第3話 震撼の東京大地震作戦
九月十五日、午前十一時、千葉県富津市 鬼泪山の山中
山肌を縫うように走る県道から少し脇道に入った先に開けた空間があって、五百平方メートルほどの平坦な広場になっていた。広場の周囲は高い樹木と下草の生い茂る濃い緑に覆われていて、それとは対照的に広場の赤茶けた土が白く陽光を反射していた。九月中旬とはいえまだまだ残暑は厳しく、ネットリとした濃密な空気の中に立っているだけで汗が噴き出してくる。木々の間から差し込む光は槍のように鋭く、肌を突き刺してくる。
ドボンデズ戦闘部隊第一班の面々は、広場の片隅に止まっている幌付きの大型トラックの前で二列に整列して立っていた。今回の作戦では第一班は輸送担当である。今朝九時にドボンデズのアジトを出発して、地震発生装置をトラックに載せてここまで運んできたのだ。
列の前に立っている山本班長は、五秒おきに腕時計を睨んでいた。
「遅い! 遅い、遅い、遅すぎる!・・・もう一回、遅い! 集合は五分前が鉄則だ! マッタク、戦闘担当の二班は何をやっているんだ。モグデズ様は既に待機されているというのに」
広場の中央にトレーラーハウスが止まっていて、その先にサーカス団が使用するような大きなテントが張られていた。テントの中には直径五メートルの穴がぽっかりと口を開けていた。東京の地下を南北に走る巨大な活断層がこの真下を通過しているのだ。既に半月ほどの時間をかけてモグデズが活断層の内部に到達するトンネルを掘っていた。
作戦当日の今日は、アジトから運んできた地震発生装置を、トンネルの底深く活断層の最深部に据え付け、起動ボタンを押すだけ。そうすれば首都東京は直下型大地震に襲われて壊滅するのだ。頭の天辺からつま先まで震撼する恐怖の作戦である。
モグデズはここ半月の間、トレーラーハウスに泊まり込みで穴を掘っていた。五時間ほど前に何とか掘削作業は完了し、モグデズはトレーラーハウスの中で仮眠をとっていた。
山本のスマホに着信が入った。
「はい、第一班班長山本・・・ああ、勝田? 第二班は何をやってるんだよ、時間厳守で・・・え? 追突事故? マイクロバスが・・・けが人もいるのか・・・これから現場検証ってお前、コッチはどうするんだよ。お前んとこの第二班が戦闘担当だろうが・・・頼むって、そんな急に・・・オイッ! あ、切れた」
山本はゴリラのような顔を怒りで朱に染めながら、第一班の方を向いた。
「作戦変更だ。戦闘担当の第二班の乗ったマイクロバスが追突事故を起こした。けが人が出て病院に搬送されたらしい。これから警察の現場検証があって、作戦の実施時間には間に合いそうにない。仕方がない、我が一班が戦闘担当を受け持つ。分かったな。手分けして地震発生装置をトラックの荷台から降ろしてテントの中に入れろ。装置の最終組立て作業は俺がやる。テントへの搬入と組立てを一時間で終わらせるぞ。
昼食休憩は組立て完了後から十三時までだ。この先のアザー牧場のバーベキューコーナーを予約してある。おススメはラム肉のジンギスカンセット、千五百円。わかめスープとライス付きだ。この前の横浜のときのように飲みすぎるなよ。ひとり生中二杯までだ、いいな。特に村木! 分かってるな、よし。ああ、運転手はノンアルコールで頼むぞ。十三時になったらモグデズ様が地震発生装置を持って地中に潜られる。活断層の最深部まで往復二時間。モグデズ様が地上に戻られた後、十五時に地震発生装置を起動。東京は大地震に襲われる。津波の心配があるから我々はここで一時間待機。その間に、清掃とテントの撤去を完了させる。十六時撤収だ。以上、何か質問は」
和也がオズオズと手を挙げた。
「何だ、神藤」
「あのう、確認なんですが。十三時にモグデズ様が地中に潜って、十五時に地上に戻ってこられるまでの二時間、私たちはここでズウッと待機しているんでしょうか」
「当り前だろう、一糸まとわぬ、違った、一糸乱れぬ直立不動の姿勢でお待ちするのだ」
戦闘隊員たちがザワザワと騒ぎ始めた。村木が手を挙げた。
「山本班長、十四時からアザー牧場で子豚のレースがあるんですよ。可愛いんだなこれが・・・ちょっとだけ見てきてもいいでしょうか」
「ムウウ、十四時からか・・・。よし、二、三名の留守番を置いて見に行くか。留守番担当は不公平にならないようにじゃんけんで決める、これでいいな。他に質問は」
戦闘隊員たちは無言のまま微動だにしない。山本の「かかれ!」の声を受けて、戦闘隊員たちは口々に「ギリギリ!」と叫びながら、一斉にトラックの荷台に飛び乗った。
和也と晃はふたり一組になって、一辺が一メートルの立方体の形をした木箱を運んでいた。木箱には『精密機械につき取扱注意』の文字とドボンデズの略称『DD』がペイントされていて、その下に『天地無用』の文字が見える。中に地震発生装置の部品が入っているのだが、木箱はとてつもなく軽い。
和也と晃は鼻歌交じりで木箱を運んでいた。
「こりゃあラクチンだ。晃、走るか。早く終わらせてビールを飲もうぜ」
「はいな、和也さん。それじゃあ・・・」
走り出そうとした晃が地面の窪みに足を取られてつんのめった。アッと思う間もなく、木箱が地面に落ちた。ガシャンと何かが割れたような音がした。
「晃、いま、ガシャンって音がした?」
「定かではないですが・・・おそらく」
和也と晃は恐る恐る木箱を開けた。中には緩衝材に包まれたランドセルほどの大きさの機械が入っていた。正面に大きな赤いボタンが付いている。和也が両手でそっと持ち上げると、アンテナのような突起物がポロリと外れた。斜めにすると中で部品の破片が転がっているようなカラカラという音がした。
「こいつをここに嵌め込んじゃえば・・・ほら、直った。晃、どうだい」
