったんだという喪失感の方が強かったようにも思う。

 ――それで、あえて気づかないふりをしていたのだろうか……。

 ――でも、そうじゃない。


 待ち伏せはいなかった。

 代わりに、ぼくの前に広がっているのは、等間隔で連なるマホガニー製の扉の数々で……。見れば、扉には合金製のプレートが嵌め込まれ、それぞれの客室等級と番号が割り振ってあった。

 ぼくは目標物である政務関係者用ゲストハウスにたどり着いていた。


 ――ぼくは、恐れていたんだと思う。

 ――子どもながらに、がっかりされたくなかったのだ。

 ――母さんや、ほかの誰にも、自分がしくじったと思われたくなかった。


 ぼくは司令部から受け取った情報をもとに目的の客室へと近づいた。

 警戒すべきは、扉前にバリケードやトラップが仕掛けてある可能性だ。何となれば、無理矢理、発破用ブリーチングテープでこじ開けて、突入を敢行する必要があるが……。それは杞憂だった。

 扉に鍵は掛かっていなかった。


 ――結局、そうやって、まともな応急処置をしなかったことが祟ってか、腕の傷は痕となって残ってしまった。本来、痕が残るような怪我でもなかったが、化膿した傷口から入った雑菌が悪さをしたのだ。

 ――感染症による高熱で一週間ほど苦しんだ後、ぼくの腕には紫色の引き攣った皮が生涯、刻まれることとなった。


 ぼくはゆっくりと扉を開ける。

 室内に明かりはなく、部屋のカーテンは閉め切ってあった。

 しかしながら、ぼくはそこに人の息づく気配をたしかに感じている。

 人間という生物がどうしようもなく醸し出す、存在の名残り。それは匂いや落とした毛髪、付着した微細な皮脂のような目に見えるものだけではない。

 調度品の位置の微妙なズレや、カーペットの皺、扉のわずかな開閉具合など、はっきりとは指摘できない些細な違和感の集積が、そこに人が存在するという確信をぼくのなかに裏付けていた。


 ――跡が残ったこと自体は苦にならなかった。ぼくが気にしていたのは、ぼくよりも、ぼくの傷のことを気に病んでいた母のことだ。

 ――ぼくの腕にできたケロイド状の傷跡。傍目には魚か、何かの地図のようにも見える、そのよれて盛り上がった皮膚に指を這わせては、ため息をつき、やがてそれにも疲れたのか、ぼくの傷のことについて、できる限り無関心を貫くようになった母のことだった。


 ぼくは武器を小銃から拳銃に持ち替えて、足音を殺し、室内へと侵入する。

 部屋の主はぼくが近づいてきていることを感知していたのだろうか、室内には装ったような静けさが満ちていた。

 ぼくはそのとき、外から響く銃撃の音が近くなっていることに気付いた。

 本館の方でも、すでに民兵と北部革命勢力の衝突が始まっているようだった。戦車も入ってきているらしく、腹の底を揺らすような一三〇ミリ砲の音が響くたびに、部屋の窓がカタカタと静かに揺れていた。

 どうりでエントランスでぼくを撃ってきた連中が追ってこないわけだった。このゲストハウスも、もはや戦火の只中にある。

 

 ――そして、ぼくが高熱にうなされているのを尻目に、母はあの鉢植えをいそいそと買ってきたのだった。

 ――そう、あの陽だまりで咲く健気な花たちを。


 ぼくは意図的に呼吸のリズムを遅くしていく。

 侵入者の存在を警戒している相手に、こちらの気配を悟らせてはいけない。同時に、ぼく自身はこの場のどんな些細な変化も見逃すことがないよう神経を尖らせなければいけない。

 事ここに来て、これほど自分のが鬱陶しいと思ったことは無い。いまのぼくには鼓動の音すら邪魔なものだった。


 ――ぼくには納得できなかった。

 ――母に、他人に、ぼくの存在が勘定され得ない部分があることに。

 ――だから、ぼくはハサミを持ってくると、日差しのなかに差し入れて……。

 ――その刃を……。


 そうして一歩一歩、ぼくは部屋の奥へと進んでいくと、薄暗いリビングの奥、応接間に繋がる一室に、ぼくは人影がいることを見て取った。

 それは、追跡者の影におびえるように、わずかに震えているようにも見えて……。

 ぼくは、銃を構えるとそっと影の頭部へと狙いを付けると……。

 その、引き金を……。

 

 引いた。


 パリンと何かが割れる音がして、次いで目の前にいる人影の輪郭が粉々に砕け散った。

 ぼくは一瞬、その意味するところを探ろうとした。

 そして、自分が鏡に映った鏡像を撃ったことに気がついた。

 そのときには、首筋にひやりとした鋼鉄の感触が押し当てられている。ぼくは何者かが自分の背後にいることを悟った。

「銃を捨てて、ゆっくりこちらの方を向くんだ」

 ぼくの後頭部に銃を突きつけ、は言った。

 ぼくは親指と人差し指だけで銃を保持すると、そのまま床に置く。そして、男の言うとおり、わざとらしいほど、ゆっくりとした動作で振り返った。

 目の前に、何の変哲も無い、無味乾燥な顔をした男が立っていた。

 驚きはなかった。その顔は司令部から送られてきたプロファイルと瓜二つで……。


 つまりは、ぼくは自分が殺すはずの男に銃を突きつけられていた。



 この滑らかな肌触りはシルクだろうか、それともサテンだろうか。

 ぼくはそんなことを思いながら、赤いカーペットの上に膝をついていた。

 真上には、年代物のコルトの鈍い輝きがあって、それがふらふらとぼくの上を彷徨っている。いま、ぼくに指示を与えているのは、まさにこの鈍い煌めき。その奥に据えられた弾頭がもたらすやもしれぬ、驚くべき燃焼反応の結果だ。

 だからぼくは唯々諾々と従っている。拳銃の、そして拳銃を握る男の左右する、ぼくの命という可能性を人質に取られて、ぼくは仕方なく、自分の身に着けている品々を男のもとへと献上している。

 無線機に各種武装、ポーチにごっそり忍び込ませたマグや手投げ弾の類。さらには腰に付けたナイフまでをも男の足下に恭しく並べ終えると、ぼくは立ち上がり、薄暗い部屋の向こう、ぼくに年代物のコルトを向ける男とあらためて相対した。

「驚いたよ、まさかこんな素人じみた芸当が通用するとはね……」

 口元に驚きとも嘲りともつかぬ表情を浮かべて、男はそう言った。

 この男が、とぼくは思う。

 この男が、あの爆撃から始まった一連のイレギュラーの発端であり元凶なのかと。

 ぼくは脳内で、男の顔と司令部から受け取ったプロファイルとを再度、比較する。

 典型的アジア人種特有の、浅黒い肌に幅広の鼻。知的ではあるが、同時に神経質そうな印象を与える目元、そして年の割には多い白髪をごま塩にした髪型。

 間違いなかった。

 この何の変哲も無い、どこにでもいるような男こそ、政府内の特定勢力と繋がり、亡命を企てた要人と目される人物、トゥミン・ソバクだった。

 この男ひとりを逃すために、ぼくらの部隊は襲われた。ぼくらの前線基地が、彼の脱出ルートのギリギリ内側にあったばかりに。痛みを感じる間もなく焼き殺された。

「ぼくもそう思うよ。こんなことで訓練を受けたプロを無力化できると思っているなんて……」

 ソバクはナイフで切りつけたような目をさらに細めると、

「だが、実際できている」

 そう言って、持っているコルトの銃口をぼくの眉間に押しつけてきた。

 ぼくはたまらず、目をつぶって抵抗の意思がないことを訴える。

 数秒のあいだ、ソバクは丸腰の相手に銃を突きつけている優越を味わっているようだった。そして、ぼくの眉間から銃口を下ろすと、おぼつかない足取りで距離を取った。

 その挙動から、彼が素人であることがわかった。それも、銃口管理もろくにできない、何かの拍子にうっかり引き金トリガーを引いてしまうようなレベルの素人。

 軍に入ってからこの方、この種のノンプロを相手にするのは久しぶりだった。こういう相手には、挑発行為はたんにリスキーなだけであり、おまけに交渉の余地も少ない。どれをとっても、ぼくには思わしくない状況だった。

「あんたは誰だ」

 不躾にぼくはそう言った。この際、自分の持っている情報は伏せておく。

 ソバクは、ぼくの言葉に一瞬、鼻白んだような様子を見せると、

「そんなことも知らずに来たのか」

「軍はぼくに、あんたの写真と最低限の認証記録しか渡してくれなかった。だから、あんたのことは何も知らない」

「軍というのは、何も知らない人間を使いっ走りにするようだな」

「仕方ないだろう。そういうものなんだ。あんたも組織ってものから逃げだそうとした口なら理解できるんじゃないかな」

「私は、逃げてなどいない」

 ソバクが声を張り上げた。見れば、こめかみにうっすら筋となった血管が浮いていて……。ぼくはそこで、期せずして彼の神経を逆なでしてしまったことに気づく。

 ソバクは続けて、

「私は正しいことをした。その結果、正しくない者たちに目を付けられるようになった。

 そして、そのことに何の違和感も覚えないような軍や警察の連中が、私のことを付け狙うようになったのだ」

 そう言って、震える手で再度、銃を握り直した。あまりにグリップを強く握り込んでいるのか、銃がカタカタと小さな音を立てる。

 ぼくはそこで驚いた。彼の握る年代物のコルトは、ポリマーもICチップも入っていない、いわゆる裸の銃だった。

「私には撃てないと、そう思っているんだろう」

 ぼくが銃に注ぐ眼差しを曲解してか、ソバクが言った。

「この銃は電子化されていない、リスクの無い銃だ。つまり誰を撃とうが追跡されることはない。いいかね、この引き金は君が思っているより軽いぞ」

 ぼくはソバクの脅しに生返事で応える。

 あらゆる電子的な追跡から逃れるには、そもそも追跡されない銃を使えばいい。

 シンプルな理屈ではあるが、やや現実味に欠ける論理でもある。

 今の時代、普通の銃を手に入れるよりも、電子化されていない旧世代の銃を手に入れることの方がよっぽど難しい。旧世代の銃火器が温存されているのは、戦闘が多発する地域がほとんどで、そこでは管理の行き届いていない粗悪銃チープガンが出回り、売り手にしても犯罪者くずれが多いからだ。そのリスクは、正規の銃を違法に使うリスクを遙かに上回る。

 結局、それで掴まされた銃がグリップを握り込んだだけで音を立てるような粗悪品であるというのがそのいい証拠だ。それでも、銃は銃だ。依然それがぼくの脅威であることに変わりはない。

「あんたの言いたいことはわかった」

 ぼくは相手の反感を買うことがないよう、低く落ち着いた口調で話しかけた。

「ぼくはあんたの言う、正しくない連中というのも知らない。ぼくは国連の平和維持活動部隊だ。ベトナム政府やその内部の派閥争いからは無縁のところからきた」

 ソバクは「それで」と先を促す。

「だから、あんたに危害を加えるつもりは一切ないということだ」

「君の状況なら、誰だってそう言うだろう」

「ああ、そういう理解で構わないよ。だけど、ぼくがあんたのことを知らなくて、あんたの言うことにもさっぱり見当が付いていない人間だってことぐらい、見ればわかるだろう」

