Arcadia Tempus
でこーど!
第1話 扉の向こうに、君はいるか
夕暮れはいつも少し冷たい。
児童養護施設のグラウンドに子どもたちの笑い声が響く中、私は窓辺で本を開いたまま空の色を追っていた。
ページはほとんど進まない。文字は分かるのに意味だけが心に落ちてこない。胸の奥、鍵穴みたいな空洞に、風が吹き抜ける。
――私は
両親のことはほとんど覚えていない。物心がつく前に姿を消してしまったから。
ここでの生活は長いけれど私は輪の中に入るのが得意じゃない。
真面目すぎるって言われるけれど、本当はただ人にどう馴染めばいいのか分からないだけだ。
(また、輪に入らなかった)
思っても声にはしない。騒ぐと疲れてしまうから。
廊下の足音。係の先生と目が合って相手は困ったように微笑んだ。
「宵花、目を休めなさいね。夕食まで少し外の空気を――」
「はい」
返事だけは真面目に。それが私の手順。
◇
食堂へ向かう足取りは自然と遅くなる。
扉の向こうから、子どもたちのにぎやかな声が聞こえてくる。
笑い声、箸のぶつかる音、誰かの冗談に上がる歓声。
――その輪の中に自分の名前が呼ばれることは、ほとんどない。
私は決まった席に座り、出された皿に手を合わせる。
「いただきます」と小さく声に出すけれど、返ってくる声はなく誰も気づかない。
向かいの席では、同じ年頃の子が楽しそうに友達と話している。
その会話の隙間に自分の声を差し込む方法が分からない。
味はする。食べ物はちゃんと美味しい。
けれど何かが足りない。
温度を持たない食事が喉を通るだけ。
食べ終えると、皿を片づけて廊下に出る。
窓から見える夕焼けがやけに遠い。
私がここにいてもいなくても、この光景は何も変わらない
――そう思うと胸が少し冷たくなる。
部屋に戻り、机にノートを広げてもペンは進まない。
笑い声が遠くから響いてくるたびに心臓がきゅっと縮む。
混ざりたいのに、混ざり方が分からない。
それは努力不足でも、怠けでもなくて――ただ、自分の形が輪に合わない。
私はベッドに倒れ込み、天井を見つめる。
無言のまま夜が降りてきた。
◇
翌朝。
玄関のチャイムが鳴った。職員室から小さなざわめきが起きて、笑い声が混ざる。
やがて扉が開いて若い女性がひょい、と顔を出した。
「はーい、宵花ちゃん、いるー?」
玄関の扉から顔を覗かせたのは、長い黒髪をゆるくまとめた若い女性だった。
二十代としか思えない姿に、施設の先生たちがざわめく。
「ほんとに来てくださったんですね……でも“おばあさん”って聞いてたけど」
「おばあさん? 絶対嘘でしょ、」
「ふっふーん、よく言われるんだなこれが!」
女性――
「今日から宵花ちゃんの荷物持ちで、晩ごはん当番で、ついでにツッコミ役!」
先生たちは思わず吹き出す。
その場の空気がいっぺんに明るくなった。
けれど、その輪の中にいるはずの私の心は、置き去りのままだった。
笑い声に混ざる方法が、やっぱり分からない。
私はただ黙って立っていた。
「はいはい、書類はこれね。サインも……おっけー!」
千草は手際よく手続きを済ませていく。
職員が「本当に若いんですね」と声をかけると、彼女はいたずらっぽくウィンクした。
「美容と健康にはね、ちょっとした秘訣があるんですよー。まあ、そのうち教えてあげます」
軽口を叩きながらも、必要な書類は一枚も漏らさない。
その手つきは冗談とは別の確かさを持っていた。
やがて先生の一人が、私の肩を軽く叩いた。
「宵花、よかったね。これからは家族ができるんだ。大事にしてもらいなさい」
私は小さく頷くしかなかった。
「……はい」
玄関先で書類の確認が続く。
先生が不安そうに千草へ視線を向けた。
「……ただ、正式な手続きにはまだ日数がかかります。なので今日からは“仮預かり”という形でお願いします」
