悲しみ
尾崎硝
悲しみ
「おはよう」
朝起きると、天井の染みがあいさつをしてくれる。暫くその茶色い顔と見つめ合った後、扉を叩く音が聞こえてくる。
「お姉ちゃん朝ごはんできてるよ。起きられたら来てね」
今日は少しだけ体が軽い、寝台から起きて寝巻きのままリビングへ向かった。
朝食はトーストとハムエッグ。いつもと同じである。大学生の妹はせかせかと部屋を歩き回りながら準備をしていた。寝起きのしわくちゃの目のまま朝食を見る。
「・・・・・・」
皿の中、甲高い声で何か話している。
「・・・・・・」
何を言っているのかは、はっきり聞き取れなかった。しかし一瞬だけ目玉焼きの方から声が聞こえた。
「・・・・そのままでいい」
がん、と箸を握って突き刺した。黄身が割れて中から半熟の液体が流れ出てくる。
「きゃー」
「なんでよ」
「励ましたのに」
「いじわる」
途端に目玉焼きから小さな非難の声が沸き上がる。私はその皿を口を半開きにしながら見つめていた。
「やっぱり食べられない」
妹が振り返った、少しだけ心配そうに眉を上げたのち、気を遣うように微笑んだ。
「そう、そのままにしといていいからね」
そうして妹は家を出た。私は朝食を置きっぱなしにして部屋に戻った。
寝台にもう一度寝転ぶ。天井の染みは一言も話さなかった。無音が苦しい。途端に体から訳のわからない焦燥感が襲ってきた。体の中が空っぽな感じがする。何も感じない。なのにそれが不快で不快でたまらなかった。寝台から体を起こして貧乏ゆすりをする。しかし治らない。立ち上がって部屋の中を歩き回った。呼吸をしているのに呼吸をしていないみたい。針でも杭でもなんでも刺してほしい。そうすれば感覚が戻ってくるような気がする。ああ駄目だ、今日は大丈夫だと思ったのに。発作だ。すぐに携帯を取って妹の電話番号を見た。指を伸ばそうとして、やめた。暴れる体に鞭を打ってなんとかズボンだけでも着替えて、コートを着込んで外へ出た。早足で道を歩く。冬の平日の昼前。誰もいない。みんなやるべきことをするために行ってしまった。私だけだ。二十四にもなってこんなこと。公園まで辿り着いた。少し疲れたので、敷地の真ん中にある銀杏の木の下で座り込んだ。静かだけど、街の音が聞こえる。わずかに遠くの方から人の気配がする。少し安心した。地面に尻をついて体育座りをした。今なら眠れる気がする。目を閉じて、足の間に顔を埋めた。
汚い地面に座り込んで、何度も泥水を手で掬っては啜る私。その顔は必死だった。しかし、縋り付くようでもあった。
「お姉ちゃんやめて! やめてよ・・!」
妹が、小さな妹が泣きながら私の体を揺さぶる。しかし私は聞かずに啜り続けた。途端に場面が変わった。
きりきり、縄を引っ張る音だ。いや、違うか。よく見たら延長コードだ。お父さんがドアノブの下で俯いている。私が何かを叫びながらコードをハサミで必死に切ろうとする。警察に止められる。
「専用の工具が必要なんです」
「下すって約束した! 約束したのに・・!」
私が叫びながら父に縋り付く。また場面が変わった。
黒い襟巻きを巻いた和服のお爺さんと川の横を歩いていた。こんこんと杖の音が鳴る。
「お前さんは強い子だものなあ・・・・」
返事をしないでただ後ろをついて歩いていた。水面には真っ赤な夕陽が反射していた。
「お前さんはなあ・・とっても強い何かが後ろについているからなあ・・・・それがなかったらきっとお前さんが先に死んでいたなあ・・・・」
草履がじゃりじゃりと道の砂を擦る。
「でもなあ・・・・お前さんは優しいから・・妹の苦しみを全部引き受けてしまったんだなあ・・・・」
振り返って黒い中折れ帽を取る。その顔はとても優しかった。しかし、生きた人間の顔ではなかった。なんとなく、本能でそう思った。