「君はいま自分の無知をさらしているのかね?」

 ソバクが笑って言った。いちいち癇に障る言い方をする男だった。

 ぼくは顔にまで上ってきそうな苛立ちをすんでのところで抑えて、

「ああ、そうだ。ぼくは無知だ。なんなら、ぼくの腰にあるリーダーを使えば良い。それでぼくのIDを読み取れば、ぼく言っていることが本当だとわかるはずだ」

「なぜ、私がそんなことをしなければならないんだ」

「お互い情報を出し合わないと状況は進展しない。そうだろう?」

「私は別に状況の進展を望んでいるわけではないんだがね……」

 ソバクはそう言って、困ったようにため息をついた。

 ぼくはそこで、思わず笑いそうになる。というより、ここまで取り付く島のない態度には、もはや笑うしかないというのが実情だった。

 こういう相手には、交渉も取引もあり得ない。交渉とは、譲歩を引き出すことのできる相手にしか成立しない。そして取引は、常に優位に立つ側からしか提案されない。銃を突き付けられたぼくには、そのどちらも無いことは明らかだった。

 ソバクは再度、大きくため息をつき、

「もうすぐここに迎えの車が来ることになっている。本当はいますぐにでも君を殺すべきなんだろうが、あいにく私は人殺しではないからね。自分の手をわざわざ汚す理由もないし、そんなトラウマを抱える道理もない。そう思わないかね?」

 そう言って、ソバクはぼくの反応をうかがった。ほとんど恐る恐るといった感じで、まるで遠巻きに野犬でも見るような目つきだった。

 ぼくはそこで考えた。

 おそらく、彼は人を殺した経験がない。それは確かだろう。

 しかし、それは彼に善良な心根があるだとか、人の命を奪う行為に抵抗があるということを意味しない。

 なぜなら、多くの場合、殺人とは単に必要の問題でしかないからだ。

 目の間にいる人間を殺すか、殺さないか(あるいは殺さないことでどのようなリスクが生じるか)。普通の人間は、そんなことを判断しなければいけない状況に出くわさない。ぼくら軍人のように、人を殺すための訓練を受けることもしなければ、その意思決定の方法を学ぶ機会にも縁が無い。

 つまるところ、ぼくを殺せば――たとえ、それが理に適った殺人だとしても、そこに生じる諸々の倫理的判断や葛藤というものを、彼は自分の問題として引き受けなければならない。彼としては、そんなことは御免被りたいというわけだ。

 同時に、彼は職業的殺人者であるぼくや自分の護衛の兵士に、そういう葛藤はないものと思い込んでいる。日本人のぼくと白人の肌の色が違うように、殺す者の感性とそうじゃない者の感性がまったく別個のものとして存在していると、そうみなしている。

 だからぼくと会話することも、ぼくと何らかの合意を作り出す必要も彼にはないのだ。

それは彼の必要の範疇に含まれるものではない。

「……」

 ぼくは静かに頷いた。

 アプローチの方法を変える必要があった。自分と他人を明確に峻別している人間には、感情ではなく利害に訴えかける話し方をする必要がある。

「なあ、あんた、馬鹿らしいと思わないか?」

 ぼくはそんなふうに切り出した。

「なにがだ?」

「こんなふうに付け狙われることさ。だってそうだろう? もしかしたら、軍の手違いかもしれないっていうのに……」

「手違いなのかね……」

 ソバクの視線がわずかにこちらに向けられた。

「それはわからない。でも、ぼくなら軍のかなり上の人間にも、あんたの話をすることができる。あんたの言うとおり、汚職警官の気まぐれで嫌疑をかけられたのであれば、軍の内部調査部が何らかの手を打ってくれるだろう。そうじゃなくとも、あんたの役には立てるはずだ……」

 ソバクが露骨に見下すような顔でこちらを見た。

「本気で言っているのかね? 軍は信用できない。というより、いまの話を聞いて、より信用できなくなったよ。手違いなど、あるはずもない。そもそも正当な根拠もなしに、一人の人間の自由を奪おうとする組織が、いまさら自分たちの誤りを訂正するわけないだろう。そんなことも分からないのか?」 

「だけど、そう言い切れる根拠もない、だろう?」

 ぼくはそう言って、ソバクの反応を待った。

 ソバクはそこで意外そうな表情を浮かべると、

「確かに、そのとおりだ」

 と初めてぼくの言葉に同意らしきものを示した。

 ぼくはそこでことにした。

「ぼくが思うに、あんた学者かなにかだ」

 ぼくの唐突な指摘にソバクは一瞬、驚いたように目を細める。

「学者ではない、研究者だ。どこにでもいる任期付きのね」

「じゃあ尚更、あんたは正しい手段でそのことを訴えるべきだよ。あんた、会見を開くといい。そこで声明を発表するんだ」

「会見に声明? いったい何の話をしているんだ」

 ソバクが訝しむように言った。

「いくら軍だからといって、好き勝手に振る舞えるわけじゃないということさ。あんたの罪状はいまのところベトナム政府内でしか結審されていない容疑のはずだ。それだって一部の買収検事だけで行った形だけの裁判に過ぎない。その事実を公表するんだ」

「公表したとして、いまさら私の処遇が変わるわけでもない。それとも、不正な裁判による罪状だから、可哀想にと皆に同情してもらうのか。賄賂や買収が横行する未成熟な国家のサンプルとして、君たち西欧諸国の試金石にしようとでも?」

 ぼくはそうじゃないと首を振って、

「国際社会に、あんたの潔白を証明してもらうんだ」

「どうやって」

「司法の信頼性が低い国では、裁判は往々にして国家権力を盾にした強権的な判決が下される。そういうものを裁くために国際刑事裁判所ICCや仲裁裁判所が常設されている……」

「知っているよ。手足のない巨人だろう?」

 ソバクが鼻で笑って言った。ぼくはソバクの皮肉には取り合わず、

「仮にそう思っているのなら、あんたの現実認識は少なくとも二十年は遅れていることになるな」

「ほう、そうかね」

「一昔前なら、あんたの言うとおり、ICCは国家の犯罪を裁けない置物のような存在だった。二〇〇〇年代中盤まで実質的な管轄権を行使できたケースはあっても数十件程度のものだったし、その判決の大半が勧告的意見という法的効力のない代物だった」

「そうだろうな」

 ソバクが興味なさげに頷いた。

「でもいまはそうじゃない。ユーラシア戦線が広がるにつれて、各国の状況認識も変わってきた。現にぼくらが派兵されたのも、ICCが現ベトナム政権に付託するかたちで軍事執行裁判を行ったからさ。

 それと同じように、あんたも国際社会の力を借りて、ベトナム政府ともう一度、正規の刑事裁判を起こすんだ。何なら、ぼくがどこか伝手をあたってやるのもいい。そういう人たちを支援するNGOや活動家はいくらでもいる」

 そこまで言ってから、ぼくはソバクの反応をうかがってみる。

 依然、彼の顔には軽蔑するような調子がありありと浮かんでいる。

 ティーンエイジャーのとき、ぼくはそういう種類の憐れみをいくつも目の当たりにしてきた。母がいないことで、みなぼくに同情していたし、ぼくに同情するとき、みな決まって、こういう表情を浮かべたものだ。

 それは、ぼくのなかに欠陥を見ようとする眼差し。母親がいないことで、こいつのなかにどこか正常じゃない部分があるんじゃないかと洞察する心理。

 いま、それらと相似を為す感情がソバクの表情にも表われはじめていた。

「君は少し勘違いしているんじゃないのかね……」

 ソバクが疲れた顔をして言った。

「君の言うような国際司法機関というのは、国家の機能不全があって、はじめて権限を行使できる機関だ。その点、ベトナムの文民政権はいまもなお健在で、司法府だって機能している。

 それに、君はあたかも一個人の公判と国家規模の戦争犯罪が同等であるかのように言ってみせたが……。はっきり言って、それは間違いだ。もしそういうあやふやな世界観を信奉しているのであれば、それこそ、君の現実認識の方が圧倒的に足りていない証拠だと、私としては思うがね……」

「だから、その潮目が変わってきたと言っているんだ」

 ぼくはあくまで平静な口調でそう繰り返した。

「いまやベトナムは機械産業やサロゲート事業のような基幹産業をいくつも抱える、世界的にも重要なマーケットの一つだ。もしあんたが、そういう企業で雇用されていた研究者の一人となれば、当然話は変わってくる。そうだろう? そういう只中にあって、まだ自分のことをポストにあぶれた一研究者に過ぎないと思っているのなら、それはすこし考えが甘いんじゃないかな」

 ソバクは、今度は黙ってぼくの話を聞いていた。

 ぼくはなおも続けて、

「西欧諸国が守りたいのは、あくまで文民政権のもとで誘致されるマーケットや自国資本の流入した経済特区のようなプラットフォームだけだ。決して、そこに付随する国家というフォーマットなんかじゃない。

 つまるところ、あんたの価値というのは、あてがわれる物差しによって、いかようにも変わるということさ。ところで、今回あんたの亡命を手引きしたのはどこだったかな……。国軍か、それとも――」

 ソバクはそこでぼくの言葉を遮るようにして、

「御高説どうもありがとう。だが、君がいま言ったことを裏付けるような根拠は何一つない。所詮、すべて君の憶測に過ぎない」

 ソバクの言葉に、ぼくは静かに頷いた。

「そうだ。しかし、すべてが誤った憶測というわけでもない」

 ソバクはそこで押し黙ると、窓の外、黒煙がもうもうと立ち込める市街の方へと目をやった。まるで、ぼくなんかいないみたいに、こことは隔絶した世界から響く、銃撃や砲撃の音に耳を傾けていた。

「君の見立てが正しいとして、いまの私にはどうすることもできないな……」 

 そうして誰に言うでもなく、ソバクはひとりごちた。

 ぼくはそこで一歩踏み込んで言った。

「ぼくといっしょに来るんだ」

「なんだって?」

 ソバクが驚きに眉をつり上げた。銃口はすでに、ぼくとは見当違いの方向に向けられていた。驚きのあまり、自分が銃を持っていることさえ忘れているようだった。

「ぼくといっしょに来て、平和維持軍の収容所に入るんだ」

 ソバクは聞き間違えを疑うように、

「まさか自分から投降しろと言ってるのかね?」

「かたちの上でだけだ。いいか、あんたの身の安全を考えるのなら、民間の警備会社に委託された収容所がいちばんなんだ。下手に大使館なんかに逃げ込んでも、最悪、政府筋の人間に殺されるのがオチだ」

「だからといって、逮捕されに行くのは本末転倒だろう」

「そうでもないさ。ICCの拘置所か収容所に入れば、国連の選定した弁護人を通じてNGOとのチャンネルを作れる。拘置下でも、あんたの権利は充分保証される。それはローマ規定や国際刑事法にも明記されていることだ」