「了解了解!責任はちゃんと取ります。宵花ちゃんの宿題チェックから、夜食の準備まで、ぜーんぶ私の仕事ってことで!」
「……夜食は必要ないです」
「いやいや、青春には夜食が必要なんだよ!」
先生たちが「頼みましたよ」と頭を下げると、千草はぱん、と手を叩いた。
「さ、準備しよっか!」
「……はい」
案内されるように自分の部屋に戻る。
見慣れたベッド、少し色あせた机、壁に掛けたままの古いカレンダー。
“もうここに戻らないかもしれない”と思った瞬間、部屋全体がどこか遠い景色に見えた。
古びた鞄を引き寄せて机の引き出しを開ける。
中から折り畳んだ服を取り出しては丁寧に畳み直して詰めていく。
洗面用具、ノート、鉛筆、読みかけの本。
数年分の時間を詰め込むには、あまりに物が少ない。
(……今頃になって、迎えに来るなんて)
静かに積み上げるたび胸の奥に黒い波が広がっていく。
小さい頃、何度も願った。
“誰かが迎えに来てくれるんじゃないか”と。
廊下を歩く足音に胸を高鳴らせ、扉が開くたびに振り向いて――
けれど入ってくるのは先生か、同じ施設の子どもばかりだった。
そのたびに「やっぱり自分は置き去りなんだ」と心に刻みつけた。
迎えなんて来ないと諦めて、諦めたことにすら慣れた。
それなのに。
(なぜ今なんですか。どうして――こんなに遅くなってから)
必要だから?
都合がいいから?
考えれば考えるほど鞄の中に詰め込んでいるのは服や本じゃなく、黒い澱のような疑念ばかりに思えた。
ファスナーを閉じる。
音がやけに大きく響いて、胸がきゅっと縮んだ。
心のどこかで「この瞬間を待っていたはず」なのに喜びは湧いてこない。
遅すぎた迎えに期待を重ねることが怖かった。
「できた?」
扉の外から、千草の明るい声が響く。
私は答えず、鞄を抱きしめるように持ち上げた。
重さは大したことない。けれど――足が鉛みたいに重い。
扉を開ける一歩が、どうしても前に出ない。
それでも、出なければならないのだ。
もう「迎えが来ない」と自分に言い聞かせる日々へは、戻れないのだから。
◇
夕暮れの街を並んで歩く。
見慣れたはずの道なのに、千草が隣にいるだけで景色が少し違って見える。
「いやー、改めて。宵花ちゃんだよね?お名前かわいい!夜に咲く花かぁ。ふむふむ」
「……はい」
「いいねぇ、名前の響きって人を形作るんだよ。私なんか“千草”でしょ? 小さな草が千本、雑草魂!地味ー!」
わざと大げさに言って笑う。
私は返しに迷って口を閉ざす。
けれど、彼女の隣を歩いていると不思議と沈黙が重くはなかった。
「……施設、長かった?」
「……はい。物心ついた時には、もう」
「ふむふむ。そっか」
それ以上は聞かず千草はただ前を向いて歩いた。
◇
夕暮れの街を並んで歩く。
見慣れたはずの道なのに千草が隣にいるだけで景色が少し違って見えた。
けれど胸の奥で渦巻く黒いものは消えなかった。
鞄の重みが疑念の重さに変わって肩にのしかかる。
気づけば、口をついていた。
「……どうして、今になって迎えに来たんですか」
千草がきょとんとした顔をする。
「ん?」
「どうして……もっと早く来てくれなかったんですか」
声が震える。怒りとも悲しみともつかない感情が、溢れ出した。
「私、ずっと……ずっと待ってたんです。迎えが来るのを。でも誰も来なくて……やっと来たと思ったら、“今”なんですか。都合がいいから? 何か理由があるから? ……私はただ、必要だから呼ばれただけなんじゃないですか」
言葉を吐き出した瞬間、涙がこぼれそうになり慌てて唇を噛んだ。
千草は歩みを止め、しばらく黙って宵花を見つめた。
その瞳にはいつもの軽さはなかった。
やがて、ふっと柔らかく笑う。