「見た目には・・・」
「見た目が重要でしょう。とにかく、急ごうぜ。山本班長がカリカリ怒っているだろうからな。こいつを届けたら、ジンギスカンでビールだ」
「ラム肉なんて久しぶりだなぁ。そうか、モグデズ様は北海道出身だから、山本班長が気を利かせたのかな」
「中間管理職はつらいね」
和也と晃は機械を木箱の中に仕舞うと、今度は慎重に木箱を運んだ。しかし、心は既にジンギスカンとビールに飛んでいる。
十二時五十五分、昼食休憩を終えた戦闘部隊第一班の面々は、テントの前に二列になって整列していた。列の前に山本班長が立ち、その横には魔人モグデズが並んで立っていた。五分前集合が完了したせいだろう、山本の顔は明るく輝いている。
「モグデズ様に敬礼!」
山本の掛け声に合わせて、戦闘隊員たちは気を付けの姿勢から、胸の前に右手拳を当てて「ギリギリ!」と叫んだ。
モグデズは隊員たちに向かって深々と礼をすると、スウッと背筋を伸ばした。
「戦闘部隊第一班の皆さん、残暑厳しい折、震撼の東京大地震作戦に従事していただき、誠にありがとうございます。私こと魔人モグデズといたしましては、皆さんのご尽力に対しまして心より感謝申し上げる次第でございます。また、先程は、ジンギスカンにビールという結構な昼食をご用意いただきました。北海道出身の私といたしましては、懐かしいジンギスカンの味を堪能したと共に、子供の頃にジンギスカン鍋を頭にかぶって遊んでいて母に叱られた思い出がこみ上げてきて、思わず目頭が熱くなりました。皆さんのご厚情に改めてお礼申し上げますと共に、作戦遂行に向けて志を新たにしたことをご報告申し上げます。さて、世界征服を企む悪の秘密結社を取り巻く、昨今の社会経済情勢は極めて厳しいものがございます。海外に目を向けますと・・・」
モグデズの横に立っている山本班長は、五秒おきに腕時計を睨んでいた。小声でブツブツと何か呟いている。
「長い! 長い、長い、長すぎる!・・・もう一回、長い! 五分前に集合したのに、もう十五分も訓示をたれている。訓示は短くが鉄則だ! マッタク、早くしないと片岡のバカがやってくる・・・ウン?」
遥か彼方からエンジン音が響いてきた。エンジン音は山の峰々にこだましながら広場に向かって近づいている。山本が振り返った。
「あ、あれは!」
山本がわざとらしく驚愕の声を上げた。モグデズがゆっくりと振り返った。
細い砂利道を抜けてホンダスーパーカブ50が爆音と共に広場の中に飛び込んできた。スーパーカブには白のタンクトップの上に革ジャンを羽織り、ジーンズをはいた片岡が乗っていた。スーパーカブは土煙を上げて後輪を滑らせながらモグデズの二十メートル手前で止まった。
「待てーい!」
少し鼻にかかったダミ声が響いた。片岡はそう言いながら脱いだヘルメットをラゲージボックスに仕舞った。相変わらず几帳面なのだ。
「世界征服を企む悪の秘密結社ドボンデズ、お前たちの好きなようにはさせない!」
片岡は少し腰を落として両手を前に突き出し、戦闘態勢をとった。その姿を見てモグデズがポカンとした顔をして言った。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
片岡のこめかみにミミズのような血管が浮き上がった。
「どちら様だと! コノヤロウ・・・キチンと引継ぎを受けていないのかよ!」
「そんな大声を出さなくっても・・・山本班長、こちらの方をご存じですか?」
モグデズは困った顔をして山本を見た。山本はモグデズの耳に口を寄せて小声で言った。
「モグデズ様、こいつが例の正義の使者月影ですよ。引継資料の四十三ページに顔写真付きで掲載してあったでしょう」
「穴掘りが忙しくて、引継資料の後半部分はちゃんと見てないんです。すみません」
モグデズが山本に向かってペコリと頭を下げた。山本は口をへの字に曲げた。
「マッタク・・・とにかく、ここは私がお約束のセリフを・・・。おのれ片岡、いつも我々の邪魔をして・・・今日こそは始末してやる! 戦闘隊員、かかれ!」
「ギリギリ!」
戦闘隊員たちは声を上げるだけで、誰も片岡に向かって行かない。山本の怒号が飛ぶ。
「何やっているんだ、かかれよ! 先に進まないじゃないか。神藤、五十嵐、ついでに村木も、かかれ!」
和也と晃が顔を見合わせていると、誰かがふたりの背中を突き飛ばした。
「何するんだ」と和也。
「あっ危ない」と晃。
ふたりは片岡の正面に転がり出た。ふたりの後ろから、生中二杯までという山本の命令を守らず、昼間から生中を八杯も飲んで酩酊状態の村木が千鳥足でフラフラと出てきた。
片岡は和也の顔を見てニヤリと笑った。
「よう、神藤、この前はどうも。お前、あれから千夏ちゃん目当てに優駿に通っていたらしいじゃないか」
「そんな、誤解ですよ。私は優駿のコーヒーの味に惹かれて通っていただけです」
「嘘つけ。大学の夏休みが終わって千夏ちゃんが手伝いをやめたら、お前、パッタリとこなくなったって千春ちゃんが言ってたぞ。まあいいや、とにかく、かかってこい! これからは仕事だ、手加減しないぜ」
チャッピーの常連バカ三人組が素手で片岡に殴りかかった。
片岡の正拳突きが和也の顔面にさく裂した。晃はあっという間に腕を取られ、一本背負いを食らって腰から地面に叩きつけられた。村木は回し蹴りを腹にまともに受けて仰向けに倒れたまま十メートルも地面を滑った。
「フン、こんなザコどもでは相手にならん。モグデズ、お前を倒す! 世界平和を守る正義の使者月影に体形変化!」
片岡は両腕を胸の前でX字に組んで叫んだ。
説明しよう。片岡隆盛は元陸上自衛隊員である。片岡は・・・長くなるので途中は省略しよう、正義の使者月影に体形変化するのだ!