「それはそうだが……」

「公式の会見ができれば、そこから正規の調査機関による捜査が始まるかもしれない。そうじゃなくとも、検察官は公的な調査記録をベトナム政府に要請するはずだ。あんたの研究者としてのキャリアを考えた上でも、そうするのが最良の選択だよ」

 ソバクは頭を振って、

「残念だが、その最良の選択というのは、私が国外に出たあとでも充分に実行できるプランだ」

 ぼくはすかさず「それは違う」と反論した。

「あんたが逃亡したとわかれば、政府はお役所的な対応であんたの罪状を固めてしまうだろう。そうなれば、もう手遅れだ。国家にも面子というものがあるし、国際調停機関やNGOのような中立の組織も、結審された罪状がある以上、あんたの信用情報を割り引いて評価しなくちゃならなくなる。だから――」

「だから、いま君と平和維持軍に出頭すれば助かると……」

 そうだと、ぼくは力強く頷いた。

 数秒の沈黙のあと、

「君は本当に根拠もない憶測だけ物事を進めようとするね……」

 ソバクはぴしゃりとそう言った。

 たしかに、ぼくはいつになく饒舌だった。あまりに人を説得したいという思いが強すぎて、ぼくはいつだって軽薄なお喋りになってしまう。だからぼくは軍に入った。言葉で誰も説得する必要のない世界に身を置こうとした。

「根拠はあるさ。たった一つ、たしかな根拠が」

 ぼくの言葉にソバクが再度、こちらを見た。

「みな、真実を知りたがっている。ベトナムの人々だけじゃない。世界中の誰もがそう思っているはずだ。なぜこんなことが起きたのか、なぜ自分たちの平和への思いが裏切られたのか。それを理解した上で、この現実というものを直視したいはずだ。それだけは、間違いのない真実だ」

 ぼくはそう宣言した。口調はほとんど、捲し立てるようなもので……。自分自身、この異様な興奮状態に歯止めを掛けることができなかった。

 ぼくはそのままソバクの構えるコルトの前に歩み寄った。銃口は、もはやぼくの額を正確に打ち抜く位置に据えられている。

 それでもなお、ぼくは躊躇うことなく一歩踏み出した。

「だから、あんたはぼくと来るべきなんだ。亡命なんてせず、正々堂々と国際社会に対して自身の身の潔白を証明しなくちゃならないんだ」

 そう言って、ぼくはソバクに向かって手を差しのばした。

 そして待った。ただじっと、この手が握られるのを待った。

 誰かがぼくの手を取り、ぼくの言葉に同意を示すこと。そうして、本質的に異なる他者に満ちた世界が、ぼくのことを受け入れることを。

 そうすれば、ぼくはこの世界を許すことができる。

 ぼくの意思というものが、この世界に実際的なかたちで作用し、変化をもたらすことをそこに確かめることができる。銃を手にこの世界を破壊して回らなくてもいい理由を見いだすことができる。

 ふたたび、ぼくとソバクのあいだに長い沈黙が訪れた。

 銃は依然、ぼくの眉間に据えられたまま微動だにしない。ソバクも同様に動かなかった。視線を落とし、ただじっと、差し伸べられたぼくの手を見つめている。

 ゆうに三十秒は、ぼくらはそうやって向かい合っていただろう。

 ややあって、ソバクが足を引きずるようにして後ずさった。

 彼はぼくから距離をとると、まだ手を差し出したままのぼくに向かって言った。

「残念ながらそれは違う。君の言っていることは間違っている」

 自分の指先に力が入るのを感じた。怒りが、ものすごい勢いで身体中を駆け巡るのを感じた。

「なぜそんなことが言える」

「人々の言う真実とは、都合のいい現実の一部を切り取ったものにすぎないということを知っているからだよ」

「それはあんたがそう思いたいだけだ」

 ぼくは激情に任せて言った。

「いいや、違う。言ったはずだ、私は正しいことをしたと。私は正しいと思われることをしてきた。何年も何十年のあいだも、私はそうして生きてきた」

 意味がわからない。

 ぼくはそう言って、男の構える銃が自分の胸元に触れるのも構わず、

「それでは筋が通らない。正しいことをしたと信じているのなら、なおさら、あんたは真実を語るべきなんじゃないのか?」

「それは君の言う真実とやらが、これまで正当に評価されていればの話だよ」

「あんたはさっきから何を言っているんだ」

 ぼくはなかば半狂乱になって、ソバクに詰め寄った

「単純にして明快な話だ。世界は君の思っているようにはできていないし、実際、君だって自分の言った言葉をそこまで信じているようには見えない。私たちの生きる現実とは、あらゆる価値の基準や指標というのが、混然一体となった無秩序なものだ。君がそうあってほしいと思う願望を、私たちの世界の真実に含むことはできない」

「なあ、ぼくを殺さなくていいのか」

 ぼくは言った。

「言ったはずだよ。君のことは殺さない。それより、さきほどの質問に応えよう。君の言うとおり、私はのバイオテックで働いていた研究員の一人だ。研究内容は人類の生殖プロセスに破滅的影響を与える、ある遺伝子の分析とその生物学的指標バイオマーカーの特定。とくに新生児に深刻な障害をもたらす、遺伝形質のね」

「ある遺伝形質……」

「奇形遺伝子の解明は、政府省庁の主導のもと進められていた国家プロジェクトの一つだった。次世代の再生産が阻害されることは人類にとって喫緊の課題だったからね。これを解決するためには官民問わず、あらゆるセクターの協力が要請されたのだよ」

「そこにあんたも……」

 ソバクは「そうだ」と頷いて、「私は自身の知的生活のすべてを、そのプロジェクトに捧げてきた。しかし、プロジェクトの最終段階になって、政府は突然、プロジェクトの凍結を決定した。到底、納得できるものではなかったよ。秘密保持契約は、メディアへのプレリリースはもちろん、公的な研究機関への転属も禁じていた……」

「研究は失敗した。そして、あんた自身、追われる身となった……」

 ぼくの言葉にソバクはただ首を横に振った。もう何度もそうしてきたのだろう。諦めというにはあまりに達観した態度でソバクはぼくの方へと向き直った。 

「研究は成功したよ。拍子抜けするほど、あっさりとね」

「なに……」

「遺伝情報をRNAに転写するエピゲノムの化学構造はそれこそ何十年も前に解析されている。あとは、どのエピゲノムが異常を起こしているのを特定するだけだった。つまるところ、我々の研究はとっくの昔にわかっていた事実をあらためて補強したに過ぎない。研究としては成功だが、当然、プロジェクトとしては失敗だった。少なくとも政府はそう判断した」

「どういうことだ。成功したのに、失敗したというのは。あんたはその研究で何を知ったんだ……」

「君がそれを知る必要はない。それに君との話もここでおしまいだ」

 ソバクは出し抜けにそう言うと、ぼくから距離を取り、構えていたコルトの撃鉄ハンマーを起こした。その所作は間違いなく引き金に指を掛けることのできる人間のもの。人を明確に撃ち、殺すことのできる意志の力を感じさせるものだった。

「ぼくのことは殺さないんじゃなかったのか」

 思わず、言葉が口をついて出た。

 ソバクは慇懃に頷くと、

「喋っていて気が付いたよ。君、身体を機械化しているだろう? それも腕や脚だけじゃない。内臓含め、ほぼ全身を代替ボディに置き換えている。そのレベルの機械化率であれば、手や脚を撃たれたところで、生命維持に支障はないはずだ。私も安心して君を撃つことができる」

 そう言って、ソバクは銃口をぼくの脚へと向けた。

「私は一足先に案内人との合流場所に行かせてもらう。君の処遇は彼に任せることにしよう」 

 そして、最初の一発がぼくの足もとに着弾した。

 ぼくは慌てて、コルトの火線から身を躱すように後ずさる。振り向けば、すぐそこまで壁が迫っていた。ぼくは部屋の角、四隅の一角に追い詰められていた。

「あんた、こんなことが本当にうまくいくと思っているのか」

「私のように海外に渡った研究者は何人もいる。それとも、君が死なない程度に私がうまくやれるかという話かね」

「そうじゃない」

 ぼくは断固とした口調で言った。

「あんたがここから生きて出られるのかって話だ」

「なに……」

 ぼくは何気ない動作でソバクに近づくと、コルトの銃口部分をかるく手の平で押した。

 拳銃というのは、作動部であるスライドを抑えられると引き金トリガーがロックされる仕組みになっている。これは構造的にそうなっているもので、つまりはいまの動きでぼくはソバクの構えるコルトを完全に無力化したのだった。

 そのまま、呆けたように引き金を引き続けるソバクの指を、ぼくは拳銃ごとひねり上げ、へし折った。ぱきりと骨が砕ける音とともに、短いうめき声がソバクの口から漏れ出る。

 そして次の瞬間、ぼくはソバクを床に引き倒し、その後頭部にコルトの銃口を据えていた。

「だから言ったんだ。こんなことでプロを無力化できると思っているのかって」

 ぼくは人を殺すための訓練を受けたプロだ。たとえ銃を突き付けられていたとしても、素人ひとり制圧するのなんてわけないことだった。

「あんた、自分がどうなると思ってたんだ。軍や警察があんたを指名手配していて、それでぼくという追っ手が現われた。そういう状況で、自分が助かるビジョンっていうのを、あんたはどう思い描いていた?」

 ソバクはなんの反応も示さなかった。どうやら床に引き倒された際の衝撃からまだ回復できていないらしい。ぼくはため息をつくと、ソバクのうなじ辺りにコルトの銃口を乱暴に押し当てる。途端、我に返ったようにソバクが叫び声をあげた。

「私を殺すのか」

 ソバクの言葉に、ぼくはただ短く「ああ」とだけ応えた。

 代替ボディはセキュリティの観点上、外部音声をログとして記録している。当然、そのログを解析すれば、先程までのぼくとソバクの遣り取りはすべてデータとして抽出することができる。

 それはつまり、ぼくがこの作戦においてどのような立場にあったのか――それを証明するに足る客観的な証拠が、このぼく自身の身体に、記号の連なりとして刻まれているということだ。

 あとは、大手のメディアや記者にそれを渡せばいい。たとえ、提供した情報にクリティカルな証言が含まれていなかったとしても、彼らはソバクの語った政府の機密プロジェクトの存在、さらにはそれに伴う一連の亡命騒ぎの核心に迫ってくれるだろう。

 そして、ぼくの安全はもちろんのこと、世界は自身の安全についても、その意義を問われることになる。安全保障という名の、終わりの見えない不毛な論争。それがきっと、ぼくと、ぼくの罪とを切り離してくれる。 

