神使猫背と忘れられた本

黒田忽奈

1

『今日はそっちは一日中晴れでしょ。散歩にでも行ってきなさい』

 朝一に届いたメッセージの文面を見て、猫背は目を細めた。

 時刻は七時前。まだ日が昇ってやっとといったところだ。そんな時間帯から外出を指示されるなど、面倒なこともあったものである。

 メッセージの差出人は、母。

 というか、『行ってきなさい』と指示してくるような間柄の知り合いは母しかいない。

 猫背は今日一発目の既読スルーを決め込み、布団から這い出た。夜の間に冷やされた室内の空気が容赦ない。

「やれやれ、寒いのは苦手だ」

 猫背はエアコンを点け、厚手のストールを頭から被った。

 次いでカーテンを開ければ、窓から見下ろす地面が薄っすらと白く覆われていることに気がつく。夜間は相当冷え込んだようだった。

「こんな寒さだってのに、散歩しろとは全く……」

 猫背はぶつぶつと呟きながらキッチンへ移動し、ケトルに湯を沸かす。冬の朝は寒くて辛いが、コーヒーが美味しい季節でもあるのだ。

 沸々と立ち上る湯気を眺め、ぼんやりと考える。

(『今日はそっちは一日中晴れ』か)

 猫背は実家から二町ほど離れたアパートに一人暮らしをしている。たった二町の距離でも天気は変わるものらしい。実家のある方は、今は雨か雪なのだろう。

(っていうか、わざわざ私のいる場所の天気を確認して散歩を命じるとか、どんだけ過保護なんだか……)

 過干渉はともすれば監視と同じだ。自分はもう成人しているのだし、もっと手を離してもらいたいものである。

 湯が沸ききる。インスタントコーヒーを淹れ、部屋に戻る。

 ベッドに腰掛け、湯気の立つそれを慎重に啜る。

 今日は休みだ。外出せず、一日中家にいるつもりだった。

(しかしなぁ)

 先程のメッセージ。

 あそこまで自分に運動させたがる親なら、仕事の昼休み中に状況確認のメッセージを再度送ってくるかもしれない。それどころかビデオ通話等の強硬手段を打ってくる可能性すらあった。

 というか実際にそういうことが、ここ数年で何度かあった。

(………………)

 猫背は自分の部屋を見回す。

 雑多なものが散らかった、狭い部屋。

 ビデオ通話は不味いかもしれない。

「やれやれ」

 口実作りの外出は必須のようだった。向こうから連絡がなくとも、外にいるときにこちらから写真でも送れば向こうは満足するだろう。

 何事も先手が有利なのだ。

「先手、ね」

 相手が眠っている間にメッセージを仕込んでおくのは、先手も先手だ。



 外出するといっても、街一面に薄っすらと雪が積もっているのだ。太陽は照っているが、地面は夜の間の極寒を未だに主張してやまない。

 自転車は危険なので乗れない。バスや電車で行くべき所もない。タクシーなんて高すぎて論外だ。

 とすると自然、目的地となりうる場所の候補は絞られる。

「結局……」

 大学に来ることになるのか。

 猫背はキャンパス内に設けられている、学生専用のカフェを訪れた。

 これでは普段の登校と変わらない。これを外出とカウントして良いものか。若干悩んだが、外の寒さとカフェ内の暖かさの差でもうどうでも良くなった。

 やはりコーヒーを注文し、窓際の席に腰掛ける。窓の外では、浅く雪を乗せた木々の枝が風に揺れていた。カフェの周りは植物が多いのだ。冬は少し物寂しいが、春になればカフェは桃色に染まる。

 一年生の頃はそんな景色に関心したものだった。

「さて」

 景色を楽しむのも良いが、本命はこれではない。

 猫背はトートバッグから文庫本を取り出し、カップと本を並べて写真を撮る。

(これを送って、今日のタスクは完了)