片岡は革ジャンを脱いで丁寧に畳むとラゲージボックスに仕舞い、代わりに特殊強化装甲装置を取り出した。頭部、腕、脚、胸、胴体、腰の部分に分かれているパーツを、ひとつひとつ該当部位に当ててパチンパチンと留め具を止めていく。
十人の戦闘隊員が片岡を遠巻きに取り囲んでいて、山本はその後ろで五秒おきに腕時計を睨んでいる。
片岡は特殊強化装甲装置の装着を終えた。
「装着完了・・・正義の使者月影降臨!」
正義の使者月影は胸の前で腕をX字に組んだ。強化チタン合金と特殊カーボンで造られた特殊強化装甲装置が陽光を受けてキラリと輝いた。
「九分五十八秒! 片岡、新記録だ」
山本が親指を立てて「グッドジョブ」と月影に声を掛けた。
月影はポーズを決めたまま、キョロキョロと周囲を見回している。
「おい、山本。モグデズはどこへ行ったんだよ」
「モグデズ様?・・・そういや、姿が見えないな。オイ、誰か、モグデズ様がどこへ行ったか知らないか」
正規雇用隊員の岩井が山本の傍に走り寄ってコソコソと耳打ちをした。山本が素っ頓狂な声を上げた。
「なに、地震発生装置を持ってもう出発しちゃった? 待ってられないって言って? 訓示はあんなに長いのにせっかちだな」
月影が決めのポーズを解いて、腕組みしながら山本の前に立った。
「なんだよ、体形変化中に出発したのかよ。幹部のくせにお約束の意味が分かってないじゃないか。山本、お前んところは最近たるんでるぞ。きちっとやれよ。俺が一生懸命練習して体形変化時間を縮めても、これじゃあ何にもならんじゃないか!」
「・・・一言もない、すまん。後でよく言い聞かせるから、ここは俺の顔に免じて」
山本は拝むようにして月影に頭を下げている。
「仕方ないなあマッタク、頼むぜ・・・。それで、これからどうする」
山本は月影をテントの中に引っ張って行った。ふたりの前にモグデズの潜っていった穴がぽっかりと口を開けていた。
「モグデズ様は地震発生装置を持って、このトンネルを地下の活断層の最深部に向かって歩いているはずだ。追いかければ間に合うんじゃないか」
月影は恐る恐る穴を覗き込んだ。ダメだとばかりにブルブルと首を振る。
「真っ暗じゃないか、しかも狭いし。俺は閉所恐怖症なんだよ。追いかけるのは却下」
「そうか・・・それじゃあ、モグデズ様は二時間後にここへ戻ってくるから、そこで戦うってのはどうだ」
「だって、地震発生装置を持って行っちゃったんだろう、どうすんだよ」
山本はフンと鼻で笑うと、穴の横に設置された長机の上に置かれているランドセルほどの大きさの機械を指差した。機械にはアンテナのような突起物があって、正面には赤色の大きなボタンがこれ見よがしに付いていた。起動装置である。たしか、和也と晃が運んでいたやつだ。
「地震発生装置を設置しても、ここにある起動装置のボタンを押さなきゃ動かないんだよ。だから、正義の使者が魔人から起動装置を奪って大地震の発生を防ぐ。どうよ、これで」
「それでいくか・・・よし決まり。ところで二時間もどうやって時間をつぶそうかな。こんな山の中じゃ喫茶店もないし・・・お前たちはどうするの?」
「俺たち? モグデズ様には内緒だぜ。十四時からこの先のアザー牧場で子豚のレースがあるから、それをみんなで見に行くんだ」
「乗った、俺も行く。何番の豚が一等賞になるか賭けようぜ」
「正義の使者がそんなことしていいのかよ」
「細かいこと言うなよ」
山本と月影は肩を並べてテントから出てきた。テントの前では、片岡にやられたチャッピーの常連バカ三人組が地面に転がってウンウン唸っていた。山本はしゃがみ込んで三人の様子を見た。山本が無慈悲に言った。
「大丈夫だ、その程度の怪我じゃあ死にやしないさ。しばらくテントの中で横になってろ。三人か・・・丁度良かった、じゃんけんする手間が省けた。よーし、村木、神藤、五十嵐、お前たちは留守番だ。テントの中でモグデズ様をお迎えしろ。後はこいつらに任せて、残りは出発だ」
特殊強化装甲装置の頭部ユニットを外して脇に抱えた片岡と山本が仲良さそうに軽口を叩き合いながら歩いて行った。その後ろを、第一班の面々がぞろぞろとついて行く。広場に残された三人に、山間を吹き抜ける風が巻き上げた土埃が容赦なく降り注いだ。
和也と晃と村木の三人は、山本の指示を無視して、モグデズが仮眠室として利用していたトレーラーハウスの中で小さなソファーに腰を下ろしていた。和也は殴られた左目に濡れタオルを当てて冷やしている。晃はユニフォームの上着を胸までまくり上げて、腰から背中にかけて大きなシップを貼っている。村木は腹部を両手で押さえたまま顔をしかめて下を向いている。
濡れタオルを交換しようと簡易キッチンに向かった和也は、コンロの横に備え付けてある冷蔵庫を見つけてドアを開けた。中には缶ビールがギッシリと詰まっていた。
「こちら和也、缶ビール発見。直ちに臨戦態勢に入ります」
村木がガバッと顔を上げた。
「こちら村木、了解した。傷口の殺菌と痛み止めのためだ、相当量の摂取はやむを得ないだろう。五十嵐隊員、つまみ・・・いや、怪我で弱った体力を回復するための糧秣を調達しろ」
「こちら晃、ラジャー。速やかに関係先を捜索の上、対象物を押収します」
晃が腰の痛みも忘れて簡易キッチンの戸棚の中を物色している最中に、すでにソファーの方からプシュッという缶ビールの栓を開ける音が響いてきた。
テントの中の穴の奥からザクザクと地面を踏みしめる足音が響いてきたかと思うと、不意に大きなカギ爪が暗闇の中からニュウッと外に突き出され、次いで茶色い毛に覆われた大きな身体が地上に姿を現した。地下深くの活断層最深部に地震発生装置を設置したモグデズが、トンネルを通って地上に戻ってきたのだ。現在の時刻は十四時三十分。当初予定していた時刻より三十分も早い。
モグデズは穴の外に出ると、眩しいとばかりにつぶらな瞳を細め、首から下げていた大きなゴーグルをかけた。キョロキョロとテント内を見回したが、出迎えの戦闘部隊員の姿が見えない。
「ただいま帰りました。オーイ、誰かいませんか?」
モグデズが声を掛けたが返事がない。モグデズは首を傾げながらテントを出た。
九月の陽光に照らされた広場は、荒涼として人影がなかった。傍らにトレーラーハウスがあり、広場の向こうに幌付きのトラックが止まっているだけだ。木々の枝を揺らしながら風がザアッと吹き抜けた。モグデズはフラフラと二、三歩あるくと、ドサリと地面に膝を突いた。
「やられた、みんなやられてしまった。正義の使者月影に・・・。何ということだ、私が月影の体形変化を待たずに地底に向けて出発したばっかりに・・・。私がいればみんなを助けることができただろうに。すまん、山本班長、一班のみなさん・・・この仇は必ず取る!」
何かを勘違いしているモグデズは、ゆっくりと立ち上がると、トレーラーハウスの扉を開けた。ソファーに三人の戦闘隊員が突っ伏していた。恐らく死んでいるのだろう、ピクリとも動かない。周囲には缶ビールの空き缶が散乱し、奥の簡易キッチンは全ての戸棚が開けられて、収蔵していた物が床に落ちて足の踏み場もない。
「ここでも三人が・・・おのれ月影、皆殺しという訳だな、何てひどい。亡くなられた隊員のみなさんのご冥福を心よりお祈りするとともに、みなさんの死を無駄にしないためにも震撼の東京大地震作戦を決行する」
モグデズはテントの中に駆け戻ると、穴の横に設置された長机の上の起動装置を手に取った。モグデズの脳裏に大震災に見舞われた東京の阿鼻叫喚の地獄絵が走馬灯のように流れた。モグデズは妄想を振り払うかのように左右に大きく首を振ると、震える爪を起動装置の赤いボタンに押し当てた。
「震撼の東京大地震作戦決行! 地震発生装置起動!」
モグデズが爪に力を入れた。カチリと音がした。地震発生装置が起動したのだ!