 だから、もうどんなことにも興味はなかった。この男の生死にも。熱く粘ついた空気がまとわりつく、このベトナムの大地にも。

「あんたを殺すことにするよ。もう生かしておく理由もない」

「待て、話を聞いてくれ」

 ソバクがうつ伏せのまま、そう懇願した。

「取引するつもりはないと言ったのはあんたの方だ」

「取引ではない。話を聞いてほしいと、そう言ったんだ」

「取引も、話もしない。軍にはあんたを殺せと言われている」

 そう言って、ぼくはコルトのスライドを引いた。弾頭が滑らかに薬室へと装填される。粗悪銃かもしれないという懸念はぼくの杞憂だったようだ。

「君は言ったはずだ。自分たちが置かれている状況を知りたいと。私ならそれを教えることができる。知りたくないのか?」

「ああ、そうだな」

 ぼくは言った。

「知りたくない」

 正真正銘、錯乱した悲鳴がソバクの口からほとばしり出た。

「私には協力者がいる。君と同じ、軍の人間だ。その情報が必要なはずだ」

「それはあんたを殺してからでもわかることだ」

 そのときだった。

 不意にデジャブにも似た感覚にぼくは襲われた。

 ぼくはあたりを見渡す。いつもながらに思う。ぼくという人間は、いつだって気づくのが遅い。兵士になってようやく、ぼくは自分が恵まれた境遇にあったと気づいた。母さんがいなくなったあとで、ぼくはがらんどうの部屋の広さに気が付いた。

 目線を横にやると、ぼくの真横、数センチのところに、銃口の切っ先が音もなく姿を現わしていた。距離からして、ずいぶん前からぼくに狙いを合わせていたはずなのに、ぼくはそれに一切、気づくことができなかった。

「銃を下ろしてください」

 聞き覚えのある声が響いた。

 ぼくは手を挙げて、銃を床に捨てた。

 そして両腕を掲げたまま、なんの因果か、ソバクに銃を突き付けられたときとまったく同じ構図で、ぼくはゆっくりと振り返る。

 そこに、ジホがいた。

 あのとき、空対地ミサイルの直撃で吹き飛んだはずのジホが、そこに立っていた。

 構えた銃を、あやまたずぼくの方へと向けて。



「あの爆撃で死んだと思っていた……」

 ぼくはそう言って、部屋の隅、陰となっている一角を見つめた。

 じっと目を凝らすと、薄闇のなか、確かな実体を持った影がゆっくり近づいてくるのがわかった。その影は、幽霊でもなければ、ぼくの妄想の産物でもない。腕も足も生えているし、何より、生きている人間の『そこにいる』という強烈な存在感を放っている。

 とはいえ、ぼくにとっては、それはあまりに馴染みある姿形をした影だった。

「お久しぶりです、隊長。といっても、まだ半日も経っていませんが……」

 影――ジホはそう言うと、銃口はこちらに向けたまま、ふっと力なく相好を崩した。

 思いもよらぬ邂逅だった。

 死んだと思っていた人間。そうでなくとも、もう無事に会うことはないだろうと思っていた仲間。それがいま目の前にいて、最後に会ったときと変わらず、その明敏な眼差しをぼくへと向けている。

 ぼくは唖然として、ジホの姿を食い入るように見つめた。

 アーマーのあちこちに煤を付けているものの、ジホの身体は五体満足そのもの。広場で、あの苛烈な爆撃に巻き込まれたとは思えないほど、傷一つない姿をしていた。

「ジホ、どうやって……」

 ――生き残ったのか、ぼくがそう続けようとしたのを察したのか、ジホは「運がよかったんです」と切り出した。

「最初の弾頭は例の通信車両を狙ったものでした。誘導弾による精密爆撃といのが、かえって功を奏したのでしょう……。俺は初弾の爆風にさらわれて、広場の外へ。驚くことに、現場から二〇メートルは吹き飛ばされましたが、それで助かりました」

 そう自嘲的に笑うと、ジホはすぐさま表情を硬くして、唇の端を噛んだ。

「本当に運がよかったんです……。ドヒョンやジェイ、ほかのみんなは俺のようにはいかなかった……」

 自分だけが生き残った。自分一人だけが、苦痛や恐怖のなか、命を奪われるという状況から疎外され、生き延びてしまった。

 ぼくがついぞ思いもしなかった、そういう悔恨にジホはいま囚われていた。

「ジホだけなのか……。ほかに生き残った隊員は……」

 無神経な発言だとは知りつつも、ぼくはそう訊いてしまう。

 ぼくの問いにジホは無言で頷くと、懐から小破片らしきものが詰まったポリ袋を取り出した。袋の中身がからからと乾いた音を立て、ぼくの目の前で踊る。

 それは軍が発行し、ぼくら兵士全員に埋め込まれている個人認証用のIDタグだった。

「残念ですが、生き残りは俺と隊長以外はいません。みんなのタグはすでに回収してあります。死体は回収できませんが、タグだけでも国に返すことはできます。遺された人たちへの、せめてもの手向けです」

 そう言って、ジホは悼むように目を伏せた。

 悲嘆に暮れた表情で、そう悔恨してみせた。

 ぼくにはその態度は理解できなかった。

 つまるところ、そのゴミがみんなの墓標になるという話だった。タグに紐付けられた、ここではないどこかの国のデータセンターに記録された一つ一つのかすみたいな情報。それがぼくらの全人生、その生きた証に取って代わられる……。

 そう、ジホは言っているのだ。

 どこかで窓が開いていた。吹き込む風に視線をめぐらすと、客室の奥、バスルームのカーテンがこちらに手を振るよう、たなびいている。

 ジホはあそこの窓から侵入してきたのだ。音もたてず、仲間であるはずのぼくから、こそこそ身を隠すようにして。

 はっきりさせなくちゃいけない。

「なぜ、その男を守るような真似をするんだ」

 ぼくは言った。

 ジホの背後にいるソバクがびくっと身を震わせた。ジホが現れてからすぐ、ソバクはジホを盾にするよう、その後ろに隠れていた。その頭に銃弾を叩きこみたい衝動を抑えて、ぼくは続ける。

「その男ひとり逃がすために、ぼくらの部隊は全滅したんだ。わかっているのか」

「事情がありました」

「それは仲間を死に追いやった張本人を擁護するに足るなのか?」

 口調に少しばかり、怒気が滲むのを抑えられなかった。

 しかし、ぼくの怒りをよそに、ジホは「ええ、そうです」と事も無げに応える。

「俺自身、納得してやっていることです。それに先ほどまでベッドに縛り付けられていましてね……。危篤状態で意識を失っていたんです」

「意識を……」

 ジホは頷くと、やおら着こんでいた防弾ベストを捲り、腹部を覗かせる。

「相応の代償というやつです」

 そこにあったのは、皮膚――とは別物のなにか。ざらざらとした、まるでセメントを塗りたくったような、皮膚の成れ果てともいえるだった。

「手足は無事でしたが、その代わり、を持っていかれました」

 親水性ポリマーをベースにした樹脂製の人工皮膚。

 本来はストーマや瘻孔ろうこうのような体外に露出した組織部位に充填して使う保護剤を、ジホは欠損した組織を埋めるために代用していた。そのため、塗りたくられた保護剤の表面がモルタルのように固まって、硬質化した表面をさらしているのだ。

「開腹して止血したので、いまは安定していますが、それでも負傷した箇所が少々、厄介です。専門の医療機関で治療しなければ、数日後には腹膜炎で地獄を味わうことでしょう」

 それを聞いて、ぼくは狼狽える。

 腕や足が千切れ飛んだ仲間の死体を見たときは、こんなふうには感じなかった。

 ぼくはそこまで達観してはいない。人間、死ねばただの物であるとか、ぼくらは所詮、組織された細胞の寄せ集めに過ぎないとか、そこまで言い張る気は無い。それでも戦場という悲惨な現実を、ぼくはいくらか見知った気ではいた。

 けれど実際、死にかけている人間を見たとき、そういう達観が早々に瓦解していくのをぼくは感じた。仲間をこんなところで死なせたくないという情が、自分の裡からふつふつと沸き起こってくるのを止められなかった。

 ぼくは頭を振って、その考えを追い払おうとした。 

 いま確かめるべきことは、そこじゃない。

 なぜこのゲストハウスにジホがいるのか、どうしてこのタイミングで現れることができたのか。

 そして、奴を――なぜソバクをかばうのか。

 それを問いたださなければならない。

「いま、それは問題じゃない」

 そう言って、ぼくは一歩、距離を詰める。

 途端、ジホの構えた銃がぼくの足下、正確にはぼくの足下のコルトに狙いを定めた。ぼくの些細な動きにすら反撃を警戒しているのだ。

 構わず、ぼくは踏み出した。

「問題なのは、わかってやっているのかってことだ。その男がしてきたことをわかっていながら、銃口を奴じゃなく、ぼくに向けているのか。それがどういうことなのか理解しているのか?」

 ぼくの問いに、ジホは答えることはなかった。ただ、じっとこちらを見据えたまま、どんな表情も、どんな感情も表さない。いや、表さまいとしていた。

「どんながあろうと、軍の取り調べでは通用しないぞ。そのとき、いまのぼくの問いに答えられるような、正当性のある説明がなければ、軍はお前が戦争犯罪に加担したとみなすはずだ」

「そうでしょうね」

「いいか、ぼくのボディも――もちろん、お前のボディだって、この作戦が終われば軍に接収されるんだ。そのとき、ボディのログから何が起きたかを判断するのはぼくじゃない。上の連中だ。それをわかったうえで答えているんだろうな」

「ええ、充分わかっています。俺にそんな罪状があるとすればですが……」

 表情一つ変えることなく、ジホはそう白を切り通した。

 ぼくは確信した。ジホの行動は、やはり考えなしのものではないのだ。

 一見、普通に喋っているように見せかけて、ジホは慎重に言葉を選んでいる。自分が何を言うべきか、あるいは何を言わずにいるべきか、そういう計算のもと、ジホはぼくとの対話にのぞんでいた。

 そうやって核心的なことには触れずに、ぼくをソバクから引き離す。それがジホの狙いなのだ。

「ぼくの質問に、なに一つ答える気はないんだな……」

「俺に答えられる範囲のことなら何でも話すつもりです」

「そうか。なら、その傷は誰に治療してもらったのか言ってくれ。まさか、ひとりで開腹したって言うんじゃないだろうな。最低でも一人、施術できるような人間が傍にいたってことになる……」

「ええ、いましたよ。でも誰がいたかなんて知りません。意識を失っていたんですからね。知りようがないことです」

「もう一度聞く。、やっているんだな?」

 ジホは黙ったまま、応えなかった。

 ただ引き金トリガーに掛けられた指だけが、ぼくが決定的な一線を越えるのを待ちわびるよう、添えられていた。あれほど自分の考えというものを言葉で明瞭に表現してきた男が、最後には暴力ですべてを解決しようとしている。ぼくのなかに言いようのない怒りと失望感とが沸き起こってきた。

「下がってください、隊長」

 ジホが声をあげてそう警告した。同時に構えた銃口をぼくの額へと向ける。

「いいや、そっちが答えるのが先だ」

 ぼくはそう言って、さらにもう一歩踏み込んだ。もはや彼我の距離は致命的なまでに縮まっていた。

 しかし、ぼくが距離を詰めても、ジホは後ろに下がることはなかった。狭い室内で後退しても意味がないと判断したのだろう。なによりジホは、すでにぼくと相対する覚悟を決めていた。