「……そう思うのも無理ないね。待たせすぎた。宵花にとっては“今頃”だし、遅すぎる迎えだった」
その声には、おどけも冗談も混じっていなかった。
ただ真っすぐに、痛みを受け止める響きだけがあった。
次の瞬間、千草はそっと腕を伸ばし宵花を抱き寄せた。
驚いて身を固くしたけれど、拒む力は出てこない。
温かな腕が、冷たい夜気から守るように背を包み込む。
「ごめんね、宵花。今まで一人にして」
耳元で囁かれた声は、冗談を混ぜないまっすぐな響きだった。
胸の奥がじんと熱くなる。
必死に堪えようと唇を噛んだ。
でも、もう無理だった。
黒い感情まで溶け出すのが怖くて、泣きたくないと足掻いたのに――
涙は次々とあふれ出し、頬を濡らしていった。
千草は何も言わず、ただ優しく背を撫で続けた。
涙の熱と抱擁の温かさが混ざり合い、宵花の胸を満たしていく。
千草はゆっくり宵花を離し、真剣な眼差しを向ける。
「でもね。私はただ宵花を連れてきたかったわけじゃない。君の家族――お母さんの痕跡を、君に伝えるために来たんだ」
「……母親の、痕跡……?」
吃逆を抑えながら宵花は目を見開いた。
母親の痕跡。その言葉に胸が震える。
千草は歪んだ視線を前に戻し、歩き出す。
「――宵花。ひとつだけ、先に聞かせて」
声の低さに、胸の奥がびくりと震えた。
千草は少し間を置いてから、静かに言葉を継いだ。
「君の家族……母親の痕跡を、私は知ってる。とある場所に残ってるんだ」
突然かつ、初めて聞くその言葉に喉がつまる。
物心がつく前に失った存在。記憶にすら形を残さない人。
「会えるかは分からない。けど、足跡くらいは辿れるかもしれない」
千草の声はどこまでも真剣だった。
「……どうして、私に」
「それを知るかどうかは、君次第だから」
抱きしめられて溢れ出した涙は、もう止められなかった。
流れ続けて頬を濡らし、視界を歪ませる。
拭っても拭っても零れ落ちて、感情の堰が壊れたようだった。
迎えを待ち続けた夜も、失望で押し殺した声も、すべてが涙に混ざって流れていく。
それでも――その奥に芽生えた願いだけは、確かに残っていた。
“知りたい”。
その声が恐ろしいほどはっきり聞こえる。
「……辿りたいです」
震える声は涙に濡れていたけれど、その言葉だけは揺らぎがなかった。
千草の瞳にほんの一瞬だけ安堵が灯る。次いで私を慰めるかのように、ぱっと陽が差す軽口が戻ってきた。
「決まり!じゃあ君、受験生ね。入試、よろしく!」
「……え?」
私の戸惑いを置き去りに、千草はひょいと鞄を担いで歩き出す。
慌てて追いかけると、彼女はわざとらしく指を立ててみせた。
「君の母親の痕跡はね、とある学園に残ってるの。普通の人は立ち入れない。内部に入れるのは“生徒”か“教師”だけ」
「……だから、入試……」
「そ。生徒になっちゃえばいいの!簡単でしょ?」
軽く言い放つ千草に鍵穴の奥が揺れる。
母親の痕跡――それを知るには学園に入るしかない。
「でも……私に、できるんでしょうか」
「できるできる。だって君は“夕星宵花”だから」
根拠のない言葉なのに、どこか不思議な力を帯びていた。
夕暮れの街を並んで歩く。
見慣れた商店街を抜け、住宅街を過ぎるとやがて人通りが途絶えていった。
街灯が点々と続く細道を進むにつれ、胸の奥の不安は形を持ちはじめる。
――母の痕跡を辿る。そのために私は学園に行く。
けれど、その一歩は想像以上に重かった。
◇
千草の家は街外れの古い洋館だった。石造りの壁、磨かれた手すり、色の深いステンドグラス。けれど中は驚くほど整然として、現代の機器が当たり前の顔で並んでいる。
玄関に入った瞬間、私は小さな違和感を覚えた。空気が澄みすぎている。ほこりひとつ感じられない。
靴を脱ぐ場所の石畳がやけに温かく、冬なのに冷えなかった。