あたりは針一本落としても聞こえるようなシンとした静寂に包まれた。モグデズがゴクリと生唾を呑み込む。やがて地底深くから腹の底に響くような微かな振動が・・・伝わってこない。
「おかしいな、時間が掛かるのかな。これ、起動しているよね・・・」
モグデズは起動装置の赤いボタンを何度もカチャカチャと押した。
そのとき、テントの入口がサッと開いた。外からドヤドヤと人が入ってくる。顔を上げたモグデズと山本班長の目が合った。
「あれ、モグデズ様いつの間に・・・いや、早いお帰りで。ご苦労様でした」
「山本班長? それに一班の面々も・・・生きていたのか。よかった」
山本はモグデズが持っている起動装置に気付いた。モグデズはまだカチャカチャとボタンを押している。山本は驚嘆の声を上げた。
「モグデズ様! まさか、起動装置を・・・ボタンを押しちゃった?」
「え? ダメなの? そうならそうと早く言ってよ。もう、押しちゃったよ」
モグデズはいたずらが見つかった子供のように狼狽えた顔をして、持っていた起動装置を背中に隠した。
そこに、特殊強化装甲装置の頭部ユニットを脇に抱えた片岡が、アザー牧場特製搾りたて牛乳で造ったアイスクリームを舐めながら入ってきた。
「マッタク、子豚のレースで一万円も負けちゃったよ。オーイ、山本、そろそろ十五時だぞ。モグデズは・・・あれ、もういるじゃない。何だよ、勝手に出発したかと思えば今度は時間前に到着かよ。そういう不規則行動は現場が困るんだよ。幹部としての自覚を・・・ん? どうした?」
「押しちゃった」
「何を?」
「起動装置のボタンを・・・押しちゃった」
「誰が?」
山本班長と一班の面々が一斉にモグデズを見た。
モグデズはアワアワと首を振りながら、二、三歩後ろに下がった。
「そんな、何か私が悪いことでもしましたか? そうですよ、山本班長と一班の面々が私を出迎えてくれていれば良かったんですよ。そうすれば勝手にボタンを押すこともなかったし。・・・ん? いやいや、そもそも十五時になったら速やかにボタンを押すことになっていたでしょう。そうですよ、私が少し早めにボタンを押して何が悪いんですか!」
モグデズはヒステリックに大声を上げた。片岡は「マアマア」とモグデズをなだめながら、やけに落ち着いた声で諭すように言った。
「そうは言ってもね、正義の使者と悪の秘密結社のそれぞれの立場ってもんがあるでしょう。いや、役割分担と言ってもいい。持ちつ持たれつ、世の中そうやってうまく回っているんだよ。それを自分たちの都合だけで勝手に進められちゃあ、こっちの立つ瀬がないやね・・・分かる? 俺とあんたが戦って、俺が負けた、だからあんたが悪の作戦を実施する。これなら世の中納得するよ、俺のメンツも立つってもんだ。しかし、あんたが今回やったことはそうじゃない。これまでの俺たちの関係をぶち壊しにするもんだ、違うかい!」
片岡の声は、最後は熱を帯びて激しい口調になった。モグデズは下を向いたまま動かなくなった。泣いているのだろう、肩を揺らしてヒックヒックとしゃくり上げるような音がする。山本がモグデズの背中を撫でながら言った。
「・・・片岡、そう言うな。今回の件では俺にも責任がある。子豚のレースなんぞに、アウッ・・・とにかく、起動装置のボタンは押されたんだ。これからの・・・それにしても、地震がこないな。兵器開発室の話だとボタンを押せば直ぐに地震が発生するって言っていたが」
「壊れているんじゃないのか」
「おかしいな・・・。モグデズ様、その起動装置を貸してください。ここのアンテナが・・・アッ、取れた」
山本はポロリと取れたアンテナ部分を、指でつまんでしげしげと見ている。そして起動装置を顔の前まで持ち上げると、左右に振った。
「中でカチャカチャ音がする・・・部品が外れているんだろう。何だ、不良品だ」
山本には起動装置を和也と晃が運搬中に落として壊したことなど知る由もない。
「ということは、地震は」
「起きない」
山本と片岡は声をそろえてアハハと笑った。
その笑い声を耳にしたモグデズの身体がわなわなと震え出した。
「チクショウ、みんなで私を虚仮にして・・・許さん、許さんぞ!」
モグデズはグオオオという叫び声を上げながら、辺り構わずカギ爪を振り回した。たちまち二名の戦闘隊員がカギ爪の餌食となって倒れた。戦闘隊員たちは口々に悲鳴を上げながら、我先にテントから飛び出して行く。その様子を見た片岡は手に持った頭部ユニットをゆっくりと被り、パチンと留め具を止めた。山本はモグデズの前に立って、何とかなだめようと両手を前に突き出している。
「いきなりどうしたというんです。モグデズ様、落ち着いて」
「うるさい!」
モグデズは山本に向かってカギ爪を振り上げた。モグデズは怒りのために正気を失っていた。岩をも砕くカギ爪が山本の頭上に振り下ろされた。
ガキッと音がして火花が散った。
モグデズのカギ爪を月影の右腕が受け止めていた。
「ちょっと遅れたが・・・正義の使者月影降臨! 魔人モグデズ、お前の相手はこの俺だ! 外へ出ろ!」
「おのれ月影。しゃらくさい、お前から血祭りにしてやる」
月影とモグデズはもつれるようにしてテントの外に飛び出した。山本は地面にペタリと座り込んで、月影とモグデズが出ていく様子を見ていた。
「ふう、とにかくこれで軌道修正できたってことか。やれやれ死ぬかと思ったぜ」
山本は「ヨッコラショ」と掛け声をかけて立ち上がると、月影とモグデズを追ってテントを出た。
広場では月影とモグデズが向かい合っていた。
月影は少し腰を落として両手を前に突き出し、戦闘態勢をとっている。モグデズは大きなカギ爪を頭上に振り上げて、ユラユラと揺らしている。
「行くぞ!」
月影は素早く間合いを詰めると、強烈な正拳突きをモグデズの顔面に向けて放った。モグデズは身体を捻って正拳突きをかわすと、体勢の崩れた月影の肩にカギ爪を叩き込んだ。ガキリと音がして特殊強化装甲装置から火花が飛び散った。装甲装置の表面に傷はついていないが、その下の片岡の身体には強烈な衝撃が走った。思わず膝を突いた月影の頭上をカギ爪が襲う。ガキリ。再び特殊強化装甲装置から火花が飛び散った。
「ムウウ」月影の口から苦痛の声が漏れた。
モグデズはカギ爪を地面に突き立てると、猛烈な勢いで地面に穴を掘り始めた。モグデズの身体を土煙が覆い、モグデズの姿が見えなくなった。モグデズが地中に潜ったのだ。
月影を取り囲むように、地面がモコモコと盛り上がる。モグデズが地中で月影の周囲を回っているのだ。突然、月影の背後の地面の土が吹き上がりモグデズが飛び出した。モグデズは素早く月影の背中にカギ爪を叩き込むと、月影が反撃をする間もなく地面の中に消えた。地中からモグデズのくぐもった声が響いた。
「グフフ、月影よ。どうだ、モグラ魔人モグデズ様の地中攻撃をかわすことはできまい」
月影の背後を襲うモグデズの地中からの攻撃が続いた。月影には有効な反撃手段がない。
・・・ダメだ、どこから攻撃してくるのか分からない。このままではヤラレル・・・
月影が焦燥感に駆られていたとき、突然、地面がグラリと揺れた。
地震だ! しかも・・・大きい!