「最後の警告です。それ以上、近づけば本当に撃ちます」

 ジホが引き金トリガーに掛けた指に力を込めた。前腕部の人口筋肉がわずかにぴくっと動き、本当にぼくのことを撃つつもりであることが見て取れた。

 一メートル。その距離が互いの許容できる限界の距離であり、境界線だった。

 これを越えたとき、ジホは確実に発砲する。

 ぼくはジホが境界線だと示した床のタイル、その継ぎ目部分の上につま先をゆっくりと這わせた。ぼくはまだぎりぎり境界部分に踏み留まっている。ぼくはこのまま、ここに留まっていたいだろうか。自殺したくないという意味ではそうだ。でもぼくの身体は、そんな思いとは無関係に、あちら側へと歩を進めようとしている。

 額から汗がひとすじ流れ落ちた。向こう側でジホが銃把を握り直すのが見えた。

 ソバクが声を上げたのはそのときだった。

「私が治療したんだ……」

 そう言って、ソバクは隠れていたジホの背後から姿をあらわした。

「彼を助けることで、自分の首を絞めることになりかねないとは承知していた。だが、助かる命だった。私はほかに選択肢を知らない……」

 ぼくはソバクの方に視線を移した。ジホが現れてから、我関せずと無視を決め込んでいた男が虫のいい話だと思った。

「自分でミサイルを撃ち込んでおいて、よく言えるな。あんたのやってることは、ただのマッチポンプだ」

 ぼくの指摘にソバクはため息をついた。

「あれは君たち平和維持軍のやったことだよ。私たちではない」

「なんだって……」

 ぼくは自分の耳を疑った。

「あそこにあった通信車両は私たちが使っていたものだ。だから、私たちがあの場所を爆撃する理由なんてこれっぽっちもないんだよ」

「でたらめを言うな」

「でたらめじゃない。君も爆撃の効果範囲を見ただろう。あのスケールの弾頭は君たち西側の軍隊、NATOの航空支援部隊がよく使うものだ」

「お前を手引きした連中のIDを見た。奴らはぼくら六章半(国連憲章第六章)とは管轄の違う国際治安支援部隊の連中だ。そういうこともありうるだろうな」

「そう思いたければ、別にそれで構わない。だが、私はありのままの事実を述べたに過ぎないと言っておこう。国境を越えるのが目的の小規模部隊が、孤立した敵部隊をわざわざ航空支援で空爆することがあり得るのかどうか……。それは軍人である君の方がわかっているはずだよ」

 ソバクの口調はあくまで淡々としていた。ただ起きたことに対するシビアな見解を述べているに過ぎない。そういった印象がソバクにはあった。そこには、先ほどまで自己の主張の正しさを声高に宣言していたはずの男の面影はどこにもない。

 代わりに、ぼくがそこに見るのは研究者としての一面――真理の探究のため、物事の正否を明らかにしようとする理性の体現者としてのそれだった。

 突如として、ぼくは自分がソバクの話に虚を突かれていることに気が付いた。

 いまぼくは、自身が否定したいものを前にして、あからさまに荒唐無稽な理論を持ち出そうとしている。それはつまり、ぼく自身、ソバクの話のなかに認めるところがあるということだ。

 ぼくは焦燥に駆られて、ジホの方へと振り返った。ぼくに見つめられたジホは、苦り切った顔で、ただ口を閉ざしている。

「じゃあ、ぼくらは仲間の軍隊に殺されたって、そう言いたいのか」

「……」

 口を閉ざしたジホの代わりに、ソバクが「そういうことになるな」と補足した。

 ぼくは言葉を失って、その場に立ち尽くした。

 ジホさえいなければ、ぼくはソバクの言った話を否定することができただろう。

 所詮、保身のために国を捨てて逃げようとしている人間の言葉だと、そう決めつけて、彼の発言をくだらないものと一蹴することができたはずだ。

 しかしながら、この場にジホが現れたことでその前提は瓦解した。

 ジホがこの場所に現れた意味。仲間であるぼくに銃を向ける意味。なにより、敵であるはずのソバクを庇おうとしている事実が、ぼくに厳然たる事実を突きつけていた。

 ――わかってやっているのか?

 その問いは、ぼくにこそ向けられるべき言葉だったのだ。

「奴の言葉を本当に信じているのか……」

 いつしか縋るような調子でぼくはジホに問うていた。もはや否定も肯定も意味がないと知りつつも、ジホの口からなにか一つでも言葉を引き出したかった。

「北部革命勢力はドンナイ川の対岸まで迫っていました。だから軍は早急にジャミング元を破壊する必要があったのでしょう。たとえそこに誰がいようとも関係なかったはずです……」

「だから裏切ったのか。軍を、ぼくらを信用できなくなって……」

「そうとも言えます。ですが、これ以上の言及は避けておきましょう。隊長の言うとおり、俺はもう喋らない方がいい」

 そう含みのある言い方をすると、ジホは銃を下ろして、ぼくに近づいた。そのまま、ぼくの背後に回り込むと、膝をつかせ、ぼくの両腕にナイロン製のバンドを掛け始めた。

 ぼくは失意のなか、されるがままに腕を投げ出した。

 本来なら手錠か専用のギプスで拘束するのが望ましいところを、ジホは即席のバンドで手際よくぼくの両腕を固定してみせた。

 まだ基地にいたころ、捕虜の扱いに関する訓練でぼくは同様の経験をしたことがあった。あのときもまた、ジホはぼく相手に持ち前の器用さを発揮し、手首を肘を肩を、順繰りに縛り上げていったのをぼくは憶えていた。

 その皮肉な運命の巡り合わせに、ぼくは思わず、自嘲的な笑みをこぼさずにはいられなかった。



 両手と胴体、それぞれを固定するバンドが、ぼくの後ろでさらにもう一括りのバンドで結索された。試しに力を入れてみても、腕の固定はびくともしない。それどころか、腕を動かそうとすれば、連動して結ばれた肩部分の結束がより強固になるような感覚さえある。固定は完璧だった。

 戦火の音が間近に迫るなか、ジホは冷静に捕虜――もとい、ぼくの身体拘束をやってのけていた。

 最後に固定の具合を確認すると、ジホはぼくの腕を引き、部屋の真ん中に立たせた。長く膝をついていたせいか足が萎えていて、ぼくはその場でたたらを踏みそうになる。それでも、ぼくは自分の足でフロアの上にしかと踏み留まった。

 そのとき、横合いからソバクが姿を見せた。肩を固定され、首の可動域が狭くなった分、ぼくの視界からは突然、現れたように感じてしまう。

「すまない、先ほどはつい口を挟んでしまった」

 そう言って、少し離れたところから、ソバクはジホに話しかけた。

「彼が言うには、会話はログに記録されているとのことだが……」

「構いません。もとより、あなたを手引きしたことを隠し通せるとは思ってはいませんよ。捜査までの時間を伸ばせれば、それに越したことはないというだけです」

 そう言って、ジホはふたたびぼくの前に立った。手に黒い布のようなものを持っている。それは護送される囚人が頭に被るようなずだ袋だった。

「隊長。申し訳ありませんが、あなたを一時的に拘束させてもらいます」

「拘束してどうするつもりだ」

「我々の安全が確保できるまで大人しくしてもらいます。その後、国境の検問所付近で解放します。国境警備隊に保護してもらえば、国連軍の基地にはすぐ戻れるはずですから」

 それを聞いたぼくは思わず苦笑する。

「どうせ最後は殺すんだ。そんな嘘をつく必要はない」

「殺しませんよ。隊長のことは尊敬していますから」

「尊敬か、なるほど……」

 そう独りごちるぼくに、ジホは手に持った袋をぼくの頭に被せようとした。

 頭に袋を被らされる直前、ぼくはほとんど無意識に声を上げていた。

「最後にひとつだけ聞かせてほしい」

 その言葉にジホの手が止まった。依然として、どんな感情も悟らせまいと無表情に徹していたジホだったが、袋を被せようと宙に掲げられた腕が不自然にもそこで止まっていた。

 ぼくはそこで、ジホではなくソバクの方に顔を向けた。

「どうしても訊いておきたいことがあるんだ。トゥミン・ソバク、あんたにだ」

 なかば不意打ちにようにして、ぼくはソバクの顔を正面に捉えた。

 ソバクは、話の矛先を急に向けられたことで面食らっていた。その目線がしきりにジホへと向けられている。はたして自分がこの話に応じていいものかと判断を仰いでいるのだろう。

 ジホもジホで、ぼくの突然の行動には戸惑っているらしい。数秒の黙考のあと、最後には、答えてやれというふうにソバクに向かって頷いてみせた。

 ぼくは深呼吸をした。

 ここで何を訊いたところで、いまのぼくの状況が変わることはない。それは充分わかっている。それでも、ぼくには確かめずにはいられないことがあった。

「あんたはさっき、プロジェクトは失敗に終わったが、研究は成功したと言ったな?」

「ああ、そうだ。それがどうしたんだね」

「なら、なぜその研究結果を世界に向けて公表しなかったんだ」

「……どういうことかね」

 ソバクが怪訝な表情で言った。

「たしかにあんたの研究は失敗したものだったかもしれない。だが、それはあんたの雇い主であるベトナム政府の――いち政府の見解に過ぎないものだ。他国の研究機関や企業からすれば、充分、意義のある研究だったとは思わなかったのか?」

「……思わなかったのかと、問われたところで、私に答えられるはずがない。意義があるかどうかを判断するのは、私ではないのだからね」

「じゃあ、あんたの研究はスクラップ同然のゴミだったと……」

 ぼくの言葉にソバクが鼻白んだ。

「まさか。我々の研究水準は他国の研究機関と大きく水を開けていた。分子生物学、それに遺伝子工学の領域で我々の研究に追随する研究機関は数えるほどもない」

「じゃあ、なぜ亡命なんてリスクの高い賭けに出たんだ」

 ソバクは今度こそ驚いたようにぼくの顔を見つめた。

 ぼくは続けて、

「さっき言ったことが本当なら、あんたの研究はここ何十年かの奇形児問題を解決するもっとも重要な研究だったはずだ。それをなぜ、世界に向けて公表しなかったんだ? 亡命なんてせずとも、それで他国の研究機関や企業があんたのために便宜を図ってくれるとは考えなかったのか?」

 それは、ぼく自身ずっと疑問に思っていたことだった。

 ソバクの言葉を信じるならば、彼の研究はもはや国家や政治といったな枠組みに収まるようなものではない。奇形児問題の解決とは、人類という種の単位スケールで議論されるべきものであり、その研究の第一人者であるソバクもまた、国際社会の庇護下に置かれて然るべき人物であるはずだ。

 それなのに、ソバクは逃げ延びる手段として、亡命というもっともリスクの高い方法を選択した。前世紀、核物理学者やロケット技術者が亡命してまで国外に脱出したのは、自身の研究が科学の発展ではなく、大国間の開発競争というイデオロギーに利用されることを恐れたからだ。