「気づいた?玄関マット、床暖房いらずの特注仕様なんだよねー」
千草は軽口を叩きながら、わざとらしく足で石を踏んだ。石畳が小さく光ったように見えて私は目をこすった。
「……今、光りませんでした?」
「気のせい気のせい!まあ、入るときは三回トントン踏むのがマナーかな?」
「三回……?」
「ほら、こうして。ワン、ツー、スリー」
千草が楽しげに踏むと、廊下の電灯が一瞬だけ点滅した。
偶然にしては出来すぎている。私は喉に言葉をため込んだまま、居間へ進んだ。
リビングに入るとテレビのニュースが流れていた。
『自衛隊が新型の複合装甲板を公開――改良型
「出た、“新素材”!科学の顔をした魔術ってやつね。名前を変えると世間はすぐ納得するの。チョロいよねー」
「魔術――」
そう言った途端、テレビが突然ぷつんと切れた。
リモコンには触れていない。私が驚いて振り返ると、千草は飄々と肩をすくめた。
「停電?……なーんてね」
彼女が指を鳴らすと、テレビは何事もなかったように再び映像を映し出した。
「……今のは」
「偶然偶然!たまにはあるでしょ、そういうの!」
そう言ってウィンクする。軽口の裏に何かを隠しているのが分かって、胸がざわついた。
◇
夕食を終えて客間に案内された。
窓の外には街外れの暗い森が広がり、月明かりがステンドグラスを淡く染めている。
ベッドに腰を下ろすと沈黙が重くのしかかってきた。
施設の大部屋のざわめきがない夜は、逆に落ち着かない。
誰も笑っていないのに、誰も話していないのに、胸の奥で寂しさだけが膨らんでいく。
(……本当に、ここで暮らすんだろうか)
荷物の中から古びたノートを取り出し、開いてみても文字は目に入ってこない。
母親の痕跡――千草が言った言葉が何度も頭の中で反響する。
それは本当なのか。どこにあるのか。
ただの慰めにすぎないのではないか。
戸惑いが渦を巻く中、廊下から軽い足音が近づいてきた。
コンコン、と扉を叩く音。
「まだ眠くないでしょ?」
顔を出した千草は両手にマグカップを持っていた。
「ほら、夜は温かい飲み物に限るでしょ。……ついでに、話したいこともあるし」
リビングに戻るとランプの柔らかい光に包まれたテーブルが待っていた。
千草はマグを置き自分も椅子に腰掛ける。
ふわりと漂うハーブの香りが緊張をほどいていく。
「ねえ宵花」
千草は少し真面目な声で切り出した。
「ここに来てから起きている謎の現象、気になってるでしょ?」
「……まぁ、はい」
言葉にすると胸がざわつく。
千草は微笑を崩さずに頷いた。
「もし、この世界に魔法が存在するって言ったら信じる?」
挑発するような声音に、思わず息を呑んだ。
魔法。そんなもの、信じられるはずがない。
千草はわざとおどけて肩をすくめた。
「安心しなさい。怪しい宗教の勧誘じゃないから」
そしてポケットから白いカードを取り出し、机に軽く置いた。
「証拠を見せてあげるよ。“偶然の正体”をね。」
「……偶然の正体?」
彼女が指でカードを弾く。
何も書かれていないはずの紙に、薄い線がじわじわとにじみ出し、幾何学模様を形づくっていく。
呼吸に合わせるように模様がゆらぎ、光を帯びて整っていった
私は思わず息を止めた。
見間違いだ、と心のどこかで繰り返す。けれど、目をこすっても模様は消えない。
「……トリック、ですか?」
声に出してから、自分でも弱々しいと感じた。
「光の仕掛けとか……そういうの……?」
千草は肩をすくめ、にやりと笑った。
「残念、手品師じゃないんだなーこれが」
私はさらに言葉を探す。疑いながらも胸の奥でざわめく感覚は幻と切り捨てられない。
「……まるで、本当に……魔術みたい」
気づけば声が出ていた。
でも、もし本物ならどうして誰も知らないのか、どうしてテレビも、施設の人も教えてくれないのだろう?