ドシンという縦揺れに続いてグラリと横揺れが襲ってきた。立っていられないほどの揺れだ。月影は体勢を低くして膝と両手を地面に突いた。そのとき、月影の目の前にモグデズが地中から飛び出してきた。
「ひゃあああ、地震だ! 私は地震が嫌いなんですぅぅ」
モグデズは悲鳴を上げながら無防備に立っている。
「今だ! 必殺技月影チョップ!」
月影は数歩下がってから、モグデズに向かって猛然と走り出した。そしてモグデズの三メートル手前で踏み切ると身体を水平にして宙を飛び、クロスさせた両手をモグデズの首に叩きつけた。フライングクロスチョップ、いや、月影チョップがさく裂したのだ!
モグデズは五十メートルも吹っ飛ばされた。
「おのれ・・・月影・・・ああ暗い・・・光を・・・もっと光を!」
詩的な断末魔の悲鳴と同時に、モグデズは大爆発を起こした。
立ち昇る爆炎を背にして、正義の使者月影は胸の前で腕をX字に組んで決めのポーズをとった。強化チタン合金と特殊カーボンで造られた特殊強化装甲装置が爆炎を受けてキラリと輝いた。
トレーラーハウスの扉が開いて和也と晃が飛び出してきた。
「わわわ・・・地震だ。晃、退避だ!」
「はいな、和也さん。・・・村木さんはどうします?」
和也は振り返ってソファーの上で缶ビールの空き缶に埋もれた村木を見ると、悲しげな顔をして首を振った。
「村木さん・・・。ダメだ、彼ひとりのために隊員全員の命を危険にさらすことはできない。仕方ない、置いていこう。彼は正規雇用隊員だ、自分の力で何とかするだろう」
「さようなら、村木さん」
和也と晃は後ろ髪を引かれるような思い・・・など欠片もなく、トレーラーハウスから離れた。
「お前たち何をしている」
「え?」
和也と晃の前に山本班長が腕組みをして立っていた。
「地震の揺れを感知したので、安全な場所に退避しようとしておりました。なあ、晃」
「はいな、和也さん。あ、コンロの火が消えていることは確認済みであります」
しどろもどろのふたりを山本は睨みつけた。
「お前たち、テントの中で留守番してろと言っただろう。勝手にトレーラーハウスに入りやがって。お前たちのせいでモグデズ様が・・・まあ、そうとも言えんか。村木はどうした」
「村木さん?・・・はて? 村木、村木・・・、ああ、あの村木さんね。彼は片岡に蹴られた腹部の傷が悪化して・・・とにかく、瀕死の重傷でしたので、応急処置として痛み止めを大量に服用させたところ、昏睡状態に陥り・・・残念ながらいまだに意識が戻りません」
和也が必死にとぼける。山本は眉根を寄せたままだ。
「また酔いつぶれているのか。マッタクしょうがない奴だ」
山本は和也の弁明を全く信用していない。当然だが。
和也がその場を取り繕うかのように山本に尋ねた。
「山本班長、先程の地震は・・・震撼の東京大地震作戦が成功したんでしょうか」
「それじゃあ・・オオオ、東京は壊滅したのか・・・」
晃はわざとらしく絶句して両手で顔を覆った。山本は違うとばかりに首を横に振った。
「震撼の東京大地震作戦は失敗だ。なぜだか分からんが起動装置が破損していて、地震発生装置を起動させることができなかった。さっきの地震は偶然だ。詳細は確認中だが、震源は千葉県内陸部、丁度この下あたりで、最大震度は四、マグニチュードは三程度と推定されている。東京都心は震度二から震度一程度で、まったく影響は出ていないらしい。とにかく作戦失敗、モグデズ様は月影にやられて爆死。これ以上ここに居てもしかたがない、撤収だ。各自、片づけと清掃にかかれ」
起動装置が破損していたと聞いて、和也と晃はビクリと肩を震わせたが、山本には気付かれなかったようだ。和也と晃は逃げるようにして山本の前から離れると、テントの片づけを始めた。モグデズのカギ爪の餌食になったふたりの隊員が、後方支援の医務官に付き添われて担架で運ばれて行く。追突事故の怪我人といい、今日は散々な一日だった。
こうして震撼の東京大地震作戦は失敗したのだ。
その日の夜、チャッピーの奥の小上がりの座敷で戦闘部隊第一班の山本班長と、第二班勝田班長、第四班吾条班長が反省会と称して酒を飲んでいた。豚のように肥った勝田班長と頭頂部が剥げて河童のような風貌の吾条班長が、ゴリラの山本班長にこんこんと説教されているようだ。山本班長の横には既に千春が陣取っていて、お酌もそこそこに手酌でグイグイ飲んでいる。
テーブル席には和也と晃と村木がいつものように陣取って酒を飲んでいた。もうひとつのテーブル席もカウンター席にも他の客はいない。今夜のチャッピーは閑古鳥の巣である。今日の日替わりのおススメは鰹のたたき風モグラのたたき。いったい何の肉なのか想像がつかない・・・。
和也は鰹のたたき風モグラのたたきを箸で摘まみ上げて、口に入れようかどうしようか踏ん切りがつかないまま村木に言った。
「マッタク、今日は酷い目に遭いましたね。村木さん、お腹は大丈夫なんですか」
「片岡のバカは手加減を知らないからな。蹴られたときは内臓が破裂したかと思ったよ。まあ、それでもユニフォームのおかげで助かった。なにせ、山本班長の説明によると、ユニフォームは敵からの攻撃による衝撃を九十九・九九パーセント吸収する特殊構造らしいからな。これがなきゃ死んでたぜ」
「村木さん、山本班長の説明を鵜呑みに・・・やはりバカ・・・いやいや、そうですよ、ドボンデズの科学の勝利です」
『心頭滅却すれば火もまた涼し』を体現するバカが和也の目の前にいた。
よっぽど暇なのだろう、おやじが一升瓶とグラスを持って和也たちのテーブルにきた。おやじは和也の横の席に座ると、和也の顔を見てガハハと笑った。和也の左目の上はまだ瘤のように膨れていて、目の周りはパンダのように青あざになっていた。