 当然ながらそこに伴う危険というのは、ぼくらの時代のものとは根本から異なっている。ある覇権をかけて、大国間が懐に隠したナイフをちらつかせるような世界も充分、危険ではあるが、リソース不足に喘ぎ、全世界が日夜、全面的な闘争を余儀なくされるぼくらの世界だって、また別の危うさに満ち満ちている。

 そして、もっとも重要なことは、ソバクの研究は世界を破壊することはないということだ。彼の見つけた真理は原子爆弾や大陸間弾道ミサイルICBMにかたちを変えたりはしない。

 彼の研究とは、そうあるべくして産まれてくるものを生かし、そうじゃないもの――歪で、障害のある、間違った畸形を淘汰するためのものだ。そうして世界を元通りに戻すことを目的としたものだ。

 なのになぜ、ソバクは謀殺されるリスクを犯してまで、その知識をぼくらの世界から遠ざけるような真似をしたのだろうか。

 ぼくはそこでふたたびソバクの顔を見やる。ぼくはそこに悔恨の表情を見るはずだった。途方に暮れ、どうしてそんな過ちを犯してしまったのだろうと自責の念に駆られる男の姿を見るはずだった。

 しかしながら、ぼくの目の前にはそれとはまったく無縁のもの。あくまで変わることのない、ぼくに対する侮蔑と懐疑の視線だけがあった。

「君はなにか勘違いしていないか?」

「なに……」

「研究成果はすでに外部に公表済みだよ」

 ぼくは一瞬、ソバクが何を言っているか理解できず、そこで固まってしまう。

「プロジェクトは政府の機密事項じゃなかったのか……」

 ぼくの言葉にソバクは頷いて、

「一部にはそういう研究もあったが、ほとんどはそうじゃない。研究は政府の検閲とも、情報操作とも無縁のものだ」

「じゃあ、あんたの研究は初めからオープンだったと?」

「意外かね? だが、ネットで適当なジャーナルを検索すれば、すぐにわかることだ。我々はプロジェクトの発足当初から、精力的に研究成果を公表し続け、他国の企業やシンクタンクに営業と売り込みをかけていた。妥当性の追試検証という点でも、情報公開は別段、驚くようなことでもない」

 政府主導の国家プロジェクトと聞いて、ぼくが最初に思い浮かべたのは機密指定された極秘研究というものだった。荒涼とした丘の上、あるいは都市のビル群のなかに秘匿された最先端ラボ。そこに従事するIDで全体管理された職員たち。

 そういう先行したイメージがあっただけに、ソバクの言った――営業だとか、売り込みだとかの――凡庸極まる実態が、ぼくにはうまく想像できなかった。

「そんな高度な専門知に、ぼくらのような民間人がアクセスできるなんて……」

 ついそんな言葉を口にしてしまうぼくに「でなければ、公開情報オープンソースの意味がないだろう」とソバクが冷ややかに指摘した。

 数多の研究がそうであるように、ソバクの研究もまた科学研究の本懐であるところの、データや知識の蓄積による検証可能性や参照可能性といった概念に支えられている。

 それ自体は驚くことではない。しかし、だとすれば、ぼくにはどうしても納得できないことがあった。

「じゃあ、なんでぼくらはそのことを知らなかったんだ。そんな間近に答えを提示されておきながら、どうして誰もあんたの研究に思い当たらなかったんだ」

 ぼくの疑問にソバクは憤慨したように口を開いた。

「そんなもの、君たちが知ろうとしなかったとしか言いようがない。はじめから情報規制などなかったのだから、その責任は発信者の私ではなく、受け手である君たちの問題だよ。

 それに奇形出産を解決する方法はすでに答えが出ているからね。問題は、それをどう一般化し、政策に落とし込むかという実践面の問題でしかないわけだ」

 瞬間、とてつもない違和感にぼくは襲われる。

「いま、なんて言った?」

「……実践面の問題でしかない、の部分かね?」

「そうじゃない。奇形児問題にはすでに答えが出ているのところだ」 

 ソバクは何が疑問なのかといぶかしむように、

「先ほども説明しただろう。胎児に奇形を発生させる遺伝情報はすでに大まかにマッピングされ、解析されている。ただ直接的な因子である化学修飾情報エピゲノムについては、詳細に同定されていなかったというだけで、奇形児の発生を防ぐ方法自体はすでに判明している」

 ぼくは今度こそ言葉を失ってしまう。

 ――奇形児問題がすでに解決している?

 そんなはずはなかった。

 だったら、どうしてぼくは肉の身体を取り上げられて、こんな味気ない機械の身体に押し込められているのか。

 ただ、自分の持って生まれた身体で生きたいという単純なことすら叶わず、そこに関して、実用的な技術開発も、実践的な制度策定も為されていない。そんな状況で、いきなり奇形児問題が解決していると言われても信じられるはずがなかった。

「でも、自然出産で産まれた健康児は、もう何十年も前から途絶えているじゃないか。それに、途上国ではいまでも障害や欠損のある子どもがたくさん産まれてきている。そんな現状を前にして、あんたは奇形児問題は解決していると言っているのか?」

 ソバクはそこで無感情にぼくのことを指差した。

「では、君自身の身体はどうだ」

「ぼくの身体……?」

「そうだ。君は全身をほぼ機械化している」

 ソバクはそこで隣にいるジホのことも指差した。

「そこにいる彼もそうだ。君らの世代の軍人はみな例に漏れず、身体を機械化し、ボディペイメント・サービスで高機能な代替ボディを貸与されている」

「何が言いたい……」

「ボディペイメントで、戦場でも順応できるほど高機能な代替ボディを貸し付けるには、それなりの原資と担保がいる。原資――つまりは健康体で産まれてきた君たちの身体オリジナルだ。君たちはそれを担保に高機能な代替ボディを借り入れているわけだろう」


 ――わたしは自分の子どもが欲しかっただけなの。


 ぼくはいま、あのとき母さんが言ったことの本当の意味を理解した。

「まさか、ぼくらがその『答え』だって言うのか……」

 ソバクは頷いた。

「奇形のない子ども。クリーン・ベイビー。正常な次世代。君たちこそ『解決策』なんだよ。我々の世界が必死になって作り上げた次の世代そのものなんだ」

 驚愕に、ぼくは自分の口元が震えているのがわかった。

「培養セロファンに押し込まれて、工場生産で産まれてくるようなぼくらが解決策だって……。そんなの、ただの誤魔化しじゃないか……。根本的な原因から目を背けて……。ただ問題を先送りにしているだけじゃないか……」

 ぼくはそこでふたたびジホに視線を移した。

 一瞬だけ、ぼくとジホの視線がそこで交錯する。

 ジホは知っていたのだ。あるいは聞かされたか……。

 そして、それらすべてを諒解した上でソバクに協力していた。

 ――この世界を少しでも善くするために軍に入隊した。

 そう言っていたジホの言葉に偽りはなかった。ジホは初めから自身のカリスマに忠実でいただけなのだ。

 呆然とするぼくをよそに、ソバクは続ける。

「科学というのは、ある現象に対する一意な正解を出すためのツールではない。いま起こっている現象に対する理解、まずそこから始めるのが科学だよ」

「じゃあ、なぜぼくは自分の生身オリジナルを金持ちどもに貸したりしなくちゃならないんだ? 生まれた瞬間、負債を背負うような人生を生きなくちゃならないんだ?」

「それが適切な対価だからだよ。身体欠損や障害のない子どもを造るには、それ相応のコストが掛かる。

 ヒト胚培養を行うプラントの生化学的システムは、遺伝子にもともと備わっているエラー校正機能と同じ原理で遺伝情報を校正・修復する。遺伝子の突然変異や複製エラーの数というのは、およそ十の八乗分の一というオーダーであるから、これをシーケンス単位で監視し、ゲノム編集ツールを用いて校正を行うのはとてつもなく膨大な作業量だ。

 しかし、逆に言えば、適切な環境とオペレーションさえあれば、理論的にも――そして実践的にも身体欠損や障害のない子どもを造るのは可能なのだよ。だからこそ、莫大な費用を掛けて、君たちが産まれてきた」

「そんな実質的に払えないコストを前提にした解決策などあっていいはずがない」

 ぼくは声を荒げて言った。

 子は親を選べないと言うが、ヒト胚培養で産まれてくるぼくらには、その親すらいない。ぼくらを造るのは、精密機械とコンピューティングによる間違いのない神さまで……。神さまは、ぼくらのDNAが突然変異したり、癌細胞化するたびに、そっと指で触れ、正常な遺伝子を挿入ノックインしていく。ただし、そのたびにぼくらに付けられた賭け金は容赦なく吊り上げられていく。そんなもの、あまりに不義理な契約だ。

「だからこそ、代替ボディがあるんじゃないか」

 唐突にソバクが言った。

 ぼくはソバクの言っていることが理解できずに、

「……どういうことだ」

「私が発見したエピゲノムの情報があれば、ターゲット遺伝子である奇形因子の選定も容易になる。遺伝暗号コドンの索敵に必要な計算量が抑えられれば、必然的にシステムとしての効率は良くなるだろう。ヒト胚ひとりあたりの単価も大幅に下げることもできるはずだ。

 そうなれば、君たち軍人のような高収入だが危険の多い職業につかなくとも、誰もが現実的な融資計画で代替ボディを使えるようになる。もっとも、わたしの研究を無視した各国政府をはじめ、大手兵器産業はそれを望んでいなかったようだがね……」

「代替ボディは、ぼくたち軍人のために――国連から委託された特別執行補助業務のために作られたものだ。民間の製品とはわけが違う……」

 ソバクがそこで呆れたように笑う。

「まさか、そんな非現実的な建前を本当に信じているのかね。いまや、領空外スタンドオフからの空爆や無人航空機UAVによる間接攻撃が主流となった戦争で、たかだか歩兵を機械化して何の意味がある?」

「それは……」

 この二日間、ぼくらは二度に渡り爆撃を受けた。そして二度とも、ぼくらの部隊は壊滅的な打撃を受けた。

「いいかね、我々に残されたリソースを考えれば、この先、ほとんどの人類が身体の機械化を余儀なくされる。たしかに我々は、特効薬やワクチンというかたちで奇形児問題を解決することはできなかった……。

 だが、もはや選択の余地はないのだよ。医療制度や人々への情操教育というかたちで、サロゲート利用が進み始めているいま、それらを否定することは実質的に、生存の否定、人類の否定と同義だ。我々はどこかでパラダイムの変化を受け入れなければならない」

「だけど、ぼくらはそんなこと望んじゃいない。そんな世界をぼくは受け入れたくはない」

「では、何かほかに案があるのかね? 一方では産まれたときから手足がなく、目も見えず、今日食うにも困って泥水をすする子らがいる。そして、もう一方では、君のように健康体で産まれ、その身体を原資に機械の身体で不自由なく暮らす子どもがいる。その相反する世界の矛盾を君はどう説明するつもりだね」

「説明する必要はない。言葉なんて必要ないんだ。自然に子どもが生まれてこない世界に未来なんてない。あんたの言っている世界は歪だ。そんな持続性のない世界があっていいはずがない」

