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現在時刻は十一時五十五分。ここのバス停は十二時ちょうどにバスが来る。猫背も稀に利用するので発着時刻を覚えていた。
猫背はバス停から数メートル離れた木陰に隠れて、並んでいる人々を観察する。
(あと五分……あと五分以内に、本の持ち主を当てなければならない!)
本の内容を元にした会話をしようというのだ。元ネタを知らない者に誤って話しかけてしまうと、その際の猫背が負う心理的ダメージは想像するだに恐ろしい。
軽く死ねるやつだ。
可能なら本の持ち主を当てたうえで、例の名台詞をカマしたい。
無論、バスが来てしまえば急いで全員に話しかけて本の持ち主を探すが、それは最終手段だ。
ロマン、求めたい。
(さて……)
何事も考えを深めるには観察が大事だ。猫背はバス停に並んでいる三人を具に眺めた。
先頭に並んでいるのは黒いコートの男子学生だ。眼鏡を掛けていて、髪型は天パだ。レザーのような生地のリュックを背負っている。足元は分厚そうな長靴。今朝から溶け残っている雪を警戒してのことだろうか。耳元からは有線イヤホンが伸びており、話しかけるハードルは少し高い。
次に並んでいるのは茶色いコートの女子学生。長い鹿毛色の髪を編み込んで一本垂らしている。赤いチェックのマフラーを首に巻いていた。トートバッグを肩に掛けている。足元は少し底の厚いスニーカー。察するにスノトレだろう。バッグと逆の腕には傘を携えている。
最後に並んでいるのはスキンヘッドの学生。この寒さなのにタンクトップから荒々しい上腕二頭筋を露出させている。荷物は小ぶりなリュックのみ。蒸気機関車のように白い息を吐いていた。黒いリストバンドには白色の紋章が描かれており、弊学のトレーニング部のようである。
(濃いメンツだ)
あの中の誰かが、本を忘れた。
(五分以内に、この中から本の持ち主を見つけられるか……?)
猫背は目を細めて考え込む。腕の中の文庫本が、それにあるまじき質量を持っているように錯覚する。
冬の冷たい風が吹き抜ける度に、残り時間が一秒ずつ減っていくような気がした。
三人の立ち姿、服装、持ち物の中からヒントを探す。
(………………)
遠くの道路の水溜りをタイヤが弾く音がした。冬は音がよく聞こえる。空気が澄んでいるからだ。
風音、水音、どこかの子どもの笑い声。
音が遠くなる。考え事をするときはいつもそうだ。
(……あの人かな)
思案の後、猫背は本の持ち主に当たりをつけた。恐らくあの人が、この本を忘れていった。状況からして、それなりの確度だろう。
観察は終わり。あとは話しかけるだけだ。
(まぁ話しかけることに相応の勇気が必要なんだけど)
猫背は数回深呼吸をして、思い描いた台詞を淀みなく吐き出せるかシミュレーションしてから、満を持してバス停へ歩を進めた。
列に並び、本を持ち主に差し出す。
「……たとえその身に、血の代わりに油を通わせていたとしても」
白い息。
「人は紙の重さを忘れられない」
その人物が、ハッと振り向く。
結われた髪が追従して、宙に弧を描いた。
「端子越しでなく、しっかり目で味わえよ、ワトソン君」
「……驚いた。君がベイカーズに頼らないとはね」
目を見開いた女子学生は驚きながらも、続きを言ってくれた。ノリが良い。
「うん。百点だ」
女子学生が本を受け取る。やはり彼女の本だったようだ。
「これを、どこで?」
「カフェのテーブルに忘れてたよ」
「届けてくれたんだ。ありがとう。私、昔から忘れっぽくてさ」
女子学生はブックカバーを撫で、あははと笑った。栗色の髪が揺れる。
「九文字屋のブックカバーがヒントになったんだ。それであなたが持ち主だと分かった」
猫背は女子学生の手元の本を指す。紙のブックカバーには小さい文字で店名が記されていた。
「確かに珍しい本屋だけど……でも、どうしてそれで、私が持ち主だと分かったの?」
女子学生が問うてくる。
