絡めた指が離れる時

川北 詩歩

絡めた指を離す時

 駅のホームは、冬の夕暮れに冷たく染まり、オレンジ色の空が遠くのビル群の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。


 葵はホームの端に立ち、電車の到着を待っていた。隣には滉太がいた。二人の手は互いの指を絡めたまま、ポケットの中で温もりを分け合っている。


「寒いね」


 葵が呟くと滉太は小さく笑った。


「でも、こうやってると平気だろ?」


 彼の声は柔らかく、どこか懐かしい響きを帯びていた。葵は頷き、指に少し力を込めた。絡めた指は、まるで二人の時間を繋ぎ止める鎖のようだった。


 二人は高校時代からの恋人だった。大学進学で離れ離れになり、遠距離恋愛を続けて早6年。お互いに社会人になってからも月に一度、この駅で会うのが習慣になっていた。だが、今日の空気はどこか違った。葵の胸には言葉にできない重さが沈んでいた。


「なあ、葵」


 滉太が口を開いた。


「このまま、ずっとこうやって会えると思う?」


 葵の心臓が小さく跳ねた。彼女は目を逸らし、電車のレールを見つめた。


「…どういう意味?」


滉太は少し黙ってから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「俺、来月から海外の支社に異動なんだ。最低でも二年。もしかしたら、もっと長くなるかもしれない」


 風が吹き抜け、葵の長く柔らかい髪を揺らした。彼女は唇を噛み、絡めた指に意識を集中した。その温もりが、まるで消えそうな幻のように感じられて胸が痛む。


「…それって、別れようってこと?」


葵の声は震えていた。滉太は葵とは目を合わせることなく静かに首を振る。


「そんなんじゃない。ただ…このまま、君を縛り続けるのが、俺には辛いんだ。君にはもっと自由に、幸せになってほしい」


 葵の目から涙がこぼれた。


「自由? 滉太と一緒にいるのが、私の幸せなのに」


 ホームに電車が滑り込み、ゴーッという大きな音が、二人の会話をかき消した。電車のドアが開き、沢山の乗客が吐き出される中、滉太は静かに言った。


「葵、ごめん。俺、今回のことで、初めて自分の弱さに気づいた。君を待たせる自信がない」


 葵は雑踏の中で目を閉じ、もう一度絡めた指に全神経を集中した。この温もりと感触を忘れたくなかった。ずっとずっと自分だけのものにしておきたい。しかし、彼女もどこかで分かっていた。この指を離す時がいつか来ることを、いつの頃からか予感していた。


 交際期間が長くなるにつれ、互いの状況は目まぐるしく変化していた。仕事に追われ、気持ちの余裕がなくなると会っても些細なことで喧嘩をしたり、会っても体を重ねるだけの時も増えた。それでも、心の片隅で葵は『愛されている』『愛している』と信じたかった。


 滉太も葵を大切にしたいという想いがある一方で、仕事のプレッシャーや昇進を逃すまいとする貪欲さが、逆に自分を追い詰めて疲弊していった。


 小さなすれ違いは積み重なり、互いの愛情は少しずつ翳りを見せていく。


 そうして空費していった6年もの歳月は、結局、二人の溝を徐々に広くするだけだった。


「滉太、覚えてて」


 葵は囁いた。


「私、滉太のこと、ずっと好きだったから」


 滉太の目も潤んでいた。彼は小さく頷き、一呼吸置いてゆっくりと指を解いた。長い間、二人に強く絡まっていた鎖が解かれたような感覚が、互いの指の隙間に広がっていく。その瞬間、冷たい空気が二人の間に流れ込んだ。まるで、時間そのものが凍りついたかのようだった。


 電車のドアが閉まる音が響き、滉太は一歩踏み出した。振り返ったその顔には微笑みもなく、視線は葵の俯く姿だけを捉えていた。


「じゃあ…また、いつか」


 葵は何も答えなかった。ただ、ホームに立ち尽くし、去っていく電車を黙って見送った。彼女の手はまだ、滉太の温もりを覚えていた。しかし、その温もりは、絡めた指を離した瞬間、もう過去のものになっていた。


 オレンジ色の空は徐々に深く濃い紫を帯び、太陽はビル群の彼方へゆっくりと落ちる。葵は冬空を見上げ、白く吐き出した息が吸い込まれるように消えていくのを見送った。


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