「だが、現にこうして持続しているじゃないか……」


 ぼくはそこで目を閉じた。

 ぼくはいま、自身のなかにあるカリスマを鮮明に感じ取っていた。

 偽物の血のなかに通い、偽物の拍動で全身をめぐる、その色鮮やかな感情のパターンを。

 紛れもなく、この機械の身体のなかに感じ取っていた。


 あのときぼくの差し出した手を取らなかったソバクへの怒り。

 同じ部隊の仲間でありながら、ぼくに銃を向けたジホへの怒り。

 そして、ぼくを生み出しておいて、その責任だけは都合良く社会に委ねた母への怒り。


 そのすべてが、ぼくに力を与えていた。 

 きつく固定され、麻痺していたはずの腕に血が通うのを感じる。

 萎えていたはずの足に急速に力が戻っていく。


 なぜ、気づかなかったのだろう。

 この怒りが、ぼくのカリスマだったのだ。 


「そうか……」

 ぼくはおもむろに立ち上がり言った。

「じゃあ、あんたを殺せば、そんな世界は実現しないわけだ」

「なに……」

 ぼくはそこで地面を蹴り、ソバクに向かって突進する。

「な……」

 いくら拘束されているとはいえ、合金製のボディで体当たりすれば、生身の人間を殺すことは充分に可能だ。

 ぼくは、アメフト選手のように顎を引くと、肩を突き出し、ソバクの頭部めがけて一直線に駆けていく。

 視界の向こう、ソバクはまだ反応すらできていない。

 ぼくのなかの時間がゆっくりと、コマ送りのように遅くなる。

 そして驚きに目を見開くソバクの顔がぼくの視界いっぱいに広がって――。

 瞬間、横合いから、ものすごい勢いで吹き飛ばされた。

「隊長、いったい何を……」

 ジホだった。

 ぼくを突き飛ばしたジホはそのまま、ぼくの腕を抱えるようにして、フロアの床にぼくを押さえつけた。肩から先を固められたせいで、ぼくは首を上げることもできない。

 それでもぼくは目だけを動かして、ソバクの姿を探した。

 ソバクは尻餅をつき、戦々恐々とした顔でぼくのことを見つめていた。

「いったい何を考えているんだ、君は!」

「あんたを殺す」

 ぼくは断固とした口調で言った。

 ぼくにはもうどんな種類の判断もいらなかった。

 軍が殺せと命じて、ぼくの意思もそのことを諒解した。

 この男を殺すのに、それ以上の理由は必要ない。

「そこをどけ! ジホ!」

 起き上がろうと力を入れた肩の駆動部からサーボモータの回転音が鳴り響く。

 しかし、関節を完全に固められた状態からでは、動くことすらままならなかった。当然、その上でぼくに体重を掛けるジホの身体もびくともしない。

「この体勢から起き上がるのは無理です。いますぐ抵抗をやめてください」

 耳元でジホがそう大声をあげる。

 ぼくはその警告を無視して、力任せに起き上がろうとする。

 サーボモータの回転音が一段階、跳ね上がった。もはや異音と形容してもいい空転音を響かせながら、駆動部がぼくの肩にトルクを送り始める。

「これ以上、負荷を掛ければ胸郭ごと腕が破断します!」

 ジホがふたたび怒号をあげた。

 それでも構わず、ぼくは上半身に力を込める。

 もはや凄まじいまでの怒りに駆られて、ぼくの身体は駆動し、動いていた。

 肩からはサーボモータが限界まで空転する音とともに金属の軋む厭な音が響き始めた。

 食いしばった歯の隙間からは血が垂れ落ち。視界は赤い警告表示に埋め尽くされる。

 その向こうで、ソバクがぼくを見ていた。飢えた痩せ犬を見るような目つきでぼくのことを見ていた。

「あんただけは許さない……」

 血の混じった唾を飛ばしながら、ぼくは野犬のように吠え立てた。

 ソバクがぼくの気迫に悲鳴を上げた。 

「なんなんだ、君は……。私がいったい君に何をしたと言うんだね!」


 あんたはぼくの仲間を爆弾で吹き飛ばした。

 あんたはぼくに銃を向けて殺そうとした。

 何より――


「あんたはぼくの信じていた世界を否定した。あんたの研究は、ぼくが価値を見いだそうとしたものすべてを殺してしまうんだ」

 ぼくの身体オリジナルはまだどこかで生きている。ぼくの手を離れて、ぼくとは違う位相で、もはやぼくの知る姿形ではないのかもしれない。それでも、それはぼくの身体に違いなかった。赤い血のめぐる、肉の仕組みで動くぼくの身体のはずだった。


「いったい、どうしてそうなる? この世界のなにが気に入らないっていうんだ!」

「あんたが都合良く逃げだそうとしているのが気に入らない」 

「狂っている。君は正気じゃない!」

 肩のサーボモータがひときわ大きな唸りをあげる。

 金属疲労を起こした腕に、次々に亀裂が入り始める。

「くそ、なんで……。なんで、こんな――」

 ぼくを押さえ込んでいるのが限界に達したのか、ジホが悲痛な声を上げた。

 直後、サーボモータの異音が不自然に止んだ。

「行け! この人は止まらない。先に合流地点に向かうんだ」

 ジホはそう叫ぶと、ソバクに向かって、行けと手を振った。

 ソバクが走り出し、扉の向こうへ消えた。


 そして、ぼくは全身に力を込めた。

 決定的な音がしたあと、もっとも負荷の掛かっていた肩の関節部分から、ぼくの腕がぐにゃりと折れ曲がった。そして、続く破断の連鎖はもはや一瞬の出来事だった。

 ぼくはそこで、飛び散り、宙を舞うネジやビスの一本までをも、その視界に捉えている。絹糸のように編まれた神経網ワイヤードが、絆され、きらきらと宙の光に溶けていく様を見通している。

 

 広場で爆撃を受けた際、外しておいた左腕の物理ロックが功を奏した。千切れ飛んだ左腕は、神経接続ユニットの基部を傷つけることなく、破断していた。

 だからぼくは、次の瞬間には走り出すことができている。

 左腕が千切れて、バンドで固定された肩と腕が自由になった。

 ぼくはその勢いのまま、ソバクを追いかける。しかし、護衛部隊のひとりがソバクと入れ替わるかたちで室内に飛び込んできた。

 ――やはり、部屋の外に監視を付けていた。

 ぼくは一瞬の判断で、兵士をタックルで怯ませると、拾っておいたコルトで至近距離から胸に三発撃ち込んだ。前のめりに倒れる兵士を脇に交わし、廊下に出ようとした瞬間、今度はジホがぼくに向かって突っ込んできた。

 ぼくはジホのタックルをまともに喰らい、そのまま向かいの部屋まで押し込まれてしまう。

「くそっ……」

 立ち上がったときには、すでにジホがライフルを腰だめに構えている。

 警告もなしにフルオートで撃ち込んできた。

 ぼくは狙いも定めず牽制射撃を行い、銃撃が一瞬止んだ隙をついて、部屋の隅にあるキャビネットの後ろに身体を滑り込ませた。

「ぼくの邪魔をするなら、お前も殺すぞ、ジホ」

 ぼくはそう言いながら、片腕でコルトのマガジンをリリースする。残り十発。ライフル相手にあまりに心許ない残弾数だが、複列弾倉のカスタムマグ仕様なのが救いだった。

 ぼくはそのままキャビネットの陰からソファの裏へと移動しながら、部屋の奥へ後退していく。少しでも出口に近い場所に、位置取りしたかったが、ジホの制圧射撃が的確にぼくの進行ルートを潰していた。移動しようと物陰から顔を覗かせれば、すぐさま、まとまった数のライフル弾が飛んでくる。

 完全に膠着状態だった。

 ソバクを追わなければならないぼくにとって、ここで籠城戦のようなかたちにもつれ込むのは何としてでも避けたかった――が、ジホの方もそれを理解している。つかず離れず牽制射撃を行うだけで、あからさまな時間稼ぎに徹していた。

 ぼくは冷静になって彼我の戦力を比較する。

 ジホの装備は小口径弾とはいえフルオート可能な小銃。そしてサイドアームの拳銃に各種近接兵装一式。

 対する自分は、片腕がなく、武器は残り装弾数が十発のコルト。ブーツに隠し持っていたナイフ一本。

 あまりに分が悪いが、唯一、勝機があるとすれば、それは近接格闘だ。

 ジホの腹部の負傷を考えれば、接近して格闘線に持ち込めれば、ぼくが有利に立ち回れる可能性がある。

 打って出るしかない。待っていれば、護衛部隊の応援が到着する可能性がある。

「まさか、奴の言ったことを本当に信じているのか」

 ぼくは飛び込む隙を探るため、声を張り上げ、ジホの反応を窺った。

「あの男の言ったことが本当だったとして、ヒト胚培養にコストが掛かるのは変わらない。依然として、金でぼくらの身体を買う愛好家スナッチャー連中の存在が消えるわけじゃない。ぼくらは結局、普通の身体で、普通に生きていく権利を永久に剥奪されるんだぞ!」

 暗がりのなか、ぼくはじっと耳を澄ます。

 ジホの応じる声から、少しでもジホの正確の位置を割り出す必要がある。

「構いませんよ。世界から一挙に、すべての悲惨をなくそうだなんて、俺も思ってはいません。それでも戦争や奇形で、飢えたり殺されたりする悲惨さから、手足や臓器を売って生き延びる悲惨さへと、少しずつでも移行すべきなんです。たとえこんな機械の身体に身を窶したとしてもね」

「それが騙されていると言っているんだ!」

 ぼくはコルトを連射しながら、物陰から別の物陰へと素早く移動する。すぐさまライフル弾による銃撃がぼくの真後ろを擦過していく。ジホの射撃は正確だ。次もまたこんなふうに動こうものなら、今度こそ矢ぶすまに射止められるだろう。

 それでもぼくは、ジホが陣取っているであろうリビングへと着実に近づいていた。それにジホからすれば、ぼくが出入り口に向かっているように見せ掛けることができているはずだ。

「結局、奇形出産の原因はなにひとつ解明できていないじゃないか」ぼくはジホが身を隠しているであろうリビングに向かって叫んだ。

「なのになぜ、それを疑問に思わない? ぼくらの遺伝子がいつの間にかおかしくなっているというのに、なぜそれを突き止めようとしないんだ?」

「それはいまに始まったことでもないでしょう。現在の社会は、医療技術の発展により、本来なら自然淘汰されるはずの個体が作り出した、生物学上、類のない遺伝環境だと言えます。

 これは統計的に確認できる事実です。前世紀から成人男性の作り出す精子の数は著しい減少傾向にある。人類という種の多様性はすでに失われているんですよ」

「宗教勧誘の次は、優生学の講義でもするつもりか」

 ぼくはせせら笑って言った。

 しかし、ジホは続けて、

「いまや先進国にいるほとんどの人間は、各種感染症予防のためにワクチン摂取が義務づけられています。免疫活性のためとはいえ、無毒化したレトロウィルスやDNAウィルスを次々と取り込み続ければ、これは一種の遺伝子の水平伝搬と言えるでしょう。

