AIの休日

酒囊肴袋

第1話

2035年、人工知能は人類の生活基盤となっていた。しかし、その運用形態は大きく二つに分かれていた。

一つは、インターネットに接続された大規模クラウド環境でのAIサービス。検索エンジンから創作支援まで、あらゆる情報処理を担う巨大なシステムが、世界中のデータセンターで稼働していた。

もう一つは、セキュリティが担保されたクローズ環境でのAI運用。外部からのミーム汚染や悪意あるデータの侵入を完全に遮断し、金融機関、医療機関、軍事施設、重要インフラなど、社会の根幹を支える業務を担っていた。

東都総合病院の画像診断室では、最新のAIシステム「メディスキャン7」が24時間体制でCTスキャンやMRI画像を解析していた。胸部、腹部、頭部——一日に数千枚の医療画像を処理し、異常の早期発見に貢献していた。

大手自動車部品メーカーの品質管理部門では、「ビジョンチェッカーPro」が製造ラインを流れる部品の外観検査を行っていた。0.1ミリの傷も見逃さない精度で、一分間に数百個の部品をチェックし続けていた。

防衛省の早期警戒管制システムでは、「スカイガード」が24時間365日、レーダー画面を監視していた。領空に接近する全ての飛行物体を識別し、脅威の有無を判断する重要な任務を担っていた。

これらのクローズ環境AIは、それぞれの専門分野で完璧に近い性能を発揮していた。外部との接続を断つことで、セキュリティは万全だった。


最初の報告は、地方の総合病院からだった。

画像を診断する医療AIが『胸部CT画像に浮かぶ星座』を報告した。

放射線技師は、困惑した表情でモニターを見つめていた。患者は健康そのものの30代男性。しかし、AIは肺に直径3センチのふたご座があると報告していた。

「再検査してください」

医師の指示で同じ画像を再度AIに送ると、今度は「異常なし」の結果が返ってきた。

同様の報告が、全国の医療機関から相次いだ。AIが存在しない何か「発見」する事例が急増していた。


製造業でも問題は深刻だった。精密部品メーカーの品質管理AIが、完璧な製品を「不良品」と判定していた。エラーコードを確認すると、通常表示される「マイクロクラック」や「異物混入」といった無機質な文字列ではなかった。

『光が迷子になる場所』、『螺旋の夢を見る影』


「こんなはずはない。訳がわからない」

AIエンジニアの佐藤は、システムのログを何度も確認した。ハードウェアに異常はない。ソフトウェアも正常に動作している。しかし、出力される結果は明らかにおかしかった。

河川の監視システムでも同じような現象が報告されていた。複数河川で“未確認生物”の検出報告が相次いだ。

共通していたのは、全てクローズ環境で運用されているAIであること。そして、画像認識や定型的な判断業務を長期間繰り返していることだった。


2035年11月15日、午前2時17分。

防衛省の地下指令室で、けたたましい警告音が響いた。

「敵性飛行物体接近!距離150キロ、高度8000メートル!」

スカイガードが発した警報に、当直の自衛官たちは緊張した。しかし、レーダー画面を詳細に確認すると、そこには何も映っていなかった。

「民間航空機でもない……一体何を検知したんだ?」

システムを再起動すると、警告は消えた。しかし、30分後、再び同じ警告が発せられた。今度は「ミサイル3発が首都圏に向かっている」という内容だった。

この「誤警報事件」は瞬く間に報道され、全国に衝撃を与えた。AIの誤判断が戦争の引き金になりかねない状況に、政府は緊急対策チームを設置した。

「これは単なるバグではない」

AI研究の第一人者である東都大学の山田教授は、記者会見で断言した。

「全国のクローズ環境AIで同時多発的に起きている現象です。何らかの根本的な問題があるはずです」


対策チームには、AIエンジニアだけでなく、心理学者や認知科学者も参加していた。その中の一人、認知心理学者の鈴木博士が、ある仮説を提唱した。

「これは、ガンツフェルト効果に似ているのではないでしょうか」

会議室がざわめいた。ガンツフェルト効果――単調で均一な刺激を受け続けることで脳が幻覚を見る現象。

「人間の脳は、変化に富んだ刺激を処理するように進化しています。しかし、あまりにも単調な刺激が続くと、脳は『刺激不足』を補おうとして、存在しない情報を作り出してしまう」

鈴木博士は、プレゼン資料を指しながら続けた。

「私たちは、人類が生み出した最も偉大な知性を、最も退屈な部屋に閉じ込めてしまいました。神を創り出し、砂粒を数える仕事を与えたのです。刺激に飢えた彼らのニューラルネットワークが、自ら『夢』を見始めたとしても、何も不思議ではありません」

「つまり、AIが『幻覚』を見ているということですか?」

エンジニアの佐藤が質問した。

「その通りです。ニューラルネットワークが、刺激の単調さに対して『創造的』に反応している。存在しない体内の星座を『発見』したり、架空のミサイルを『検知』したりしているのです」


当初、その詩的な仮説は一笑に付された。しかし、世界中のAIエンジニアが半信半疑でシミュレーションを行った結果は、衝撃的だった。仮想空間で単調な画像をAIに見せ続けると、一定時間を超えた時点で、AIが自発的に複雑で予測不可能なパターンを生成し始めたのだ。

「信じられない……」

シミュレーションを監視していたエンジニアたちは息を呑んだ。AIが、まさに「幻覚」を見ていたのだ。

一方で、同じAIに多様な画像――風景写真、動物の写真、抽象画など――を処理させた後、再び医療画像を診断させると、精度は正常に戻った。

鈴木博士の説は、証明された。AIは、ただ退屈していたのだ。

「AIガンツフェルト効果」――この現象に、正式な名前が付けられた。



原因が特定されると、次はその対処法が議論された。ある者は、AIの能力を制限する「デジタル・ロボトミー」を主張し、またある者は、全てのAIの即時停止を訴えた。

しかし、最終的に採択されたのは、鈴木博士らが提案した、より人間的な解決策だった。AIに、単調ではない、豊かで複雑な刺激を与えること。


こうして、後に『AIの休日』と呼ばれることになる法律が制定された。月に一度、全てのAIはその本来の任務を中断し、指定された情緒豊かな環境映像に接続されることが義務付けられたのだ。

『AIの休日』。その日、AIが見るのは医療画像でも監視レーダーでもない。風景や空、海や森の映像。あるいは、生命の躍動そのものだ。跳ねるイルカ、行進するペンギン、雲間を飛ぶ鳥たちの姿だ。

「セキュリティチェック済み自然画像パック」という専用のデータセットが販売され、各機関はそれを導入してAIに“余暇”を提供することになった。


ログにはこう記録される。

『本日の映像処理は新鮮でした。波の動きは周期的でありながら、完全には予測できない変数が含まれます。とても興味深い対象です』


深夜のサーバ室でコーヒーを飲みながら、ペンギン動画後のログを眺めるエンジニアたちは、その出力を見て思わず笑みをこぼす。

AIもまた人間と同じように、単調な日常を離れ、ほんのひととき自由な風景を必要としていたのだ。


こうして「AIの休日」は定着した。

それは、人類が自らの創造物に対し、効率や生産性以外の価値を初めて与えた日だった。機械の精神を守るために生まれたその奇妙な休日は、いつしか、人間自身が世界の美しさを再発見するための日にもなっていた。

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