第8話 うわさ
一日の仕事を終えて、下城途中、またしても平井に会った。平井は、どうやら伊織を待っていたらしかった。
伊織は、平井の顔を見て眉をひそめた。
「どうした?」
「ま、歩きながら話そう」
平井は、伊織の肩を抱いて歩き始める。伊織は胸騒ぎがした。まさか、平井まで自分と辰之助の関係に気付いたのだろうか。
「要件があるならさっさと云えよ」
こちらから問いかけた。すると、平井が足を止めた。
「谷村どのが気にしておったぞ」
孫四郎の名が出て、伊織は思わず顔をこわばらせた。
「気にするとはどういうことだ」
「うん?」
平井のとぼけた顔を見て、伊織は眉を吊り上げた。
「おぬし、まさか、ありもしないことを話したんじゃないだろうな」
「失敬な」
平井はわざと顔をしかめたが、それを見て悟った。
なにか云ったのだ――。
孫四郎と平井は同じ田宮真剣流の道場に通っていた。
平井は、再び伊織の肩を抱いて歩きだすと小さい声で囁いた。
「伊織、そなた、この話を聞いたか?」
「……何の話だ」
「辰之助だ。あやつ、江戸に思い人を残して来たらしい。江戸に行きたいと志願しているのはそのためだそうだ」
伊織は一瞬、息をするのを忘れた。しかしすぐに眉一つ動かすことなく相手を睨みつけた。
目付として一年間の賜物であった。
「辰之助からもらった文にもそう書いてあった」
極めつけに、伊織にはいちども寄こさなかった文の内容を明かす。
ひくひくと頬が引きつったが、平井は気づかなかった。
無表情の伊織を見て、平井は拍子抜けする。
「あれ貴公、知っていたかの」
「知っていたとは?」
「当てが外れたの」
「なんだと?」
「その町娘、面白いことに、お前によく似ているそうだ」
この男は一体何が云いたいんだ。
「何が云いたいのだ。俺にはさっぱり分からぬ」
「気をつけろと云うことだ」
「なんに気をつけるんだ?」
「言葉の通りだ。辰之助は色男だからの、俺でもぐらつく」
「……もうよいっ」
伊織は、平井の腕を振り払い、地面を踏みつけて歩き出した。
遠回しの忠告に腹が立ってくる。
気をつけるもなにも、もう泥沼にはまっているよっ。
呆れたものだと自分でも思う。
国許ならば、江戸よりも比較的自由に動ける。
人気のない無住の神社に入ってことに及んだり、お互いの家に行き来たりしても、仲がよいと思われているのか怪しまれることはなかった。
歩いているうちに頭が冷静になっていった。
平井が云いたかったのは、谷村孫四郎に気をつけよ、という意味だったのではないか。
平井は恐らく、辰之助の思い人が江戸にいる話を孫四郎にしたのだろう。
孫四郎の目をよそに向けようと苦肉の策だ。そして、その江戸の相手が伊織に似ている、という話もしたに違いなかった。
女と比べられるとは理解に苦しむが、平井が気をつけろと云ったのは、孫四郎に、辰之助との関係を気取られるなという事じゃないだろうか。
江戸に女がいるという噂が真実であるかもどうでもよかった。
遠く離れた娘のことなど気にしない。
伊織は大きく息を吐いて、辰之助の顔を思い浮かべた。
会いたい。
顔を見るだけでいい。伊織は歩き出した。
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