「神藤くん、ひどくやられたね。まあ、怪我は戦闘隊員の勲章だ。儂も現役のときは生傷が絶えなかったもんだ」
「おやじさん、私だけじゃないんです。晃は一本背負いで投げられて腰を打って、村木さんは回し蹴りを腹に食らったんですよ」
「そうなんです、イテテテ急に腹が・・・」
村木がわざとらしく腹を押さえて呻き始めた。
「ワハハハ、その程度じゃ死にやしないさ。アルコールで体内から消毒すればすぐに良くなるさ。おーい、かあさん、テーブル席に生中三つ。それと今日の日替わりのおススメがいっぱい残っているだろう、それも全部持ってきて・・・。心配するな、儂の奢りだ」
女将さんが満面に馬面の笑みを、逆だ、馬面に満面の笑みを浮かべて、生中のグラス三つと土鍋の蓋のような大きな皿に山盛りの鰹のたたき風モグラのたたきを持ってきた。
「どんどん食べちゃって。なぜか知らないけど今日はおススメが全然売れないのよね、美味しいのに。ねえ、おとうさん」
女将の言葉におやじは頷くと、モグラのたたきを箸で摘まみ上げてヒョイと口の中に入れ、「ウン美味い、天才だ」と自画自賛した。
奥の座敷から山本の声が聞こえてきた。
「オーイ、お銚子五本追加、ぬる燗で。それに今日のおススメのモグラのたたきをありったけ持ってきて。今日はモグデズ様をしのんでパアッとやろう。こら千春ちゃん、飲んでばかりいないで、ちょっとはお酌してよ」
女将さんはハーイと返事をしてから、鰹のたたき風モグラのたたきの増産のためにカウンターの中に戻っていった。おそらく、最後まで何の肉なのか分からないまま終わるのだろう。ひょっとすると、閑古鳥の肉だったりして。
晃が奥の座敷を見ながら言った。
「和也さん、見てあれ。奥の座敷は実写版西遊記だ」
「バカ、晃、そんなこと言うもんじゃ・・・本当だ。猿、豚、河童、馬・・・三蔵法師がいない」
「神藤も晃も、そんなこと言ったら殺されるぞ。少なくとも山本班長はゴリラであって猿ではない。そうはいっても同じ類人猿だがね。よーし、人類の進化に乾杯だ!」
テーブル席のバカ三人組は、ビールジョッキを掲げて高らかに「乾杯」と唱和した。
おやじはウンウンと何かに納得しながらグビグビとコップ酒を飲んでいる。おそらく、西遊記のワンシーンでも思い浮かべているのだろう。
カウンター席の上に天井から吊り下げられているテレビでは、アナウンサーが千葉県内陸部で発生した地震について話している。
『本日午後三時頃、千葉県内陸部を震源とする地震が発生しました。最大震度は四、マグニチュードは三と推定されています。各地の震度はご覧のとおり。この地震による被害ですが、千葉県富津市の鬼泪山の山麓にある大日本化学産業株式会社の富津工場内で、小規模な地滑りが発生し、工場施設の一部が倒壊した模様です。これによる死者や怪我人はいないとのことです。なお、工場施設の倒壊との関連は不明ですが、現場から少し離れた山中の空き地で、何かが爆発したような痕跡が残っていたとのことです。
・・・只今続報が入ってきました。大日本化学産業株式会社富津工場内の地滑りにより流出した土砂からカドミウム、水銀、鉛などの大量の第二種特定有害物質が検出されたとのことです。関係者からの聞き取りにより、これらの有害物質を長年にわたり地中へ不法に投棄していた疑いが浮上したとのことで、捜査関係者によると、大規模な土壌汚染問題に発展する可能性があるとのことです。それでは次のニュースです。・・・』
誰もニュースを聞いていない。チャッピーの夜は賑やかに更けていく。明日も全員二日酔いだろう。
十月初旬
ドボンデズのアジトの地下六階にある万能細胞研究室では、白衣を着たデス博士が電子顕微鏡を一心不乱に覗き込んでいた。電子顕微鏡が映し出すミクロの世界では、ひとつの細胞がブルブルと震えたかと思うとふたつに細胞分裂し、更に、四つ、八つと細胞分裂を繰り返していた。しかもその細胞は、人間の細胞に見られる分裂速度の数十倍の速さで分裂を繰り返しているのだ。
デス博士は電子顕微鏡から顔を上げた。いつもは死神のように陰気な博士の顔が、喜びのために紅潮している。
「完成だ・・・万能細胞Zが遂に完成した」
デス博士の呟きを聞いて、助手の小林研究員が振り返った。黒縁のごつい眼鏡をかけた四十前後の小太りの男だ。
「万能細胞Z? いやだなあデス博士、Xの次はYですよ。だから順番で行くと万能細胞Xの次は万能細胞Y」
小林研究員はそんなことも知らないのかという顔でデス博士を見ている。
「万能細胞Yなんてカッコ悪いだろう。ロボットでもマ●ンガーYなんて弱そうじゃないか。アルファベットの順番などどうでもいいのだ。万能細胞Z、響きもいいじゃないか。究極の万能細胞だからZ! これで決まり」
デス博士はムッとしたような顔で言い返した。
「まあ、命名権はデス博士にありますから、お好きにどうぞ。それではチョット拝見」
デス博士に代わって電子顕微鏡を覗き込んだ小林研究員は、細胞分裂の様子を確認すると称賛の目でデス博士を見た。
「デス博士、おめでとうございます。ついに、ついにこの日がきましたね・・・長かった」
小林研究員はこれまでの苦労が思い出されたのか、涙ぐんでいる。
「ありがとう、小林研究員。君にも散々苦労をかけたな。よし、ドロン首領にお願いして、この冬のボーナスは奮発してもらおう」
小林研究員の顔がパアッと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「なあに、礼には及ばんよ。たまには家族で温泉旅行にでも行ってきなさい。伊香保辺りがいいな・・・。ゴホッ、それでは、小林研究員、万能細胞Zの技術を駆使した究極の世界征服作戦の準備を始めるか」
小林研究員が目を見開きゴクリと唾を呑み込んだ。恐怖のために顔が青ざめている。
