EP 2
最初の試練
聖母のような微笑みを浮かべた母・マリアが、俺の顔を優しく覗き込む。ぼやけた視界の中でも分かる、完璧な美貌。銀色の髪がきらきらと輝いて見えた。
「あなたの名前は……そうね、『アルマ』にしましょう」
その声は、まるで極上の音楽のようだった。
隣から、父・リドガーの太陽のように明るい声が響く。彼は俺の体を軽々と持ち上げ、その大きな顔を近づけてきた。
「おぉ、アルマか! カッコいい名前だ! よかったな、アルマ!」
(そうか、俺の新しい名前はアルマか。広野雄一、享年30。今はアルマ・クラウディア、0歳。……まぁ、良いだろう)
前世の名に未練がないわけではないが、感傷に浸っても腹は膨れない。俺は早々に思考を切り替え、この新しい名前を受け入れた。
そんな俺の様子を見て、マリアが不思議そうに首を傾げる。
「まぁ、この子ったら泣かないわ。普通、生まれたばかりの赤ちゃんはもっと泣くものなのに。とてもおとなしいのね」
「何だと!?」
マリアの言葉に、リドガーは目をカッと見開いた。そして、次の瞬間には満面の笑みで俺の頭を巨大な手のひらで優しく包み込む。
「ガッハッハ! 流石は俺とマリアの息子だ! 肝が据わっている! 偉いぞ、アルマ!」
(いや、中身は30歳の男なんで……)
そんなツッコミが届くはずもなく、俺は親バカ全開の父にされるがままになっていた。その時だ。俺の人生……いや、"アルマ生"における最初の、そして最大の試練が訪れたのは。
「さぁ、アルマちゃん。おっぱいの時間ですよ〜」
にこやかに、しかし有無を言わせぬ響きで、マリアが告げた。
視界がゆっくりと、その豊かな胸元へと近づいていく。
(……は?)
一瞬、思考が停止した。
おっぱい? オッパイ? あの、母乳が出る、おっぱいのことか?
俺が、それを、飲む?
(冗談じゃない! 勘弁してくれ! 俺は30歳だぞ!? 精神が耐えられるわけがない!)
全力で抵抗しようとする。しかし、生まれたての赤子の体は、ぴくりとも意思を反映しない。できることといえば、かろうじて顔を背けることくらいだ。
「あらあら、どうしたのアルマ? 恥ずかしがり屋さんなのかしら?」
くすくすと笑いながら、マリアは俺の口元にそっと乳首を近づけてくる。甘い、ミルクの香り。その瞬間、俺の脳内で理性を司る広野雄一と、赤子の体に宿る生存本能が激しい戦いを始めた。
(だめだ、抗え! これは尊厳に関わる問題だ!)
『グゥゥ〜……』
(くそっ、腹が……腹が鳴るな!)
羞恥心と空腹感の板挟み。前世の記憶が、倫理観が、成人男性としてのプライドが、全力で「NO!」と叫んでいる。
だが、赤子の本能はあまりにも強力だった。生きるために、栄養を求める純粋な欲求。
(くっ……! これは医療行為だ! そうだ、経口による栄養補給! カロリー摂取! 生きるための……!)
脳内で必死の自己弁護を繰り返しているうちに、俺の口は抗いがたい引力に導かれ、ついに温かく柔らかいそれに吸い付いていた。
温かい。
そして、優しい味が口の中に広がっていく。
母・マリアの腕の温もりと、心臓の鼓動。絶対的な安心感に包まれながら、満たされていく感覚。
(ああ……なんだこれ……すごく、落ち着く……)
羞恥心は、いつの間にか安らぎの中へと溶けていってしまった。満腹になった途端、抗いがたい眠気が襲ってくる。
(まあ、赤ん坊ってのは、飲んで寝るのが仕事か……)
最強の外科医だった男の尊厳は早々に砕け散ったが、その代わりに得たものの温かさに、アルマは静かに意識を手放すのだった。
その寝顔を、世界で最も強い夫婦が、この上なく愛おしそうに見つめていた。
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