疑念が先に立つ。
「おお、疑った!いいぞ宵花、疑うのは賢さの第一歩!信じ込むだけが真面目じゃないからね」
千草は嬉しそうに手を叩き、すぐにテーブルのマグを指差した。
次の瞬間、冷めていた紅茶がふつふつと湯気を立ち上らせる。
香りが濃く、甘く広がった。
「幻に見えても、お茶はちゃんと熱くなる。舌でどうぞ」
そっと口に含む。少し冷めていたはずの紅茶が確かに熱く、さっきより味も濃い。
背筋がぞくりと震える。
「……本物」
「そう、本物!さ、今度は君の番」
カードを渡される。私はごくりと唾をのみ、半信半疑のまま見様見真似で指先を当てた。
手の内側がきゅっと痺れる。世界の表面に貼られた見えない紙に細いペン先をそっと触れさせる感覚。
線を描いた瞬間、淡い光が花弁の形で咲いた。
「……え」
「初回で安定!お見事!いやーさすが私の孫! ――ってことにしとこうね」
「……孫?娘じゃなくて?」
「そうそう、“若すぎるおばあちゃんと静かな孫娘”コンビ!外聞もいいし、なんか面白いでしょ?」
「……変な人」
「はい正解!変な人でーす!」
千草はおどけてウィンクする。冗談半分にしか思えないのに、混乱と胸の奥の冷たさが少し和らいだ。
「……どうして、私にこんなことを教えるんですか」
思考をまとめ、思わず問いかける。当然の疑問。
千草は唇に指を当ててから、少し真面目な調子に戻った。
「理由は単純。――あなたがこれから受験する場所は、魔法を教える学園だからだよ」
「……魔法を……学園で……?」
頭の中で言葉がぐるぐると回る。
母の痕跡があると言われた“学園”。
それがもし魔術を扱う場所だとしたら――母は一体、どんな人だったのか。
魔術なんて、さっきまで存在すら疑っていた。
その学園に母親の足跡が残っているということは、母もまた魔術と関わっていたということになるのだろうか。
突然明かされる事実に脳がショートを起こす。
「……そんなの、信じられない」
口から漏れた声は、否定というより戸惑いに近かった。
千草は肩をすくめて笑う。
「信じなくても大丈夫。大事なのは、選ぶ覚悟があるかどうか。それだけ」
言葉の意味が、胸の奥でじんわりと広がる。
母の痕跡。魔術を学ぶ学園。
どちらも遠すぎて、にわかには信じられない。
けれど――だからこそ確かめたい。
もし何も知らないままでいたら、私はきっと一生、空洞のままになる。
笑い声に混ざれなかった日々と同じように。
視線を落とした掌を、ぎゅっと握りしめる。
震える指先に、自分の迷いと紅茶の残り香がまだこびりついていた。
それでも私は顔を上げ、はっきりと口にする。
「……それでも、私は辿りたいです。母の痕跡を」
千草の目が一瞬だけ鋭さを帯び、それからふっと緩んだ。
「そう来なくちゃ」
軽口めかした声の裏にほんの少し安堵の色が混じっていた。
◇
その夜、ベッドの上で千草は“手順”を三つだけ教えた。
ひとつ、学園のことは外で話さない。
ふたつ、家の中にも“目”があると思って行動する。
みっつ、迷ったら必ず戻る。選び直せるうちが、選ぶ力。
「以上!簡単でしょ?」
「……はい」
「いい子いい子。じゃ、おやすみのキス――は冗談です!」
「やめてください」
「あはは、反応が健康!」
笑ってしまう。笑うと、胸の鍵穴が風を通さなくなる。
「それと最後にもうひとつ。辿るって決めたら、覚悟も一緒に連れていくこと。軽口は私が担当するから、宵花は真剣を持って」
その一言だけ、冗談が一滴も混ざっていなかった。
◇
翌日。
朝早くから千草に連れられ、私は役所へ向かった。
