第3話

 真壁は顎に手を添えたまま、背もたれにゆったり身を預けた。


「まあいい。探偵がやることは、時に“待つ“ことだからな」

 低い声でそうつぶやく声には冗談めいた響きが混ざるが、どこか本気の色が滲んでいた。


 佐々木は曖昧に笑い、カップの縁を指先でなぞる。 俺はただ、その場の空気を丸く収めようと「お口に合えば幸いです」とだけ言い、再び布巾を手に取った。


 視線を落とすと、磨き上げたカウンターに自分の顔が揺らいで映る。


 ……砂糖壺がない。ただそれだけのこと。いつもあるものが無いという事実は、不釣り合いな空洞を作り出す。

 けれど、口にするのはやめた。たとえ胸の奥で小さな違和感が芽吹いていたとしても、今この穏やかな空気を乱すほどのことではない。


 布巾を動かす指先に、かすかな湿りが残る。気のせいだ、と自分に言い聞かせていると、不意に低い声が割り込んだ。


「さて、そろそろ推理ごっこを再開しようか」

 真壁だった。

 わざとらしくカップをテーブルに置き、背もたれに身を預けると、涼しい顔で榎本を見やる。


「マスターの大切な砂糖壺。あれは骨董品としても価値がある。おそらく、あれを目にした者の中には——どうしても欲しくなった人間がいてもおかしくない」

 佐々木が小さく笑った。


「また大げさなことを」

「大げさではありませんよ」

 真壁の声音は柔らかいが、どこか探りを入れるような響きがあった。


 俺は眉をひそめる。

「やめろって言ってるだろ」

「推理に根拠は後からついてくる。まずは動機の穴を見つけることが大事だ」


 真壁はわずかに口角を上げ、カウンターの上に視線を落とした。 その仕草だけで、胸の奥にしまいこんだ小さな不安が、また顔を覗かせる。


 真壁は空になったカップを無造作に置いた。気付けば、もう二杯目も飲み干していた。


「おい、飲み過ぎだぞ」

  思わず口から出た小言に、真壁は片眉を上げて見せた。

「うまいものは仕方ない」


 俺は肩を落としながら、三杯目の豆を計量し始める。今日の豆は、甘みの余韻がしつこくなくて軽やかだから、つい杯が進むのも無理はないけれど——。

 そう思いつつも、手は慣れた動作で動いてしまう。湯を落とせばまた香りが立ち、真壁は満足げにカップを受け取った。


 その唇にカップが触れた瞬間、彼はぽつりと言葉を落とす。

「犯人は常連か……それとも、一見の客か」

 ぽつりと落とされた言葉に、店の空気が少しだけ冷えたように感じた。 佐々木が冗談めかした笑みを浮かべようとしたのも、一瞬遅れる。


「常連ならば、マスターがどれほどあの壺を大事にしているか知っているはずだ。だが同時に……ここに馴染んでいるからこそ、欲しいと思えば手に取る機会はいくらでもあった」


 その目が一瞬だけ榎本をとらえる。 何気ない仕草のはずなのに、こちらまで心臓を掴まれたように感じてしまう。


「一見の客ならどうだ。事情を知らず、ただ目に入った可愛さに惹かれて——衝動的に持ち去った、とか」

 真壁は指を立て、軽く揺らした。


 佐々木は小さく笑ってみせた。だがその笑みには、どこか言葉を選ぶような間があった。

「……まるで推理小説のようですね。私は読者として見守らせてもらいますよ」

「そうですか。読者もまた、立派な証人でしてね」

 真壁がわざとらしく肩をすくめ、三杯目のカップを揺らす。


 佐々木は苦笑を浮かべながら、その言葉を受け止めるようにうなずいた。

「なるほど……証人、ですか。面白いですね」

 軽く眼鏡の位置を直すと、今度はさも何気ない調子で窓の外に視線を流した。

「そういえば、駅前の通りに新しいカフェができたらしいですね。会社の同僚が話していました」


 真壁は口元に影を残したまま、低くつぶやく。

「話題転換の手際も鮮やかだな」

「え?」

「いや、なんでもない」


 佐々木は気づいていないように見えた。

 だが、その黒縁眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ窓の外に泳いだ気がした。まるで、視線を合わせることを避けるかのように。