 科学的な観点から言えば、これは、たった百年程度の知見しかない対照実験と言い換えることもできます。ようは、どこまで正しさを追求し、それに追従するかという話なんですよ」

「何をごちゃごちゃと……。単に自分の頭で考えようとしない奴らが嫌いだと言えばいいじゃないか。生にまつわる薄汚い権力が気に食わないとそうはっきり言えばいいじゃないか!」

「仮にそうだとしても、俺はそういう世界で生きることを選びます。家族や兄弟、そして隊長を含めたすべての人たちと折り合いを付け、生きていく。隊長のように勇み足にすべてを否定しようとは思いません」

 もはやいたちごっこの様相を呈する対話にぼくは飽き始めていた。

「だが、お前のやってることは、銃を手に取り、暴力で気に入らない人間を黙らせているだけだ」

 ジホはそこで笑い声を上げたかと思うと、一転して、低く抑えた抑揚で何事かを呟いた。

「『主は私の手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださった』……」

「……何を言ってる」

「旧約聖書、詩編の一節です。俺は、愛する人々を守るために武器を手に取ることを矛盾したことだとは思いません」

「本当に……話にならないな」

 ぼくはそう言って、物陰から飛び出した。

 いまがその好機だった。

 ぼくは、神経網ワイヤードで辛うじて繋がっている左腕を盾にすると、ライフルの火線のなか猛然と突き進んでいく。

 その向こうでジホの驚いた顔が見える。

 ぼくはコルトを発砲した。ジホがたまらず、ライフルを下げて、遮蔽物に身を隠した。

 迷わず、ぼくはナイフを構えて飛び込んだ。

 ――近接戦闘。

 ぼくはナイフを腰だめに構えると、それを思い切り突き出した。技芸も何もあったものではない力任せの突きだが、それだけに対処の難しい攻撃だ。

 ジホはぼくのナイフを捌ききれず、ライフルを保持していた右腕でそれを受けた。

 ざっくりと裂けた皮膚から鮮血が飛び散った。

 ――これで右腕は潰した。

 状況を仕切り直すためか、ジホはライフルのストックでぼくを押し返すと、ステップを踏んで大きく後ろに後退した。

 ここでジホは選択に迫られる。

 再度、ぼくのナイフを受けるために素手で近接格闘をするか、拳銃、あるいはナイフを手に取るか。

 おそらく素手を選ぶことはない。単純に、ナイフ相手に不利になるからだ。そうなれば、必定、拳銃かナイフの二択になるが、どちらを選ぶにしても、いま保持しているライフルを捨てて、得物を手に取る必要がある。

 そして、その一瞬の隙が、ぼくの狙いだった。

 洗練されたメソッドに頼らずとも人を殺すことはできる。

 ぼくは先と同様、がむしゃらにナイフを突き出した。

 対するジホは――。

 拳銃を選んだ。

 スリングでライフルを背面に回し、そのままホルスターの拳銃に手を掛ける。

「遅い!」

 ぼくは猛然と突きかかって、構えようとしたジホの左腕を拳銃ごとは打ち払った。

 うっと短い声をあげて、ジホが拳銃を取り落とす。

 ――これで終わりだ。

 ぼくはナイフを掲げて、ジホの首めがけて振り下ろした。

 そこで予想外のことが起きる。

 ジホは切りつけられ、使えなくなったはずの右腕で、ぼくのナイフを受けたのだった。


 機械化部品は、一度損壊すると完全に機能が失われる一方、生身の肉体は刺されたり撃たれたりしても、場合によっては動かすことができる。それは筋肉というのが、生理学的機序でそれぞれ別個に動くアクチュエータに覆われているに等しいからだ。

 そのことをぼくは完全に失念していた。

 ぼくが振り下ろしたナイフはジホの甲を刺し貫いて、そのまま貫通する。ジホはそのままナイフごと、ぼくの手を掴んで引き寄せると、空いている方の腕でぼくの頭を強かに打った。

 衝撃に意識が揺らぐ。

 続けて、ジホがぼくの胴に蹴りつけた。ぼくは吹き飛ばされ、無様にも床を転がった。

 そして、起き上がろうとしたぼくの頭にジホが拳銃を突きつけていた。

「終わりです」

「わかった。ぼくの負けだ。だから殺すな……」

 ぼくは手をあげると、抵抗の意志がないことを示す。

 ジホはそんなぼくを見て、銃を下ろすと、ぼくに立ち上がるよう促した。

 しかし、立ち上がろうとした足に力が入らない。見れば、右の太ももに小さな穴が空いていた。おそらくライフルの火線に飛び込んだ際、撃たれたのだろう。すぐさま自己診断プログラムを走らせ、損傷箇所を検索させると、辛うじて歩くことはできるが走るのは無理だろうということがわかった。

 ここでぼくの敗北は決定的なものとなった。


「隊長、これを……」

 そう言って、ジホがぼくの前にメモリーカードを置いた。

「俺が軍を裏切って離反したことがそこに記録されています。それを軍に提出すれば、隊長が疑われることはまずないでしょう」

 もはや言葉もなく、ぼくは曖昧に頷き、メモリーカードを手に取る。

「俺は行きます。その腕と足で追ってこれるのなら、もう止めません。しかし、そのときは容赦なくあなたを撃ちます」

 ジホはそう言うと、ゆっくりとぼくから離れていく。最後までライフルの照準をぼくに

合わせたまま、ぼくのもとから去っていく。

 ぼくにはもうジホを止める意志も気力も残されていなかった。

 あれほどぼくを突き動かしていた怒りもいまは萎えて、ただ泥のような疲労感だけがぼくの身体を満たしている。


 そのとき、ぼくの耳に聞き覚えのある低周波がこだました。

 ぼくは何が起ころうとしているのかを瞬時に理解する。

 ぼくはメモリにアクセスすると、作戦経過時間と同期してある国際時計の時刻を確認した。

 一五:四〇。


 ――特殊作戦航空連隊SOARによる近接航空支援にはまだ……。 


「早すぎる……。くそっ――」

 そう先に反応したのはジホの方だった。 

 ジホは踵を返し、部屋の外へと走って行った。

 ぼくは立ち上がり、急いでジホの後を追いかけた。

 しかし、撃たれた右脚はまともに機能せず、地面を蹴る余力すら残されていない。もはや機能しない右脚を松葉杖のようにして、ぼくは先を行くジホの後ろ姿を追いかけなくてはならなかった。

 こんなにも歩くことが苦しいなんて。いままで機械の身体がもたらしてきた軽快さが嘘のようだ。

 そこには生身の肉体で感じるものと何ら遜色のない苦しさ、赤い血の通う身体でしか感じられないリアルの苦痛がある。

 ぼくは息も絶え絶えに、廊下の曲がり角にたどり着くと、その先にあるエントランスに目を向ける。

 そこには、ぼくが入ってきたエントランスとまったく同じ造形をした空間が広がっている。その奥に、開け放たれたままの扉がベトナムの空を四角く切り取っているのが見えた。

 そこでジホが叫んでいた。

 止まれ、戻ってこいと、そのくり貫かれたコバルトブルーの空に向かって、喉も張り裂けんばかりの大声をあげていた。

 そして、ミサイルがそこに着弾した。



 粉塵の舞うなか、ぼくは夢遊病者のような足取りで歩いていた。

 意識はもはや、ノイズが混じったような不鮮明さで。ぼくから、爆撃からの三度の生還という生の実感を剥ぎ取っていた。

 そして瓦礫の向こうで、ぼろ切れのようになった死体がひとつあった。

 それはぼくが殺すはずだった男の死体。

 トゥミン・ソバクの死体だった。

「なんてことだ……」

 ぼくより先に現場に着いていたジホが死体の前で呆然と立ち尽くしていた。

 ぼくは拳銃を構えると、無感動にそれを突きつけ、

「抵抗すれば撃つ」

 とだけ言った。

 ジホは何も言わない。ただゆらゆらと身体を揺らして、現実とそれに拘泥する意識の狭間で揺蕩たゆたっているかのようだった。

 しかし、最後には銃を捨て、その場に力なくへたり込んだ。

「これも運命ってやつでしょうか……」

 ただ一言、そう吐き捨てると、ジホは抵抗する意思がないことをぼくに告げた。

 ぼくはジホを脇に避けて、ソバクの死体の方へ歩み寄る。

 不可解な気分だった。

 結局のところ、ぼくは何の答えも得ていない。

 世界から子どもが産まれなくなった理由。

 みなが機械の身体をなぜこうも受け入れられているのかという疑問。

 そして、あのとき感じた怒りはぼくの本当のカリスマだったのか……。

 その真相を知り得る人物は死んでしまった。

 ぼくの前に立ちはだかった問題というのは、いざそれを解こうとした瞬間、泡沫のように消え去り、その解答であるところの顛末だけをぼくに投げ寄越してきたのだ。

 しかし、ぼくはそのことを受け入れようと思った。世界とは、事の初めから斯くあるのだと、理性ではなく直感で理解しようと思った。

 そうしてぼくは、ソバクのIDタグを回収するため、彼の不自然に折れ曲がった身体を検めた。

 そのとき、不思議なことが起こった。

 皮膚を突き破り、折れた骨が剥き出しとなったソバクの右腕が急にぼくの目の前でごろんとのたくった。

 そこには、見覚えのある傷跡があった。

 こんもりと紫色に盛り上がった、魚のような、地図のようなかたちをした火傷の跡。


 なぜこれが……。

 なぜこの傷が……。


「隊長……」

 後方でジホがぼくを呼んでいた。

 突然、呆けたように立ち尽くすぼくを不審に思ったのだろう。

 僕は声のする方へとゆっくり振り返る。

 そして銃を構え、無造作にその引き金を引いた。

 ぱんと乾いた音が響いて、肉と機械が中途半端に混ざったものがどさっとその場にくずおれた。

 ぼくはそのまま、爆撃で大穴の空いたところから外の世界へと出た。


 そこには新緑の大地がいまだ侵されぬ活き活きとした生の匂いを放っている。

 下生えの青臭い草の匂いが、ぼくの鼻孔をくすぐり、光の氾濫のなか、褐色に塗れた木立のたくましさをぼくに連想させる。

 すでに日中感じていた熱気は嘘のように消えていた。空気はやけに澄んでいて、どんな小さな分子の一つも、ぼくの回りには存在しないように思われた。

 そこに、細い幾筋もの狼煙が立ち上がっている。戦争の狼煙が立ち上がっている。

 それは青い弓なりの空の向こう、この世界が終わらない限り、どこまで続いていくのだろう。


 ぼくはそれを見て、美しいと思った。

 澎湃ほうはいと涙を流し、その自然のあり方にただ厳かに心打たれた。


 ぼくは、生きている。

 機械の身体であっても、血の通わぬ肉の身でなくとも、この絶望をありありと感じることができる。

 そうだ、そうなのだ。

 この世界は美しい。

 とても、とても、美しい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

SDGs -サベージドッグ・ゴッズ- 伊藤汐 @itoh_siooo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