分厚い書類を抱えながら、千草は飄々と笑っている。
「うーん、正直よく分からないことも多いでしょ?」
「……はい」
「いいのいいの!分からないまま進むのが青春!はい次!役所で手続き!世界は事務でできてます!」
千草は軽口を叩きながら窓口に向かい、にっこり笑う。
「はーい!こっちが新米受験生の宵花ちゃん、私が保護者でーす。……え? 若すぎる? えへへ、美容に気を使ってましてー」
周囲が一瞬笑い緊張がほどける。
窓口の人までつい口元を緩めていた。
あっけらかんとした千草に押されて堅苦しい手続きも不思議とスムーズに進んでいく。
私は横でただ頷くしかなかったけれど、その背中に妙な頼もしさを感じていた。
施設に戻って先生に挨拶をするときも千草は相変わらずだ。
「お世話になりましたー!今日からは私が責任持ちますから!」
軽い調子なのに、言葉に揺るぎがない。
先生たちが涙ぐむのを見て、私は胸が少し熱くなった。
“守ってくれる人がいる”という感覚が、初めて輪郭を持った気がした。
◇
手続きが終わった帰り道。
冬の風が冷たくて指先が痛むほど。
千草は私の歩幅に合わせて歩きながら、突然足を止めた。
「さて問題!受験生の宵花ちゃんに必要なものはなーんだ?」
「……教科書?」
「ぶっぶー!正解は――アイスクリーム!」
そう言って、近くのコンビニに私を引っ張り込む。
真冬にアイスなんて、と呆れるより先に私は笑ってしまった。
買ってもらったチョコバーを口に入れると、冷たいのに甘さが広がり不思議と心が温かくなる。
「どーよ、うまいでしょ。こういうのはね、頑張ったときのごほうびなの!」
「……頑張ってないです」
「んー、でも昨日『辿りたい』って決めたでしょ?それがもう頑張りだよ」
千草の言葉に、胸が少しざわめいた。
“ごほうび”なんて、今まで与えられたことがなかった。
ただ決めただけのことを、誰かが認めてくれる。
小さな一歩が、こんなにも重く大事に見えるなんて。
◇
夜、洋館の客間で布団に潜り込む。
手続きの疲れと、胸の奥に残る温かさが混ざり合って不思議と眠気がすぐにやってきた。
窓の外の街灯に照らされて、ステンドグラスが淡く光っている。
目を閉じる前に今日一日の千草の背中が浮かんだ。
頼りなくてお調子者なのに、なぜか安心する。
私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
◇
二日目の朝。
まだ外は白んでいるだけなのに台所からじゅうじゅうと音が聞こえてきた。
恐る恐る覗くと、千草がフライパンと格闘していた。
「おっとっとー!あー!黄身が逃げた!」
見事に卵の半分が床に落ち、千草は両手を挙げて降参ポーズ。
私は呆れたように小さく息をついた。
「……私、やります」
フライパンを取り上げ、冷蔵庫から味噌と野菜を取り出す。
慣れた手つきで鍋に火をかけると、千草が横で感心したように覗き込んだ。
「へぇ~、料理できるんだ。宵花ちゃん、意外と家庭的?」
「施設では、順番で当番が回ってきますから」
「なるほどなるほど!でも味見は私の役目だねー」
やかましいと思いつつも、火加減に集中する。
やがて湯気とともに味噌汁の香りが広がった。
お椀を差し出すと千草はわざと大げさに目を見開いた。
「なにこれ!うまい!世界一!いや宇宙一!」
「……普通です」
「いやいや、これ食べて合格したら“味噌汁合格伝説”って呼ばれるよ!」
くだらない冗談に、私はつい口元を緩めてしまった。
すぐに気づいて俯いたけれど、千草は見逃さなかった。
「ほら!笑った!証拠写真が欲しいなぁ!」