「それではデス博士、とうとう、あの作戦を・・・」
デス博士の顔に狂気が宿った。
「そうだ、あの作戦だ・・・」
万能細胞Zは万能細胞Xの改良版で、細胞分裂のスピードはXの五倍、人間への移植にあたって他の動物の遺伝子を依り代にする必要がなく、更に、外部から強い衝撃を受けても万能細胞Xのように爆発する恐れが無いのだ。万能細胞Zを用いることで簡単に遺伝子操作が可能となり、究極の魔人の製造のほか細菌兵器の製造にも無限の可能性が広がるのだ。
一か月が経過した。
異常に長い残暑が突然終わり、秋を跳び越えていきなり冬がきたように、ここ数日は肌寒い日が続いていた。
鼻風邪を引いた和也は、鼻水をズルズルとすすりながらドボンデズのアジトの地下二階にある医務室のドアを開けた。狭い待合室にはソファーが二本置かれていた。ソファーには先客がひとり座っていて、和也と同じように鼻をグズグズいわせていた。
受付を済ませてソファーに座り、暇つぶしに雑誌棚に並んでいる雑誌を手に取った。『月刊世界征服』という物々しいタイトルの雑誌は、世界各国の秘密結社の最近の活動、今後の行事予定、幹部の異動速報、各種サークル活動などを紹介する業界誌である。今月号の特集記事は『ドボンデズまた大失敗 震撼の東京大地震作戦の裏側』。話題の人のコーナーでは片岡のインタビュー記事が顔写真付きで載っている。広告欄には居酒屋チャッピーまで載っていた。
和也が月刊世界征服のページをパラパラとめくっていると、処置室からギャーという断末魔の悲鳴が響いてきた。何ごとかと和也が顔を上げる。
続いてバタバタと処置室内を走る音。
「逃がすな」という男の声。
何かがガシャンと倒れる音。
「助けてくれ」という声に続いて、何かがドサリと床に倒れた音。
・・・処置室が静かになった。
和也が思わず腰を浮かして処置室に意識を集中させていると、ガチャリと音がして処置室のドアが開き、中から全身を白いシーツに覆われた患者を乗せたストレッチャ―が運び出された。シーツの横から青白い腕がだらりと垂れていた。
これはただごとではない。逃げろ! という声が和也の頭の中で鳴り響いた。和也は雑誌を棚にそっと戻すと、医務室から逃げようと足音を忍ばせてソファーから離れた。
「神藤さん、神藤和也さん。処置室へどうぞ」
柔らかな女性の声が医務室内に響いた。
「あのう・・・体調が急に良くなったものですから、今日はこれで失礼します」
受付の女性に声を掛けて、医務室から出ようとした和也の肩を、万能細胞研究室の小林研究員が背後から万力のような力で掴んだ。
「そんなこと言わずに。ほら、鼻水が垂れているじゃないですか。鶴は千年風邪は万・・・いや、風邪は万病のもと、侮ってはいけませんよ。ひょっとしたらもっと悪い病気が潜んでいるかもしれない。検査しましょう」
「本当に大丈夫ですから、今日はこれで・・・ああ、何を、引っ張らないで!」
抵抗もむなしく、和也は処置室に引き込まれた。
処置室の中には大きな机と椅子があり、その前に患者の座る丸椅子が置かれていて、中央には診察用のベッドが冷たい光を放っていた。ベッドの横の台の上に置かれた皿の中には銀色に輝くメス、ハサミ、鉗子、ピンセットなどが無造作に並んでいる。ノコギリやペンチまであるのはなぜだろう。
白衣を着たデス博士が椅子に座り、部屋の中に入ってきた和也を死神のような目で見ていた。小林研究員に促されて和也は博士の前の丸椅子に腰を下ろした。
「どうしました」
デス博士の冷たい声が響いた。和也の身体がビクンと揺れた。
「どうもしません、健康体です。売店と間違って医務室に入っちゃって、仕方なく受付を・・・グズッ失礼・・・あっ、いまのは無しということで・・・ダメ?・・・ズビビビ・・・そうです、風邪です、極めて軽度の鼻風邪ですよ。何の問題もありません。それではこれで失礼させていただきます」
デス博士はゆっくりと首を横に振った。そして机の上に置かれた問診票を手に取った。
「神藤和也、三十二歳、独身、家族なし、住所は青雲寮205号室、非常勤職員・・・好都合じゃないか。戦闘部隊第一班所属・・・ということは山本が班長か」
和也がオズオズと聞いた。
「あのう、何が好都合なんでしょうか」
「こちらの話だ、気にするな」
デス博士は机の上の大きなゴム印を掴み上げると、問診票にペタンと押した。問診票の上で赤インクの『隔離』の文字がネットリと光っている。
「悪性の風邪がドボンデズ内に蔓延すると、世界征服計画の遂行に支障をきたしかねない。小林研究員、神藤和也を直ちに隔離だ。それと、例のものを投与してくれ」
デス博士の言葉に小林研究員が無表情で頷いた。ゴツイ黒ぶち眼鏡のレンズがきらりと光った。和也の顔が恐怖で引きつった。
「ギャー」
和也は断末魔の悲鳴を上げると、丸椅子から立ち上がり、ドアに向かってバタバタと処置室の中を走った。
「逃がすな!」デス博士の声が響く。
和也がぶつかった点滴スタンドが倒れて、ガシャンと大きな音がした。
和也の目の前に小林研究員が両手を広げて立ち塞がった。
「助けてくれー!」和也が叫ぶ。
背後からデス博士が何かの液体を吹きかけた。和也は意識を失ってドサリと床に倒れた。
・・・処置室が静かになった。
しばらくすると処置室のドアが開き、中から全身を白いシーツに覆われた和也を乗せたストレッチャ―が運び出された。シーツの横から和也の腕がだらりと垂れていた。
和也が行方不明になって三日が経った。
チャッピーのテーブル席に晃と村木が陣取って酒を飲んでいた。もうひとつのテーブル席には二班の隊員が四人、カウンター席には五班の隊員が三人座っている。今日の日替わりのおススメは、ほぼ蟹サラダ。