 さて、あとは優雅に読書でも決めて、昼前頃に帰ろう。カフェは午後から混むのだ。年の瀬が近いとはいえ、帰省しない学生もそれなりにいるので学内施設には人が集まる。

 午前十時。カフェには猫背の他に数人の利用者がいた。全員若者で、大学の生徒だろう。勉強していたり読書していたり、思い思いの過ごし方をしているようである。

 猫背は手元の本の頁を開く。しばし、物語の世界に集中した。



 お腹が減ったので、そろそろ帰ろう。

 そう思い腕時計を見ると、時刻は十一時五十分。あれだけ適当な生活を送っておいて体内時計が機能していることに軽く驚く。

 本は半分くらいまで読み進めることができた。

「面白い……『超電磁機甲ワトソン』……続刊が出たことに感謝だ」

 猫背が読んでいたのは今話題のSF推理小説だった。二十二世紀のロンドンを舞台に、サイボーグのワトソンと超巨大演算機ホームズが事件を解決する探偵モノ。やんちゃなタイトルに反して謎解きはかなり高度な出来だ。

 一作目がそれなりに人気だったようで、つい先日に続きが出たのだ。

 さっそく読んで見れば期待を裏切らない出来だった。嬉しい。

 さて、名残惜しいが帰ろう。猫背は本を鞄にしまい、コーヒーカップを返却棚に戻し、店を後にする。

「ん?」

 後に、しようとする。

 しかし、

「忘れ物……」

 机の上に置かれていた異物。明らかにカフェの備品ではないであろう代物が、猫背の足を止めた。

 近寄ってみてみると、それは一冊の文庫本だった。紙のブックカバーを纏っており、表紙は読み取れない。

(さっきの客の誰かが忘れていったのか?)

 カフェには猫背以外に、三人ほど利用者がいた。その誰かが忘れていったのだろうか。

 どうせ学生しか利用しないカフェである。先程の客がもう二度と訪れないということもないだろう。であれば、この忘れ物はカフェの従業員さんに届ければ良い。

 それが一番簡単な解決方法だ。

 猫背はそうしようとして、文庫本を手に取った。

 ブックカバーには濃紺色で針葉樹林のような模様が描かれている。端には店名も記されていた。

(『九文字屋』……ここら辺にはない本屋だ)

 確か東北の中でも限られた地域にした出店していない、ローカルチェーン店だ。

 いけないことだとは思いつつも、つい癖で、中身をパラパラと捲ってしまう。昨今の大学生がどのような本を読んでいるのか興味があった。

「こ、これは!」

 一寸吃驚。

 忘れられていた本は、『超電磁機甲ワトソン』の二巻。

 猫背が読んでいたものと同じ本だった。

 こんな偶然があるのか。流石、流行っているだけある。

 忘れられた本には栞代わりに店のスタンプカードが挟まれており、持ち主がどこまで読み進めているのかが分かった。ちょうどモリアーティの右足が発見されたあたりだ。ここから面白くなる。

(———じゃなくて)

 こんなことをしている場合ではない。猫背は七割ほどスタンプが溜まったカードを同じ頁に挿し戻し、本を閉じた。

(持ち主に届けないと)

 猫背は本を片手に、店を後にした。冬風が首元を切り裂く。

 本の持ち主はまだ近くにいるかもしれない。できれば手渡しで本を届けたい。

 カフェの店員さんに預けるという案は、残念だが却下だ。

(忘れられていた本を渡す……これは、これはまるで……!)

 猫背は足早に木々の合間を歩く。石造りの歩道の上は茶色い雪が斑模様を描いており、数個の足跡があった。

(これはまるで、ホームズがワトソンに『ロイロットの手記』を渡すシーンみたいじゃないか!)

 電脳が世界を支配する中、物理書籍の価値は漸落し切った。そんな中、ワトソンは調査の手がかりのために失われた手記を探していた。

 しかし誰も、紙の書籍の行方など知らない。気にかけない。

 途方に暮れるワトソンの元に、受肉したホームズが一冊の本を届けるのだ。

 そのときの台詞は、ファンの間でも相当人気。いわゆる名言となっていた。

(それを再現できる……私が、持ち主に本を返すことで!)

 『超電磁機甲ワトソン』の二巻を読んでいるということは、一巻の内容を用いてもネタバレにはならないはずである。

 この本の持ち主には、ネタが通用する。

 であれば、やらない手はなかった。

 猫背はカフェから伸びる石床の足跡を辿った。靴裏の模様を見ると三種類の足跡があった。カフェにいた全員が、同じ方向へ向かっているようである。好都合だ。

 足跡の終着点は、バス停だった。見れば、三人の若者がバスを待っている。

(いた……あの中の誰かが、この本の持ち主だ)

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