第4話
休日のある日、ビニール袋いっぱいに買い出しを終えた俺は歩道を歩いていた。午後になり日が傾きかけてきたと言ってもまだまだ暑い。
目の前の交差点を渡るサラリーマンの波を避けながら、今夜の夕飯は何にしようか考えていた。
「あれ、癒川さん」
心臓が小さく跳ねるのを感じた。
振り返ると、そこには大きな佐々木がハンカチで額の汗を拭いながら立っていた。
「あ、こんにちは」
「こんにちは。すごい荷物ですね」
「近所のスーパーが特売日だったんで、ついつい買い込んでしまいました」
俺が笑うと佐々木は少し疲れた色を滲ませた笑みを返す。
「そうだ、前に話していた新しくできたカフェを覗くついでに軽くお茶でも」
「……いいんですか? 仕事中にカフェなんて」
「外回り中ですから、それにマーケティング視察ということで」
結局断る理由もなく、俺は佐々木と共に新しくできたというカフェへ足を進めた。
別にどうということではないが、真壁の目を盗むこの行為は胸の奥をざわつかせる。
……真壁に見つかったら、何て言われるだろうか。
※
新しくできたカフェは、外観からして「CAFÉ KAIUM」とは全く違った印象を放っていた。
大きなガラス窓から差し込む光が、店内のモダンなテーブルやチェアを照らしている。音楽は軽やかに流れ、スタッフの明るい声が空気を震わせていた。
先にオーダーを通し、現金を払った時点で商品を受け取るスタイル。ブレンドコーヒーを頼み、着席する。
第一印象として、俺の店とは正反対だと感じた。
CAFÉ KAIUMの静かな空間、アンティークの棚、砂糖壺を中心にした小さな箱庭のような時間――それを愛する自分にとって、この現代的な賑やかさはどこか落ち着かない。
現に客は若い子が多いのが物語っている。
一口コーヒーを啜ってみる。
「……どうですか?」
おずおずといった感じで佐々木が声をかけてきた。これが真壁だとしたら、不機嫌な顔を隠そうともせずさっさと席を立つだろう。
「……ええ、あの値段でこれくらいのクオリティーを出せるのは、企業努力だと思います。ただ、……好みではないかなぁって」
俺の言葉に佐々木は何故か満足そうな笑みを浮かべていた。
「誘ってなんですけど」
「はい」
「癒川さんの淹れてくれるコーヒーの方が、僕は好きです」
不意打ちのような言葉に、俺は視線の置き場を失った。慌てて手元にあったカップを指差す。
「……あ、このカップ、いいデザインですね。佐々木さんも骨董品とか、お好きですか?」
佐々木は、一瞬目を逸らす。
微かに震える指先で、カップを軽く回している。その沈黙は、意図せずして真壁の推理を先取りするような、些細な動揺を表していた。
「……え……ああ、まあ……好きですけど……」
声に力がなく、言葉が途切れる。さらに、窓の外の通行人に目をやるが、すぐに視線を戻せず、微かに息を吐いた。
俺は微笑を絶やさず、さらに軽く尋ねる。
「そうですか……、えっと、こういう感じのカップとか飾っているだけでも雰囲気がよくなりますもんね。お求めなら、真壁を紹介しましょうか?
口が悪くて人間性は皆無ですけど、目利きだけは信用していいですし」
佐々木はその質問に、一瞬だけ眉を寄せ、口元に小さな笑みを浮かべるが、すぐに伏せた視線がテーブルをさまよう。
「……ええ、そうですね」
言葉は短い。だが、指先がカップの縁に絡むように動く、その動きがかえって彼の緊張をあからさまにしていた。
「……骨董品って、不思議ですよね」
ぽつりと、佐々木が言った。
「いらない人にとっては、ただの古いガラクタなのに……誰かにとっては、どうしても手放せない“思い出”になってしまう」
その言い方が、どこか……諦めに似ていた。
胸の奥でざわめく感覚。真壁の目を盗んでいる背徳感と、佐々木の不意の動揺を目撃する快感が入り混じる。
俺はそっとカップを置き、正面から佐々木を見つめた。
「骨董品がお好きなら、少し変わった話とかしてみたいですね……例えば、そうだなぁ……壊れてしまったもの、じゃなくて。
“勝手にいなくなってしまったもの”って、ありませんか?」
その言葉に、佐々木の指先が一瞬止まった。
けれど彼はすぐ、わずかに笑みを作ってカップに視線を落とす。
「……失くしたもの、ですか」
声が、ほんのわずかに低くなる。
「器、というより……昔、大事にしていたものなら、あります」
「……大事にしていたもの?」
「ええ。物というより、時間、みたいなものですけど」
彼はスプーンでコーヒーをかき混ぜはじめた。
砂糖も入れていないのに、やけに長く、くるくると回す。
「学生の頃にですね……ずっと一緒にいると思っていた人がいまして。別れたわけでも、喧嘩したわけでもないんです。ただ、ある日を境に、いなくなったみたいに……」
言葉を探すように、彼は一度、空を仰いだ。
「気づいたら、その人がいない時間の方が長くなっていて……今となっては、何を失くしたのかさえ、はっきりしないんですが」
かすかに息を吐く。
その横顔は、さきほどまでの曖昧な笑顔とは違っていた。
どこか……置いてきぼりにされた人間の顔だった。
「失くしたものって、案外そんなものかもしれませんね」
「……」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
砂糖壺の話から、きれいに逸らされたことは分かっている。
分かっているのに――。
そんな話は、ずるい。
老人の郷愁でも、若者の傷でもない。
“取り残された人間の後悔”というには、あまりにも生々しい。
「……その人とは、もう会ってないんですか」
声が、自分でも驚くほど柔らかくなった。
佐々木は、首を振る。
「きっと、もう二度と」
「……そうですか」
「でも、不思議ですよね」
なぜか、彼は微笑んでいた。
「忘れられないからこそ、誰にも触れてほしくない。……なのに、どこかで『見つけてほしい』とも思ってしまう」
その言葉が、やけに胸に残った。
見つけてほしい、という響きが、あまりにも――“盗まれたもの”の声に似ていたから。
……もしも。もしも、この人が犯人だったとしても、俺は真壁に告げ口をしたりしないだろう。
そう思った瞬間、胸が軋んだ。
たとえ真壁が、どんな証拠を突きつけてきたとしても。
この人のこの顔を見てしまった俺に、果たして――
そのときだった。
ポケットの中で、スマートフォンが小さく震えた。
画面を見ないでもわかった。
この癖のない短い振動は、真壁からだ。
佐々木に悟られないよう、テーブルの下でそっと画面を確認する。
『進展あり。
情報が揃ったら連絡する』
吸い込む息が、わずかに震えた。
――進展。
それだけで、真壁の調査が、俺の知らない場所で、確実に“こちら側”へ近づいてきていることが分かる。
「……癒川さん?」
「……あ、すみません」
顔を上げると、佐々木が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
「ええ……ちょっと、仕事の連絡で」
「そうでしたか」
彼は、それ以上踏み込まなかった。
その距離の取り方が、優しさなのか……逃避なのか、分からない。
けれど俺は、知ってしまった。
この午後の穏やかさが、もうすぐ――壊れる。
真壁の手によってか、それとも、俺自身の選択によってかは……まだ分からない。
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