パテナ・シンタータの誤算 第26話
休日二日目の朝。
ぼくとカマド先輩はパテナを乗せた午前十時の路面電車を待っていた。雪が降り出しそうな低く重たい雲の下で気温以上に冷たい空気を裂き、やってくる路面電車。首を引っ込めた亀のように、顔を分厚いマフラーに埋めた〝冬のマトリョシカ〟が降りてくる。以前〝悪戯〟のあとに三人で話したのが楽しかったらしく、珍しく先輩から「お茶でもいかが?」と誘いがあった。しかし「わ、私の部屋はっ、……そのぅ。タタミ君は………入れないっ。察して!」とのことだ。恐らく、演算試験のばたばたで部屋干しの洗濯物が片付いていないと推測される。
アパートメントまで歩く煉瓦敷の道。ひらひらと舞い出す雪に「どうして、この星はわたしに意地悪なのか」と出るパテナの常套句。左隣の冬のマトリョシカと、その向こうを歩く先輩は、春が来たような薄着。
「どうして、カマド女史は、そんな薄着でいられる?」
「私? 私か〜。そうだなあ……ここより、もっと寒い所が出身だから、かな?」
「ここよりも寒い場所」
「うん。一年のうち二ヶ月間くらいしか地面が見えない」
「そんな土地に、どうやって人間が暮らしているのか?」
この星に人類がやってきたばかりの開拓時代は、第三惑星にいた頃の古い知識や知恵が役に立ったらしい。収穫したものを保存食として加工し、外部との連絡が取りにくい冬季をしのぐ。とても寒い惑星〝シューニャ〟だから、高カロリーな食事が好まれた。
「そのひとつが〜、オムライス、なのっ」
ぼくらはパテナに内緒で先輩の作るオムライスで食事会をしようと企てていた。
「つまり、わたしを騙した」
「せめて言葉を選んでくれないか?」
「パテナさんらしいけれど、ね!」
雲にしがみついていた雪が、ついには耐えきれずに舞い始めたとき、コートに入れていた携帯端末〝ターミナルコム〟がメッセージを受信する。政治的な意味合いを持つ一週間の休日に届くメッセージに、真っ先に浮かぶ〝彼女〟の姿。【バベルの図書館】の試験は、まだ情報解禁されていない。別れてもなお、タイミングよく鳴るターミナルコムに自分で作り上げた呪縛から抜け出せていないと、すこし苛つきながらメッセージに目を通した。そこに羅列されていた文字は、
──── タタミ君、カマド女史に色々と話しても大丈夫か?
隣を歩くパテナが罪の告白でもするかのような文章を綴り、彼女を盗み見すると意味ありげに不機嫌そうな表情をしている。
──── 『色々話す』とは? パテナの恋の事? それともデートやその他の事?
──── その辺りを含め、すべてだ! ぜ・ん・ぶ・だ!
彼女らしくない文章が〝恋〟だということを言いたいが……。数字でしか測れないから、人の気持ちが理解し難いと言った彼女に〝こころ〟で話せる友人ができればいいと〝こころ〟から思う。
先輩が紅茶と玉子を取ってくると自室に行っている間に、パテナを部屋に招いた。このアパートメントにいる同僚達はプロジェクトチームのなかでも、特に色恋沙汰が好き。また妙な噂が立ちそうだが、それを含めパテナには〝恋〟というものが、どういうものか、見て、感じて、楽しみ、経験できたならいいと思う。そのうち同僚から揶揄われて、あたふたとするパテナも見てみたい。
「ソファに掛けるといいよ。どうした?」
「いや、タタミ君の匂いがすると思って」
「……はあ、パテナ。それは口にするな」
「何故だ? 失礼にあたる発言だったか?」
この〝奇跡的な天才〟は、まだまだ数式の森から目覚めたばかりのお姫様で、多分、男女のあれこれについて寝ぼけているのだろう。
「まず、どうしてぼくの匂いを知っている? と言えば伝わるか?」
「…………。いやっ、普段から嗅いでいたわけではないぞ! ただ……っ」
「ただ?」
「一緒に巻いたマフラーの、やさしい匂いと同じだ」
「…………もうひとつ聞きたいことがあるけど、やめた」
「聞いてくれれば答えるが?」
「パテナ自身の発言から解読せよ」
その恥ずかしい告白は、小首を傾げる彼女にとって、先輩がいないあいだに行われたことを安堵するに違いない。
先輩が持ってきてくれた偽物ではない紅茶の葉が開き、やわらかく甘い香りが広がった。窓の外では雪が舞い、ひらひらと穏やかな時間が流れている。演算試験で軟禁に近かった三日間だけではなく、【バベルの図書館計画】に携わってからの六年間。ここまで心身が落ち着いた時間を過ごせた日があったか。口を半開きにして窓の外を舞う雪を見ているパテナには、この惑星の〝意地悪〟な気象現象はどう映っているのだろう。カマド先輩が唇に指を当てて「んー……」と何かを考え、カップをソーサーに置くと目を輝かせながら話を切り出す。
「演算試験の夜にふたりで? 青春みたいなこと? をしていた、っていう噂があるんだけどっ?」
やはり、ここの住人やプロジェクトチームの奴らは、色恋沙汰が大好きなんだと呆れて笑ってしまう。一方で無心に雪を見ていたパテナが振り返り、先輩を睨むようにすると、先輩のふわっとした雰囲気から引き算で笑顔が引きつり、足し算で気まずさが加わえられ「ああっと〜? 余計なこと〜、聞いちゃった、かなー……?」という答えが出た。
「パテナ……。無闇に人を威嚇するな」
「カマド女史。わたしは〝恋〟を教えてもらっているだけだ」
「ん? それはタタミ君のことが好き……というのとは違うの?」
「まさに本案件の問題点はそれなのです」
「パテナ。案件って……仕事じゃないんだから」
十歳までには芽生えるはずの感情が二十八歳になって芽生えたパテナにとって、歳相応という価値観は通じないし、感情にスケールを当てるのもおかしい。彼女にとっての新しい感情や気付きは、すべて大問題で戸惑う。かつて、ぼくらが思春期に経験したことを、同じ時間に生きてきて、いま謳歌している。
音量を薄く鳴らしていたラジオからは〝ウズ・ルジアダス〟から回収された未知なる人工物から〝人体の図〟が確認されたと伝えていた。
パテナ・シンタータの誤算
第二十六話、終わり。
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