パテナ・シンタータの誤算 第19話
ヴィーグルにパテナを乗せて、ぼくが休息を取りたくなった時に行く場所に向かっていた。この惑星〝シューニャ〟の、この国で一番好きな風景のなかに、パテナを連れ出したいと思ったからだ。車内で薄く流れる音楽とはちがう、緊張感のあるパテナの声が響く。
「タタミ君、昨夜は非礼な事をした」
「非礼? 何のことだ?」
「いや。その……あれだよ」
歯切れ悪く、気まずそうにするパテナを見るのも初めてで、また驚く。
「ああいう誘いかたはするべきでなかった」
「ぼくが悪い男なら、君は危ない目に遭っていたよ」
「ありがとう」
いつもなら『礼を言う』や『感謝する』という形式的な表現をする彼女の〝ありがとう〟に、また驚かされる。これは特別な感情を抱いていて選ばせた言葉かもしれないと考え、パテナが別の画策を持っていて〝恋を教えて欲しい〟と願った……という無粋な考えは捨てることにした。
「ここは?」
「目的地の途中で、必ず寄るカフェだよ」
山間の辺鄙な町にある木造のカフェ。町の外から来る客よりも地元の人が集まる生活の一部だという雰囲気が気に入っていた。マスターが「おぉ、久しぶりじゃないか」と迎えてくれる。パテナは木造建物が珍しいのか、きょろきょろとしながら「木の匂いがする」と鼻を鳴らして香りを嗅ぐ。膝と膝がすこし触れる小さなテーブルに置かれたふたつのカップ。
「改めて向かい合うと妙な感じがする」
「そう? それなら良かった」
「タタミ君、それはどういう意味だ?」
「そうだな………。〝秘密だ〟」
今朝、彼女が言った言葉でやり返すと「そうか。なるほど〝秘密〟か」と嬉しそうにカップを口許に運ぶ。その唇に薄い色の口紅が引かれていたから驚くのだ。今日、何度、君に驚かされれば一日が終わるのだろうか。
山の中腹にある駐車スペースが展望台のようになっていて、ヴィーグルを停めて降りる。ぼくらの背中から腕を広げて包み、風を捕まえるよう広がる山肌。大学の研究棟や納められるサーバー建屋、街の雑踏や喧騒がつくる平らに見える彩はなく、見えるのは植物の緑と紺色がかった山の影に残る白い雪。小さな湖に流れ込む小川が、きらきらと光を跳ねて、頭のうえには薄桃色しかない。鼓膜を揺らすのは仮想ノードを走る信号やノイズの音ではなく、草原を駆け上がり耳元でばたばたと鳴る風と獲物を探して旋回をする猛禽類の鳴き声だけだ。
「この星に来て街から出たことはあまりない。こんな所に来るのは初めてだ」
彼女の生まれ育った惑星〝プリトヴィ〟は産業も盛んで人口も多い。恐らく手に入らない物は無く、経済レベルが高い。ぼくの生まれ育った惑星〝シューニャ〟には誇れる産業が少なく〝プリトヴィ〟よりも少し貧しい。それでも開発よりも惑星法で守られた生態系の〝何の変哲もない風景〟が魅力だと思う。
「パテナに、この景色を見て欲しいと思ったんだ」
「いつも研究室とアパートメントの往復だからな」
「それもあるけれど、ここがぼくの〝居場所〟だからだよ」
「そう〝彼女〟にも言っていたのか?」
「いいや。ここに誰かと来たのはパテナが初めてだ」
「わたしは簡単に信じないぞ」
「昨晩、あんな誘い方をした君が言えることか?」
「それはもう……言うな」
またひとつ二人の〝秘密〟が増えましたね、と敬語でからかうと、そうですね、と、湖に顔を向ける君の耳が赤いのは駆け上がってくる風が冷たいからだろうか。
いつも着ているコートではなく、白いコートをまとったパテナ・シンタータが白い髪をなびかせながら、景色のなかを飛ぶように見つめていた。数字や記号ばかりを追いかけ回し、無表情と呆れ顔を見せる、いつもの彼女とは違う、今日の彼女。
「〝図書館〟のアクセスコードを教えてほしい」
「理由はなんだ?」
「パテナの読んできた、まだ読んでいない本を知りたいんだ」
「分かった。後で教える」
「今じゃいけないのか?」
「ああ。一刻でも早くヴィーグルに戻りたい」
「本当に寒がりだな」
暖かくしたヴィーグルで【バベルの図書館】のこと、それから人類が棄てた第三惑星の話をした。美しい生態系があったとされる第三惑星は、人類が欲望のままに荒らしたから生態系が崩れた。壊した自然というものは、どういう光景だったのだろう。人類が生きていけないほどの環境下で他の生物はどうなったのか。ぼくらの祖先が惑星間移住に向けて宇宙に出るときに見た〝地球〟の最後は、どのような景色だったのか。人類という生命体が、そのような凶暴性とエゴを持ち、時に自制することができないのに〝惑星ひとつを壊した歴史の資料〟を閲覧するのに強い制限がかけられているのは、何故か。
「タタミ君」
「何? パテナ?」
「手を握ってもいいか、というのは失礼に当たらないか?」
いちいち驚いてしまうパテナ・シンタータという女性の行動や言動は、その歳まで数式の森に閉じ込められ生きてきた彼女が解放され、外の世界を知り始めた感動と恐怖だ。彼女が経験できなかった二十数年分の感情を冒険する恐怖なのだろう。
ヴィーグルのセンターコンソールに置いた左手に乗せられる、包めるくらいちいさな手。その細い指が手のひらを軽く叩き始めた。
「二進数?」
「これがアクセスコードだよ」
「そのまま、ぼくが覚えるまで続けて」
「今日、ぜんぶ覚えなくてもいい」
「なんだよ、照れ隠しか?」
「言うな」
顔を赤くして睨む彼女だが、手のなかの二進数は続く。
「今日、ぼくが覚えたら、もう手は繋ぐつもりはないのか?」
「それは、また手を繋ぎたいと言ってもいいということか?」
その答えは彼女の手をやわらく包む、二進数の回数で答えた。
「パテナ、今日の服よく似合っているよ」
「君は手を握って、そうやって口説いてきたのか?」
「どうして、すぐにそんな話になる?」
「どうしてかな」
何故かパテナは微笑んでいた。パテナが着る白のコートは【バベルの図書館計画】に就くと決まり〝シューニャ〟は寒いだろうと、初めてフルオーダーで作らせたものらしい。そして、今日初めて袖に手を通した。
「どうして? 普段も着ればいい」
「タタミ君は分かっていない」
「女……心ってやつか?」
「本当に分かっていないな。わたしは〝恋〟を知らない」
このコートで耐えられるほど、この惑星の寒さは甘くなかった。そう言った。じゃあ、どうして、今日に限って着てきたのか……なんて聞かないことにした。普段、彼女がしない口紅ややわらかい言葉、いつもと違う服を選んできたのだから理由を聞くのは、野暮だ。
パテナ・シンタータの誤算
第十九話、終わり。
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