「……やめてください」
頬が熱くなる。
でも、そのやり取りは妙に心地よくて、胸の奥が少し温かくなる。
――こんなふうに笑顔を見守ってくれる人がいたら。
それは、ずっと憧れていた景色なのかもしれない。
食後、千草は「ごちそうさまー!」と手を合わせてから唐突に真顔になった。
「宵花。料理っていいよね。人を生かすんだよ」
「……はい」
「だから、もし迷ったら、思い出すといいよ。生かすこと、支えることを選べるかって」
その言葉は不思議と胸に残った。
いつもの軽口に混ざらない、真剣な声。
私は小さく頷いた。
◇
昼には街へ買い出しに行き、ノートや鉛筆を揃えた。
千草は文房具屋でペンを手に取り「これ一本で君の未来が変わる!たぶん!」と大げさに宣伝していた。
周囲の客がくすっと笑い、私はまた少し頬を赤らめる。
夜、ベッドに入ったとき。
窓から差し込む月明かりを見ながら、私は思った。
――今日一日、笑っている自分がいた。
千草と一緒にいると、不思議と心の中の空洞が埋まっていく。
これが、母親に近いものなのだろうか。
その考えを抱いたまま、私は静かに眠りに落ちた。
◇
三日目。
千草に連れられて、洋館の一室に並べられた衣服や道具を確認する日になった。
机には新品の制服や鞄、まだ使い慣れない魔術用具がきちんと並んでいる。
「さーて、お披露目タイム!宵花ちゃん、さっそく着てみよー!」
「……ここでですか?」
「ここでここで。ファッションショーだと思えば!」
渋々制服に袖を通す。鏡に映るのは、見慣れない自分だった。
白いブラウスに深い藍色のジャケット、整ったラインのスカート。
普段の自分とは違う“学生”らしい姿が、妙に気恥ずかしい。
「おおー!似合う似合う!百点満点!いや千点!」
千草は大げさに拍手をして、まるで親バカのようにはしゃいでいる。
私は赤面して俯き、袖を引っ張った。
「……似合ってないです」
「似合ってるって!ほら、堂々と胸張ってみなさいな」
言われるまま背筋を伸ばすと、不思議と心臓が強く鳴った。
“自分がここから変わっていく”という実感が、少しだけ形を持ちはじめた気がする。
◇
夜。
窓を叩く雨音が静かに響いていた。
薄暗い部屋で布団に潜り込むと、雨と風の音がかすかに怖さを呼び起こす。
施設の大部屋で聞く夜のざわめきとは違い、この洋館の静けさは余計に自分の孤独を映し出すようだった。
その時、ドアが小さく開く音。
千草がマグカップを片手に顔を覗かせた。
「眠れない?」
「……少し」
「雨の音って、やけに心細くなるよねぇ。という訳で!特製ホットミルク作ってきた!」
湯気の立つミルクを差し出され、両手で受け取る。
温かさが掌から胸にじんわりと広がっていった。
「ありがとう……ございます」
「お安い御用!お母さん代行は任せなさい」
冗談めかして言いながらも、その瞳は真剣だった。
飲み終えて布団に潜ると、千草がそっと布団の端を掛け直す。
「風邪ひかないように。……明日も元気で」
その声は、不思議なほどに優しかった。
大げさでもなく、おどけでもなく、ただまっすぐに向けられる温かさ。
私は胸がじんと熱くなるのを感じた。
――ああ、これがきっと“母の声”なんだ。
瞼が重くなり、音も匂いも遠のいていく。
夢へ沈む寸前、宵花は胸の奥で小さく呟いた。
(ずっと、こういう夜が欲しかった)
Arcadia Tempus でこーど! @Decode_000
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