 静けさを破るように、佐々木が腕時計へと視線を落とした。

「……そろそろ、戻らないと。午後から会議があるんです」

 カップの残りを一息に飲み干す。

 その仕草は相変わらず整っていたが、どこか急いているようにも見える。


「ごちそうさまでした。今日も美味しかったです」

 柔らかな笑顔。だが、カバンの留め具を閉める指先が、ほんのわずかに震えていた。




 扉の鈴が鳴り止むと、店内に小さな静けさが降りた。

 昼下がりの光がテーブルを斜めに照らし、榎本のいた席にはまだ温もりが残っている気がする。


 カウンターでは真壁がゆったりと背もたれに身を預け、空になったカップを指で回していた。 「さて」

 ぽつりと落とされた声が、店の空気を再び緊張させる。

「ここいらで、容疑者をひとりずつ見立ててみるか」


「……おい」

 思わず口を挟む。

「やめろって言っただろ、そういうの」

「やめない」

 真壁は悪びれもせず、目だけを細めて笑った。


「まずは、いま出て行った佐々木さん。昼休憩に寄っては本を読んだり、軽く世間話をしたり。穏やかで常識的な人柄……そう見える」

「そう見える、って言うなよ」

「だが、さっきの様子を思い返してみろ。罪を問われた時、彼は確かに笑ってはいたが、その笑みに影が差した瞬間があった。

 それに——誰かを否定する言葉ほど、強い執着を隠しているものだ。」


 胸の奥がひやりとする。自分でも気づいていたことを、真壁に指摘されたせいだ。

「……ただの気のせいだろ」

「かもな」

 軽く頷く。だが、その口調は否定ではなく、余地を残した曖昧さだった。


「最後に——」

 わざとらしく間を置き、俺を見やる。

「マスター。お前自身だ」

「……俺?」

「そう。大事にしすぎて、隠したくなった。誰にも触れられたくない。だから、誰かのせいに見せかけて——自分で仕舞い込んだ」


「馬鹿言うな!」

 思わず声を荒げる。 だが、真壁は涼しい顔のまま。

「怒ったな。図星か?」

「違う!」

「なら、いい」


 軽く肩をすくめて、再び背もたれに身を預けた。

「大切なものほど、人は無意識に遠ざけたくなるものだ。……まあ、あくまで仮説だがね」


 冗談とも本気ともつかない調子。その曖昧さが、かえって胸のざわつきを煽った。 静けさが広がる。


「結局、誰が犯人なんだよ」

 俺の問いに、真壁はにやりと笑う。

「それを決めるのは、俺じゃない。マスター、お前だ」

「俺……?」

「そうだ。誰を信じ、誰を疑うか。それを決めるのは、店の主であるお前だろう」


 その言葉に、返す言葉を失う。 信じたい。疑いたくない。だが、砂糖壺が消えたという事実だけは消えない。


 違う。


 真壁の論理に、俺の世界を全て任せてはいけない。

 もし彼が一人で佐々木を追い詰めれば、彼はただの冷たい探偵になる。そして、その過程で、俺の知らない佐々木の秘密を、彼だけが知ってしまう。彼が事件の核心を独占し、俺の傍から遠ざかる。その未来の方が、砂糖壺がなくなったことより、ずっと怖かった。


 カップの底を軽く鳴らし、真壁は立ち上がった。


 俺は一呼吸置き、深く胸の奥まで息を吸い込む。そして、店を出ようとする真壁の腕を、有無を言わさぬ力で掴んだ。

「真壁。お前の推理を、俺も手伝う。……佐々木さんの言うことが嘘か、本当か、この目で確かめる」


 真壁は、探偵の冷静な目から、一瞬、満足げな笑みに変わった。

 その笑みは、まるで自分の独占欲が証明されたかのような、甘く冷たい色をしていた。

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