「ポイントカードが結構埋まってたからね。旅行先で本を買ったとかではなく、常連さんだと思ったんだ。本の持ち主は東北出身なのかなって思って」
ブックカバーには針葉樹林。
「あなたが一目で、雪慣れした人だと分かったから」
猫背は女子学生が携えていた傘を指差す。
「今日は一日中、晴れの予報なんだ。でもあなたは傘を携帯している。見たところ日傘でもない、普通の雨傘だ」
今日は一日中、晴れの予報だった。
「いや、私も今朝はけっこう降られてね」
女子学生の傘は淡く湿っていた。頭上から水が降ってきた証だ。
「昨夜は雪で、今朝は晴れ。単純な事実だけど、そこから垂り雪にまで思いを巡らせられるのは中々だ。九文字屋のポイントもけっこう溜まってたみたいだし、あぁこれは雪国の方だなと思って」
女子学生は赤い鼻をマフラーに埋める。
「すごいね。探偵さんみたい」
「ただの遊び好きなオタクだよ。私は」
道の向こうからバスがやってくる。このバス停が出発点なので定刻通りの到着だ。
盛大な排気音とともにバスが停車し、ゆっくりと扉を開く。列の先頭にいた天パの男子学生が乗り込んだ。
「じゃ、ありがとね探偵さん」
「もう本を忘れないように」
「気をつけます」
赤いマフラーを揺らし、女子学生はバスのステップを登っていった。
うんうん、これで良い。ミッション完了だ。
女子学生の名前も、学部すらも聞かなかったが、人付き合いなんてそんなものだろう。
忘れ物を届けただけの日に、そこまでの社会は必要ない。
既に十分、面白い日なのだから。
「して、あなたはバスに乗らないの?」
猫背は振り返り、タンクトップの筋肉に話しかける。男子学生は白い息を吐き出し、脇に停車する鉄の塊を見上げた。
「私はこのバスと競争するために並んでいたに過ぎません」
「そうなんだ」
変な人だ。
大学には色んな人がいるからな。
「女史、あなたのお名前は?」
「私? 神使さん」
お前に名前教えることになるんかい。
筋肉マンは並走相手たるバスを見上げ、その窓を手で示した。
「神使女史。お知り合いが何かあなたに伝えたいことがあるそうですよ」
「む?」
猫背は男子学生の示すバスを見上げた。
車窓の向こうには先程の女子学生がいる。口を開けてこちらに何かを伝えようとしているようだが、窓に阻まれて声は聞こえない。
女子学生は携帯の画面を窓ガラスに押し付け、こちらに何かを示してるようだった。
QRコードのように、見える。
「………………」
猫背は咄嗟に自身の携帯を取り出し、女子学生のコードを読み取った。
LINEの友だちを追加し、挨拶代わりのスタンプ。
「……!」
窓の向こうの女子学生の顔がぱぁっと綻んだ。まるで厳寒の空に差し込む薄明光線のように。
それは冬の心には、あまりに暖かすぎて。
「……ありがとね。教えてくれて」
猫背は筋肉学生に礼を言う。
「人と人の縁。これを繰り続けて私達は、悠久の時を渡ってきたのです」
変な人だ。
バスが発射する。猫背は女子学生に手を振り返した。人に手を振るなど久々のことだった。
「バスよ。鋼の塊と筋肉の塊、どちらが地点間移動に適した存在かを思い知らせてやろう」
筋肉学生はバスの発車に合わせてスタートダッシュを切り、そのまま道の遙か先まで駆け抜けていった。最初のカーブは彼が先に曲がった。何で良い勝負になるんだよ。
*
『あんたこれ、学内のカフェじゃない?』
「何故バレたし」
母に写真を送ったが、近場の遠足であることを一瞬で見抜かれてしまった。よく調べられているようである。猫背は頭を掻いた。
外出を決意したことくらい、褒めてもらいたいものである。
(しかし……)
収穫はあった。とても大きな収穫だ。
猫背は数刻前に送ったスタンプの下に返ってきた、その収穫を眺める。
(そもそも人との関わりを、収穫とか言うべきではないな)
窓外には、軒下に垂れる雪解け水が陽光を反射していた。
〈了〉
神使猫背と忘れられた本 黒田忽奈 @KKgrandine
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