奥の小上がりの座敷で戦闘部隊第二班の勝田班長、第三班の犬飼班長、第五班の猿谷班長が反省会と称して酒を飲んでいた。勝田班長の横では千春がほぼ蟹すき鍋に具材を投入している。
本日決行された『戦慄の東京大停電作戦』は相変わらず失敗に終わり、作戦の指揮をしていた魔人カニデズは爆死。作戦遂行中に船橋市の東都電力中央変電所内にある送電用鉄塔二基が倒壊し、隣接する大手製薬会社の工場と資料保管庫が巻き添えを食ったらしい。本部待機だった第一班は定時に解散し、晃と村木はいつもどおり十八時にチャッピーに入ったのだ。
晃と村木は珍しくしんみりとした顔つきでビールを飲んでいた。
「ねえ、村木さん、和也さんはどこへ行っちゃったんでしょうね。姿が見えなくなって、今日で三日ですよ」
「そうだな、寮に帰ってきた形跡もないし。あの日は鼻をグズグズいわせていたから、風邪が悪化して入院でもしているのかも知れないな。それとも・・・」
「それとも?」
村木は晃に手招きすると、晃の耳元でヒソヒソと言った。
「チャッピーのつけがたまりすぎて、支払えなくなって逃げたとか」
「そうか、年末のボーナスで清算するからと言って、ずっとつけで飲んでいるからなぁ、他人事じゃないや。そう言う村木さんだって同じでしょう」
「それを言うなよ。仕方ない、いざとなったら千春さんを嫁に貰って、つけは帳消しにしてもらおう」
「そんな、自分だけズルい。そうか、そのときは村木さんから金を借りればいいんだ」
「バカ、返済される見込みのないやつに金なんか貸さないぜ」
「それじゃあ借りません。お金をください」
「そんな正々堂々と正面から・・・嫌です。絶対にあげません」
晃と村木が「ください」「あげません」とバカな押し問答を繰り返しているところに、山本班長がノソリとチャッピーに入ってきた。山本は店内を見回して晃と村木を見つけると、ふたりのいるテーブルに近づいて、何も言わずにドサリと村木の隣に座った。
「やっぱりここだったか。邪魔するぜ。オーイおやじさん、生中ひとつ。おススメは? ほぼ蟹サラダか、蟹じゃないのね、よしそれひとつ。それと刺身の盛合せを三人前。刺身もほぼ刺身? こっちも魚じゃないのか・・・まあいいや」
山本は注文を終えると、晃と村木の顔をジロリと見た。
「お前たち、神藤がどこへ行ったのか心配しているんだろう」
晃がハッと顔を上げた。
「山本班長、ご存じなんですか」
山本はテーブルに届いた生中をグビリと飲むと、フウと言ってから話を続けた。
「神藤がいなくなった日に、デス博士から俺のところに電話があった。何でも、感染症予防のために隔離するんだと。だが、病気休暇じゃなくて出勤扱いにして、しかも作戦従事手当まで付けろと言ってきた。おかしな話だ。ここからは他言禁止だ、いいな。これは他の班長からの情報だが、神藤以外にも何人かの戦闘部隊員が隔離という名目で行方不明になっているらしい。医務室に行ったきり帰ってこないんだとか。しかも隔離用ブースがあるのが、兵器開発室の中らしいんだ。こりゃ、何かやっているな」
「何かっていうと?」
晃が首を傾げた。山本は周囲を見回してから、聞き取れないぐらいの小さな声で言った。
「人体実験だよ。恐らく新兵器開発用に人体実験を繰り返しているんだ」
晃は眼を見開いた。
「それじゃあ、神藤さんは」
「ああ、おそらく今頃は・・・生きてはいまい。グフフ、悪の秘密結社らしくなってきたぜ」
山本が凄みのある顔で笑った。山本は怒った顔よりも笑った顔の方が恐ろしい。晃と村木は顔を見合わせた。
「何てことだ和也さん、チャッピーのつけも払わずに・・・。村木さん、山本班長、今夜は和也さんをしのんでパアッと、いや、しんみりと、かつ、盛大にやりましょう」
「晃、受けて立つぜ。神藤の弔い合戦だ。こうなりゃ足腰が立たなくなるまで飲んでやる。あ、いつものことか。ところで今日は山本班長の奢りですよね」
「マッタク・・・分かった、俺が奢る。但し、村木、五十嵐、分かっているな。飲みすぎて体調不良で医務室に行ったら、神藤の二の舞だぞ」
晃と村木はゴクリと生唾を呑み込んだ。山本の奢りでタダ酒が飲めることへの期待なのか、人体実験に対する恐怖のためなのか、あるいは単に山本の顔が怖かっただけなのかは分からない。
カウンター席の上に天井から吊り下げられているテレビでは、アナウンサーが千葉県船橋市の東都電力中央変電所内で起きた送電用鉄塔の倒壊事故について話している。
『本日午後二時頃、千葉県船橋市の東都電力中央変電所内にある送電用鉄塔二基が倒壊しました。また、隣接するヤマト製薬株式会社の工場の一部と資料保管庫が倒れた鉄塔の下敷きになって倒壊しました。原因は調査中とのことです。この事故による停電は発生しておらず、死者や怪我人もいないとのことです。なお、鉄塔の倒壊との関連は不明ですが、現場から少し離れた商業施設の駐車場で、何かが爆発したような痕跡が残っていたとのことです。
・・・只今続報が入ってきました。ヤマト製薬株式会社の資料保管庫から運び出された資料から、同社が製造しているアルツハイマー病の特効薬について、治験データの捏造が疑われる資料が発見されたとのことです。関係者からの聞き取りにより、同社は他にも複数の薬で同様の行為を繰り返していた疑いが浮上したとのことで、捜査関係者によると、大規模な薬害事件に発展する可能性があるとのことです。それでは次のニュースです。・・・』
誰もニュースを聞いていない。チャッピーの夜はしんみりと、かつ、盛大に更けていく。明日の朝、二日酔いの晃と村木が医務室に駆け込まないことを願ってやまない。
(第三話おわり)
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