第6話 花の匂い
伊織はどきりと胸がはねたが、気取られぬように素知らぬ顔をした。
「道場からの帰りか?」
「そうだ。なにを持っているんだ?」
辰之助はそう云うと、伊織の手を見た。
「金木犀だ。さっき平井と会ってな」
差し出すと、匂いを嗅ごうと辰之助が顔を寄せて目を閉じた。
少しでも体が近づくだけで、心臓が痛い。
「なつかしい匂いだ」
辰之助は、伊織の気持ちなど気付きもせず、自分と同じことを云った。思わず苦笑すると、辰之助が驚いている。
「なにがおかしいんだ」
「おぬしの顔が面白いと思ったのだ」
「失敬な」
「怒ったか?」
「これくらいで怒るか。昔、お前と一緒にこの花を探したことを思い出していたのに」
「俺もだよ。姉上から、花器に挿す花を探して参れとたびたび云われたな」
辰之助も同じことを思っていたのだ。
伊織はうれしくて目を細めた。
伊織の姉はすでに嫁いでいるが、はっきりと物をいう凛とした女性であった。
二人が十歳の頃、季節の花を花器に挿すため、方々を探し回った記憶があった。そばにはいつも辰之助がいて、どちらがいち早く花を見つけられるか競争した。
匂いに敏感なのは伊織であったが、場所を特定するのは辰之助の方が素早かった。
「伊織」
花の匂いを嗅ぐようにして、辰之助が体をかがめて耳に囁いた。
甘い匂いとともに熱い息がかかる。ともに切ない思いが込み上げ、幾夜の記憶が甦った。
「花の匂いに酔ったのか? それとも俺が欲しくなったか」
明け透けな言葉に羞恥で顔が赤く染まった。
たしなめる余裕もなく、下を向いてぼそぼそと答えた。
「……往来で話すことではない」
「そうだな」
肩をすくめると、辰之助は少し足を速めて歩き出した。
伊織も黙ってそのうしろを追いかけた。
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