「お前さんはどうしても・・一人にはなりたくなかったんだなあ・・・・」
なんとなくその言葉が琴線をさらりと触れそうになった。
「・・・・・・」
目が覚めたら、夕方だった。よく凍死しなかったなと思った。硬い地面で痛んだ体をゆっくりと起こして、家の方向を確認した。不思議なくらいに誰もいない。まだ学校も仕事も終わっていない時間だからだろうか。
家に帰って、誰もいないことを確認して胸を撫で下ろした。リビングには朝から変わらない姿のハムエッグとトーストが静かに佇んでいた。二階からぱたぱたと足音がする。父だろうな。しかし少しだけ、少しずつだが、その音の正体に何か別のものが混じっている気がしている。ただの勘なのだが。しかしまあ、いいだろう。私には妹がいる。妹だけは守り切れた。絶対に手放すつもりはない。手放すものか。あの子が生きられるのなら、私はもう、二階で歩き回っているそいつに、お父さんを連れていったそいつに、攫われてしまったっていい。大丈夫、私は強いから、今は悲しいだけで済んでいる。
「おはよう」
夕方なのに天井の染みが挨拶をした。私は黙ってため息をついた。そうだ。二階に行ってしまおう。コートを脱いだ。部屋を出る直前、天井の染みが低い声で言った。
「いいのか」
私は構わず階段を登った。階段を登った先の廊下は薄暗かった。不思議と、公園で目覚めてから体も心も軽かった。私は父の部屋へ向かう。きりきりと、縄を引っ張る音。父はあの瞬間から家に閉じ込められてしまったのかもしれない。扉を開けた。夕日も沈み切って、暗い影が揺れていた。私がその影の元へ手を伸ばした。柔らかい肌。艶々した感覚。
「・・・・・・なんでよ」
妹だった。しかし私は、悲しむよりも先に、一つの使命に支配されていた。
下ろさなきゃ。
急いで一回からハサミを取って階段を駆け上った。父の部屋を開けて電気をつける。
「・・・・あれ・・」
部屋は伽藍堂だった。父が逝って片付けた当時のまま。私は後退りして震えた。次の瞬間、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。
「お姉ちゃんただいま〜」
私はハサミを持ったまま、妹のいるリビングへ向かった。
「ごめん遅くなっちゃって、買い物してたからさ」
エコバックから食料を出す。取り出されたじゃがいもが甲高い叫び声をあげた。
「まあ! 巨人がいる!」
私はすかさず叫んだ。
「誰がのっぽの巨女だ!!」
妹が驚きながら私の方を見て静止した。私は駆け寄ってその小さな体を抱きしめた。
「引っ越そう私たち・・・・」
「お姉ちゃん・・・・?」
妹が困惑しながら無抵抗に包まれている。
「お金のことは心配しないで、お父さんの遺産があるし、お姉ちゃんも働くから」
「お姉ちゃんが・・・・?」
心配そうに目を見開いた。
「大丈夫。お姉ちゃん、神様に守られてるから」
数年ぶりに家族に笑顔を見せた。
今日の夜ご飯はビーフシチューだった。相変わらずスプーンの上できゃっきゃと話し声が聞こえる。私は構わず口に放り込んだ。
「ごめんね。何年も家事やらせて。今度はお姉ちゃんが代わるから・・」
「お姉ちゃん本当に大丈夫なの・・?」
妹がまだ不思議そうに私を見つめる。私は強く頷いた。妹が続けた。
「家事は分担でいいよ。私思い知らされたんだ、今までどれだけお姉ちゃんに苦労かけてたか・・」
父がいた頃は、私が妹の母の代わりをしていた。
「大人になったのね」
私が微笑むと、妹は自慢げに目を細めた。
「でしょ? 私お姉ちゃんの妹だもん」
悲しみ 尾崎硝 @Thessaloniki_304
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