二人だけの、共有の秘密

春野 セイ

第1話 再会



「出世したな、広一郎こういちろう


 なつかしい幼名ようみょうで呼ばれ、佐竹さたけ伊織いおりは立ち止まった。声の主に戸惑いながらも目の前に立つ男を見て息を呑んだ。


辰之助たつのすけ……」

「今は、伊織と云うのだな」


 目を細めて笑う男から視線が外せない。


「若さま」


 草履取りの声に我に返る。


「あ、うん……。先に戻ってろ」


 は、と頭を下げて去っていく。

 草履取りが去ったのを見届けると、江戸へ行ったきり一度も文も寄こさなかった大橋おおはし辰之助たつのすけがこちらへ近づいてきた。


 江戸からの道中、日に焼けたのだろうか、国許にいた時よりもずいぶん浅黒く見える。

 三年ぶりに会った辰之助は、着流しに刀を帯びただけの軽い様相をしていた。湯でも浴びたのだろうか、結い上げた髷はきっちりとして、湯上りの顔は気が緩んでいるように見えた。ゆらりゆらりとこちらへ歩いてくる。

 目の前に立つ男は見上げなくてはならないほどたくましくなっていた。


「どうした? そんな顔で。なんとか云えよ」

「なんで……ここにいる」

「今朝方早くに江戸より帰国した。一番に会えてよかった」


 辰之助はクスッと笑うと、ぐっと近づいてきて伊織の肩に腕を回すと耳元で囁いた。


「伊織と呼んでもよいか」


 伊織は何もできず、無意識に首肯していた。


 会いたかったのだ。死ぬほど会いたい男だった。


「フフフ、泣きそうな顔をしてるな」


 辰之助が笑う。もし、辰之助に会うことがあったなら、笑顔でお帰りと云おうと思っていたのに、このざまだ。

 伊織は、唇を震わせながら未練がましい口調で云った。


「どうして……。どうして俺にはひとことも云わずに江戸に行ったんだ」

「すまない」


 辰之助が謝る。

 そんなひとことだけで片づけられる関係だったのだろうか。

 辰之助は伊織の肩に腕を回したまま歩くよう促した。


平井ひらいに聞いたぞ、婚約者がいたそうだな」


 伊織はびくっとして下を向く。


「お前には関係ない……」

「つれないな。教えてくれないのか?」

「その話をするなら、俺は帰る」

「せっかく会えたんだ。酒でも飲まないか?」

「酒はけっこうだ」


 すげなく云うと辰之助は肩をすくめて、悪かったよ、と小さく呟いた。


「俺は平井に会ってくる。用事があればそちらへ来てくれ」


 ひょいと腕を離され気づけばもう背中越しから辰之助の声が聞こえたが、振り返ることができなかった。




 三年前、辰之助はけぶりも見せず黙って江戸へ剣術修行に行ってしまった。自分は何かしただろうかと心配になって何度も文を送ったが、一度も返事はなかった。

 共通の友だちの平井とは連絡を取り合っていたらしいが、自分だけ連絡がない間、空しさを感じた。

 だが、自分たちは友だちなのだから、帰ってきたら何もなかったように許してやろうと思っていたのに。

 いざ、目の前にすると笑顔で迎えることができなかった。


 伊織は立ち止まると、辰之助が向かった方向へ顔を向けた。

 砂埃と町方の人が行き交うばかりで、とっくに辰之助の姿など見えない。伊織は肩を落として歩き始めた。


 小園こその、辰之助が帰って来たよ――。

 婚約者だった彼女の顔を思い浮かべ空を仰ぐと少しずつ暮れゆく空に雲が流れるのが見えた。

 伊織はまっすぐ前を向いて、小園に会うために毅然として歩き始めた。

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